ヒーローと探偵   作:タルマヨ

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聖域

深夜の警察病院。都会の喧騒を吸い込んだ巨大な墓標のように静まり返ったその場所では、一般の患者が立ち入ることさえ許されない場所――隔離病棟を巡り、目に見えない火花が散っていた。

 無機質な白い廊下、重厚な防火扉の前に立ち、鋭い眼光を走らせているのは、警視庁捜査一課の面々であった。

「……目暮警部には私から報告しておいたわ。高木君、彼女の意識は?」

 佐藤が、腕を組んでICUの強化ガラス越しに中を見据えながら問いかけた。隣に立つ高木は、手元の端末を確認しながら、小声で応じる。

「いえ、まだ深い眠りの中です。嘱託医の話では、脳にかかった負荷が想像以上に重いらしく、自発的な覚醒にはまだ時間がかかるとのことですが……」

 高木の声には、隠しきれない疲労と困惑が混じっていた。昨夜のレインボーブリッジでの惨劇。そして、東都水族館で保護されたこの「記憶を失った女性」。すべてが異例尽くしだった。

「……それにしても、不気味なくらい静かですね。まるで、嵐の前の……」

 千葉が周囲を警戒するように呟いた、その時だった。

 静寂を切り裂くように、エレベーターホールの方から複数の規則正しい足音が響いてきた。現れたのは、黒いスーツに身を包んだ一団。その先頭を歩く、眼鏡をかけた神経質そうな男――風見裕也は、佐藤たちの前で足を止めると、懐から一枚の書面を突きつけた。

「捜査一課の方々ですね。ご苦労様です。……ここからは我々が引き継ぎます」

 風見の冷徹な通告に、佐藤の眉がピクリと跳ねた。

「引き継ぐ……? どういう意味ですか、風見さん。彼女は昨夜の事件の重要参考人として、私たちが確保した身よ。身元照会もまだ終わっていないわ」

「これは警備局企画分析課の管轄事案、つまり公安の案件です。一課に開示できる情報は一切ありません。……速やかにこのフロアから退去してください」

 風見の言葉は事務的でありながら、一切の反論を許さない重圧を孕んでいた。背後に控える部下たちが、壁のように一課の刑事たちの前に立ちはだかる。

「公安……? 馬鹿な、昨夜の事故は交通捜査課から一課に回されたはずだ! なぜあなたたちが……」

 高木が食い下がろうとしたが、風見はその視線さえ合わせようとしなかった。

「……理由を知る必要はありません。これが『上』の判断です。抵抗するなら、公務執行妨害で処理せざるを得ない」

 警察組織内部に横たわる、巨大で不可視の亀裂。現場の意地と、国家の盾を標榜する秘密主義が、深夜の病院内で激しく火花を散らしていた。

 一方、その警察病院から数キロ離れた地点。

 街灯の届かない路地裏に停まった一台のセダンの中で、ジョディは無指向性マイクのヘッドセットを耳に当て、神経を研ぎ澄ませていた。

「……ボス、聞こえる? ターゲットは警察病院の14階。隔離病棟よ。……どうやら公安が介入してきたみたい。捜査一課と一悶着(ひともんちゃく)あるわね」

『了解した、ジョディ君。……赤井君の予測通り、あの大事故が組織による『スパイリストの強奪』に関わるものであれば、彼らがターゲットをこのまま放置するはずがない』

 助手席のキャメルが、ステアリングを握りながらバックミラーを注視する。

「……ボス、もし組織が強硬手段に出てきたら、我々だけで抑え込めるでしょうか。安室透……、いえ、バーボンの身柄も危うい状況です」

『……今は耐えるんだ。赤井君が別のルートから潜入を試みている。……我々の目的は、あくまでノックリストの奪還と、あの女性の身元特定だ』

 ジョディは暗闇の中で、コナンの顔を思い浮かべていた。

「ええ。……それに、あのクールキッドが察知した『コードネーム』のうわ言……。それが本当なら、今夜この病院は、世界で最も危険な戦場になるわね」

 その頃、阿笠邸の地下室。

 モニターの明かりだけが灯る静かな部屋で、灰原はコナンの予備の追跡メガネを手にし、自分の肩を固く抱いていた。部屋の隅に置かれた簡易ベッドでは、圭人が深い眠りに落ちたまま、一向に意識を戻す気配を見せていない。

 灰原は時折、その静かな寝顔に視線を向けては唇を噛む。隣では、コナンが警察病院の構造図をタブレットで確認しながら、鋭い眼光を走らせていた。

「……工藤君。本当に、あなた一人で行くつもり?」

 灰原の問いかけに、コナンはキック力増強シューズのダイヤルを締め、眼鏡の縁を触って調整しながら、短く応じた。

「ああ。……圭人がこの状態じゃ、今は俺が動くしかねーよ。博士、圭人と灰原のこと、頼むな」

 博士は眠る圭人の傍らに立ち、沈痛な面持ちで頷いた。

「分かっておる。ワシもここで、二人の様子を見守っておるよ。……しかし新一君、相手は組織の連中じゃ。……一人ではあまりに危険すぎる。圭人君が目覚めるまで待つわけにはいかんのかね」

「……バーロ。そんな悠長なこと言ってられる状況じゃねえんだよ。安室さんや水無さんの命がかかってんだ。一刻の猶予もねえ」

 コナンはポケットから、白いイルカのストラップを取り出し、その無機質な白を見つめた。それは昼間、歩美たちが眠りに就く前、「お姉さんに返してあげて」と、切なる願いと共に託されたものだった。

「……それに、これを持ってる歩美ちゃんたちの気持ちを裏切るわけにはいかねーからな」

 コナンはその小さな白いイルカをポケットに深くしまい込むと、スケボーを手に取った。意識のない圭人を一度だけ振り返り、コナンは闇夜に紛れて警察病院へと走り出した。

 

 

 

 病院の通用口は、既に風見の息がかかった公安の男たちによって固められていた。コナンは植え込みの影に潜み、探偵バッジの通信を入れる。

「……博士、聞こえるか? 病院の裏手に回った。正面は公安がガチガチだ。……地下のダクトから潜入を試みる」

『……了解した、新一君。くれぐれも無理はせんでくれ……』

 博士の不安げな声を聞きながら、コナンは通気口のボルトを緩め始めた。

 その頃、14階の隔離病棟――。

 風見が配置した部下たちの背後。ナースステーションの影に、一人の看護師が立っていた。伏せられた睫毛の奥、冷酷に光るその瞳こそが、組織の「魔女」ベルモットであった。

(……さて。公安の犬たちに噛まれる前に、あの子を回収させてもらうわよ。……エンジェルや、あの銀色の弾丸たちが嗅ぎつけてくる前にね)

 ベルモットが手に持った注射器の針が、青白い光を反射して鋭く輝いた。

 

 

 

安室は風見の報告を背中で聞きながら、ナースステーションで作業を続ける看護師――ベルモットの背中を、射抜くような視線で捉えていた。

「風見、手短に済ませろ。……彼女をいつまでもここに置いておくわけにはいかない」

「はっ。既に地下駐車場には専用の護送車を待機させています。10分後には移動を開始……」

 その言葉が終わるより早く、廊下の照明が小さく瞬いた。直後、カチャリ、という微かな音が静寂を切り裂く。

 ナースステーションにいたベルモットの手元から、白い煙が音もなく床を這った。

「っ……! 風見、伏せろ!」

 安室の声と同時に、廊下の防火シャッターがけたたましい音を立てて作動し始める。公安の男たちが動揺する隙を突き、ベルモットは手際よく薬品カートを蹴り出し、目隠し代わりに利用してキュラソーの病室へと滑り込んだ。

「……あいつ、強行突破する気か!」

 安室が即座に駆け出す。だが、その頭上――天井の排気口から、小さな影が躍り出た。

「そうはさせるかよ……!」

 着地と同時にコナンが腕時計型麻酔銃の針を放つ。それはベルモットの肩を掠め、病室のドア枠に突き刺さった。

「あら…銀の弾丸(シルバーブレッド)相変わらずお盛んね……」

 ベルモットは病室内でキュラソーを一瞥したが、即座に安室と公安の包囲網を計算に入れた。深追いは無用。彼女は懐から閃光弾を取り出し、床に叩きつける。

「……チェックメイトにはまだ早いわ」

 激しい閃光と爆音。安室たちが視界を奪われた一瞬の隙に、ベルモットは開いたままの窓から夜の闇へと身を躍らせた。

「逃がしたか……! 風見、追え!」

 安室の鋭い指示が飛ぶ。一方で、コナンは混乱に乗じて病室へ滑り込み、ベッドのキュラソーを確認した。

(……チッ、ベルモットの野郎。だが、今はこっちが先だ……!)

 コナンはポケットの「白いイルカ」を握りしめ、安室がこちらを向く前にキュラソーの状態を見極める。

 

 

 

 同じ頃、阿笠邸の地下室。

 モニターの砂嵐が映し出す青白い光の中で、灰原はキーボードを叩き、病院のセキュリティログを監視していた。隣で博士が不安げに圭人の顔を覗き込んでいる。

「……病院の電力が不安定になったわ。工藤君、始めたようね」

「……哀君、圭人君の様子はどうじゃ?」

 博士の問いに、灰原は冷徹なまでの落ち着きで答える。

「バイタルは安定しているわ。脳波のパターンも、さっきから一定の周期で覚醒へ向かおうとしている。……放っておいても、そのうち勝手に起きるんじゃないかしら。星野君のことだもの」

 灰原は表情一つ変えず、ただ画面上のデータだけを見つめていた。その指先が、圭人の覚醒を待つのではなく、彼が目覚めた後に即座に動けるよう、最善の情報を整理し続けていた。

 

 

 

 

 

 

閃光弾の残光が網膜に焼き付き、安室や風見たちが一瞬視界を奪われた、その刹那だった。

 ベッドに横たわっていたはずのキュラソーの瞳が、カッと見開かれる。左右で色の異なるその双眸には、記憶を失った者の困惑ではなく、野放しにされた猛獣のような鋭い光が宿っていた。

「……ッ!」

 コナンが声を上げる間もなかった。キュラソーは跳ね起きるような動作でベッドを蹴ると、病室に踏み込もうとしていた風見の顎を、鋭い回し蹴りで打ち抜いた。

 巨体の風見が糸の切れた人形のように吹き飛び、背後の公安捜査官たちを巻き込んで廊下に転がる。

「待て! 君はまだ……!」

 安室が視界を確保し、瞬時に詰め寄る。だが、キュラソーはその動きを完全に先読みしていた。安室の突きを最小限の動作で受け流すと、その勢いを利用して彼を壁際まで弾き飛ばす。

「……邪魔よ」

 低く、冷徹な声。

 彼女は窓枠に手をかけると、14階という絶望的な高さなど意に介さず、夜の闇へと身を投げ出した。

「おい、冗談だろ……!?」

 コナンが窓辺に駆け寄った時には、彼女は既に外壁の突起を足がかりに、人間離れした速度で階下へと降り立っていた。包囲していたパトカーの屋根を飛び越え、彼女は吸い込まれるように、遠くで五色の光を放つ東都水族館の方角へ駆け出していく。

「風見! すぐに追跡班を回せ! 逃がすな!」

「くっ……申し訳ありません、降谷さん……!」

 安室の怒号が響く中、コナンはスケボーのスイッチを入れ、静かに窓枠を飛び越えた。

(あの方角……東都水族館か! あの色の光が、彼女を呼んでるってのか……!)

 

 

 

夜の東都水族館。

リニューアルオープンを控えた園内は、試験点灯されたイルミネーションが、まるで深海のような幻想的な世界を作り出していた。

 人影のない広場。記憶の断片に苛まれ、頭を抱えてふらつくキュラソーの前に、一つの影が追いついた。

「……はぁ、はぁ……。やっと、見つけたぞ……」

 息を切らし、スケボーを抱えたコナンが、彼女の前に立ちはだかる。

 キュラソーは警戒心も露わにコナンを睨みつけるが、その目はどこか虚ろで、自分が誰なのかさえ掴みきれずにいるようだった。

「……あんた、自分を探してるんだろ?」

 コナンはゆっくりと歩み寄り、ポケットから一つの小さな塊を取り出した。

 街灯の光を反射して、それは白く、優しく輝く。

「……これ」

 差し出されたのは、昨夜、子供たちと一緒に手に入れた「白いイルカ」のキーホルダーだった。

「歩美ちゃんたちが、あんたのために選んだんだ。……『また一緒に遊ぼうね』ってさ」

 キュラソーの指先が、微かに震える。

 彼女がその白いイルカを、まるで壊れ物を扱うようにそっと受け取った、その時だった。

 背後で巨大な観覧車が、重厚な音を立てて動き始める。

 空へと昇り始めたゴンドラ。そこから見える景色に、彼女が追い求めていた「色」が、すべて揃っていた。

「……。……あ、ああ……っ!」

 彼女の脳内で、バラバラだった記憶のカードが、五色の光に導かれて一気に揃い、凄まじい濁流となって押し寄せる。

 自分が組織の「キュラソー」であること。

 潜入捜査官たちのリストを奪い、任務の途上であったこと。

 そして――自分が、決して光を浴びることのない「黒」の住人であること。

 記憶を取り戻した彼女の瞳から、一瞬にして迷いが消えた。

 だが、その手の中には、まだ温かいコナンの差し出した「白」が、強く握りしめられたままだった。

(これで……全部思い出したはず…。なのに……どうして……)

 キュラソーが空を見上げた、その直後だった。

 上空から、夜の静寂を切り裂く巨大なローター音が近づいてくる。

 死を運ぶ大型機、V-22 オスプレイが、黒い巨体となって水族館を飲み込もうとしていた。

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