ヒーローと探偵 作:タルマヨ
東都水族館を包み込む午後の陽光は、リニューアルされたばかりの白い建物を眩しく照らし出していた。だが、その華やかな光の下で、コナンと灰原、そして少年探偵団の面々が向き合っている光景は、どこか奇妙な静謐さを孕んでいた。
ベンチに座り、所在なげに指先を絡めている銀髪の女性。彼女の記憶は、昨夜の嵐のようなハイウェイでの出来事と共に、深い霧の向こうへと消え去っていた。
「ほら、お姉さん! 喉乾いてるだろ? これ、売店で買ってきたぜ!」
元太が元気よく差し出したのは、冷えたコーラだった。女性は戸惑いながらもそれを受け取り、小さく「ありがとう」と微笑む。その柔らかな表情には、かつて組織の冷徹な一員として任務を遂行していた頃の鋭さは微塵もなかった。
「元太君、いきなり炭酸はびっくりされるかもしれませんよ。お姉さん、無理に飲まなくても大丈夫ですからね」
光彦が冷静にフォローし、女性の顔色を窺う。歩美もまた、彼女の手に自分の絆創膏をそっと貼りながら、親しげに語りかけた。
「お姉さん、少しずつ思い出せばいいんだよ。歩美たちが一緒にいるからね!」
そんな子供たちのやり取りを少し離れた場所から見守るコナンは、その眼光をいつになく鋭くさせていた。
(……身体能力だけじゃねー。あの視線の動き、ただの一般人じゃねえぞ)
先ほどから彼女を観察していて気づいたことがある。館内の案内板や、回遊水槽を照らすカラフルなライトに、彼女の視線は過敏に反応していた。単に「綺麗だ」と感じている様子ではない。何かの情報を読み取ろうとするかのように、瞳の奥が激しく動き、直後に決まって強い頭痛を訴えるのだ。
(……さっきから“色”に対する反応が妙だな。偶然じゃなさそうだ。待てよ…。昨夜、警察庁にスパイが侵入した事件と、記憶を失ったこの女……。偶然にしちゃあ出来すぎてるな)
コナンの思考が深まる一方で、灰原はさらに強い戦慄に身を震わせていた。彼女は自身の腕を固く抱きしめ、博士の背中に隠れるようにしてその女性を見つめる。
(理由なんて分からない。でも、この嫌な気配……。あの女の奥底に、私の知らない巨大な闇が潜んでいる。それは、私たちが決して触れてはいけないもの……!)
灰原は呼吸を乱しながら、隣に立つ博士の袖を強く握りしめた。博士は彼女の異変に気づき、優しく肩を抱く。
「……工藤君、やっぱり警察へ……。この人、危険だわ。何か、とてつもなく嫌な予感がするのよ……」
「……分かってる。でも、今この人を警察に引き渡せば、昨夜の事件との繋がりを洗うチャンスを失うことになる。……博士、悪いけどもう少しだけ、このまま様子を見させてくれ」
コナンは小声で応じる。博士もまた、不安そうな灰原を気遣いつつ、目の前の女性と子供たちの交流を見つめて、複雑な表情で頷いた。
その頃、水族館の喧騒から隔絶された対岸の防波堤。そこに、時代から取り残されたような一台の黒いポルシェ356Aが潜んでいた。
車内の重苦しい沈黙を破ったのは、助手席のウォッカが操作するノートPCが発する電子音だった。
「兄貴、各方面の捜索班から報告が入りましたぜ。……公安の連中も例の地点を中心に洗ってるようですが、キュラソーの足取りは依然として不明ですぜ」
ウォッカはキーボードを叩き、警察庁周辺の通信記録を次々と解析していく。彼の役割は、前線での破壊活動を支援するための「目」と「耳」だ。ジンが下す冷酷な判断を、確実なデータで裏打ちするのが彼の仕事だった。
「フン……あの女がそう簡単に死ぬかよ。だが、連絡が途絶えてから時間が経ちすぎている。裏切りか、あるいは不測の事態か……」
ジンは煙草の煙を吐き出し、窓の外を睨みつけた。
彼らの認識では、キュラソーはまだ「任務を完遂して逃走中」か「何らかの理由で潜伏中」のエージェントでしかなかった。記憶喪失という、組織にとって最も計算外の事態が起きているとは、この時点ではまだ確信していない。
「ベルモット、状況はどうだ」
ジンが無線を飛ばすと、艶やかな声が返ってきた。
『……いいえ。今のところ、外部に情報を漏らしているような形跡はないわ。……ただ、様子が変ね。あのキュラソーが子供たちに囲まれて、まるで別人みたいに大人しくしているもの。自分の置かれている立場を、全く理解していないようにも見えるわね』
ベルモットは、変装して観光客に紛れ、数メートル先を歩く一行を監視していた。
「……なんだと?」
「兄貴、どういうことですかい? キュラソーがガキ共と一緒だなんて、あり得ねえ話ですぜ」
ウォッカが驚きの声を上げる。
「……ベルモット、奴がリストの内容を記憶していることは間違いねえんだな」
『ええ。彼女の特異な色彩記憶能力があれば、あの短時間でも完璧に脳内に焼き付けているはずよ。ジン、どうするつもり?』
「……フン、使い物にならなくなった駒に用はねえが、中身が漏れるのは困る。ウォッカ、引き続き周辺の通信と公安の動きを徹底的にマークしろ。少しでも奴らがキュラソーの正体に気づく兆候があれば報告しろ。ベルモット、お前は至近距離で奴が『何を思い出すか』を監視し続けろ」
「了解しました、兄貴。……しかし、記憶がないとしたら厄介ですぜ。情報の引き出しようがねえ」
「焦るな。ラムの右腕が、そんな脆い造りなわけがねえ。……様子を見る。使えるなら回収、使えねぇなら処理だ」
ジンは冷たく言い放ち、新たな煙草に火をつけた。組織の冷徹な意志が水族館を静かに包囲し始めていたが、彼らはまだ「回収」か「処理」かの最終判断を下してはいない。今はただ、蜘蛛の巣に掛かった獲物をじっくりと観察するように、暗闇の中からその時を待っていた。
◆
「わあ……! 大きい……!」
夕暮れが迫り、観覧車のライトアップが灯り始める頃、一行は乗り場の列に並んでいた。
歩美が女性の手を握り、嬉しそうに飛び跳ねる。
「お姉さん、もうすぐだよ! 楽しみだね!」
女性は、自分の手を包む小さな温もりをじっと見つめていた。
なぜ、この子たちは自分のような正体不明の者に、こうまで優しくできるのか。
組織の中で、ただの「道具」として扱われてきた彼女にとって、それは理解の範疇を超えた事象だった。受動的に子供たちに従っているだけの彼女だったが、その瞳には、ほんのわずかながら、慈しみの光が混ざり始めていた。
「お姉さん、大丈夫ですよ。怖かったら僕の隣に座ってください。観覧車の仕組みは安全ですから!」
光彦が胸を張って案内する。
「なんだよ光彦、カッコつけやがって! 俺様が守ってやるから安心しろよ、お姉さん!」
元太が豪快に笑う。その光景を、コナンは冷静に、しかしどこか安堵したような眼差しで見守っていた。
地上では、博士と灰原が少し離れた場所から、ゴンドラへ乗り込んでいく一行を見送っていた。灰原は依然として、その背中を凝視したまま動けないでいた。
ゆっくりと、ゴンドラの扉が閉まる。
二輪式大観覧車が、その重厚な音を響かせながら、ゆっくりと回転を始めた。
乗車しているのは、コナン、元太、光彦、歩美、そして記憶を失った女性の五人だ。
上昇する視界に広がるのは、宝石のように散らばり始めた街の灯りと、その光を反射する海面。
「き、綺麗……」
女性が、誰に聞かせるでもなく呟いた。
だが、ゴンドラが頂点に差し掛かろうとしたその時、事態は急転する。
水族館全体を彩るナイトショーの演出として、巨大なサーチライトが天空を突き抜けた。赤、青、白、緑、黒。五色の光が、プリズムのようにゴンドラのガラスを透過し、彼女の網膜に直接突き刺さる。
「……ッ、あ……ああああッ!!」
突如として、女性が頭を抱えて蹲った。
観覧車の光景がゆっくりと流れるたび、視界に入る色彩が断片的な記憶を揺らし、彼女の意識の奥で何かが引っかかるような感覚だけが残っていた。
「お姉さん!? どうしたの!?」
歩美が悲鳴を上げて駆け寄る。だが、彼女の口から漏れ出したのは、呻き声ではなく、無機質な単語の羅列だった。
「……スタウト……、アクアビット……、リースリング……」
その言葉を聞いた瞬間、コナンの全身に電撃のような衝撃が走った。
(……!! 今、なんて言った……!?)
それは単なる酒の名前ではない。世界各地で活動し、組織に潜入しているスパイたちのコードネームだ。コナンは身を乗り出し、彼女の顔を覗き込む。
「……キール……、バーボン……」
「お姉さん、今のは……暗号か何かですか?」
光彦が戸惑いながらも、その言葉を記憶しようと身を乗り出す。
(まさか、この女……。記憶が戻りかけてるのか!? いや、それ以上にマズい。もしこの名前が……)
「ああぁぁぁッ!! 来ないで……! 思い出させないでッ!!」
彼女の絶叫がゴンドラ内に響き渡る。
瞳孔は開き、冷や汗が頬を伝い、激しい拒絶と混濁が彼女の精神を掻き乱している。先ほどまでの穏やかな「お姉さん」の面影は消え、そこには情報の濁流に呑み込まれた、組織の工作員としての残滓が浮かび上がっていた。
地上で見守る博士と灰原には、上空の密室で起きているこの劇的な変化はまだ伝わっていない。
だが、コナンだけは理解していた。
この観覧車が一周し、地上に降り立つ時、待っているのは平穏などではない。
運命の歯車は、もはや止まることを許されない。
上昇を終え、下降を始めたゴンドラの中で、コナンは剥き出しになった「組織」の断片を前に、拳を強く握りしめた。