ヒーローと探偵 作:タルマヨ
疑惑の目
放課後の喫茶ポアロ。西日に照らされた店内に、蘭と園子の明るい笑い声が響いていた。
「もう、安室さんの新作サンドイッチ、最高に美味しいわ!」
「はは、そう言っていただけると作り甲斐がありますよ、園子さん」
安室は爽やかな笑みを浮かべ、空いた皿をトレイに載せる。その視線は、さりげなくテーブルの端に座る圭人と、その隣でじっと彼を観察している世良へと向けられていた。
カウンターの隅では、コナンが心ここにあらずといった様子でジュースを飲んでいる。
「……なあ星野君。さっきから思ってたんだけどさ」
世良がニヤリと不敵な笑みを浮かべ、圭人の顔を覗き込むように身を乗り出した。
「君の動き……昨日の体育の時間もそうだったけど、無駄がなさすぎるんだよね。まるで、次に何が起きるか知っているみたいにさ」
「……何それ。真純さん、考えすぎだって。俺はただ、博士の家で重い機材の搬入を手伝わされたりして、人より少し体力があるだけだよ」
圭人は世良に対し、柔らかいタメ口で受け流す。隣で蘭が「そうかなぁ、圭人は昔からちょっと運動神経が良いだけだよ」とフォローを入れるが、世良の瞳は笑っていない。
「そうかな? ボクの勘だと……君はもっと別の、想像もつかないような『圧倒的な何か』と戦い慣れているように見えるんだけどねぇ」
世良の言葉に、安室の動きが一瞬止まった。
(……世良真純。あの女がここまで食いつく以上、この星野圭人という男、ただの善良な市民というわけじゃなさそうだな……)
安室はトレイを握る手にわずかに力を込め、その視線は獲物を定めるように圭人の背中に固定された。
コナンは冷や汗を拭いながら、必死で話題を逸らそうと口を開く。
「あ、あはは! 世良の姉ちゃん、考えすぎだよ! 圭人兄ちゃん、この前だって高いところの荷物取ろうとして、足滑らせて転びそうになってたもん!」
だが、その時だった。
厨房から出てきた梓が、床に置いてあった補充用の重い缶詰の箱に躓き、派手にバランスを崩した。
「わわっ! ちょっと、誰か止めてー!」
厨房から出てきた梓が、床に置かれた補充用の重い缶詰の箱に足を引っかけ、派手に体勢を崩した。その手から滑り落ちた金属製トレイが、鋭いエッジを回転させながら世良の喉元を目がけて飛ぶ。
(っ……!)
圭人の網膜が、トレイの描く死の軌道を捉える。
「光の戦士」としての反射神経が、脳が命令を出すより早く、最小限の動きでトレイを叩き落とす最適解を弾き出した。
だが。
圭人は、世良の瞳が自分から逸れていないことに気づく。彼女は飛んでくるトレイの恐怖よりも、圭人が「どう動くか」をその目に焼き付けようと凝視しているのだ。
ここで「速すぎる反応」を見せれば、安室には公安のマーク対象として、世良には正体への決定的な鍵として握られることになる。
圭人は、爆発しそうになる筋肉の躍動を、超人的な意志で強引にねじ伏せた。
あえて、一般人が驚き、硬直する「ラグ」を自分に課す。
「うわぁっ!?」
圭人はワンテンポ遅れて叫び、不器用に椅子を蹴り飛ばしながら立ち上がった。
反射でトレイを掴むのではなく、慌てて世良を突き飛ばそうとして自分の足を椅子の脚に引っ掛け、わざとバランスを崩す。そして、世良の肩を「偶然手が当たった」かのように強く押し込み、自分もろとも床へ転げ落ちた。
キンッ! ガシャン!!
トレイは世良がいた場所の背後の壁を叩き、床で虚しく回転した。
「あ、あわわ……ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
安室に支えられた梓が、顔を真っ青にして駆け寄る。
「大丈夫ですよ、梓さん。ボクはね……」
世良は床に座り込んだまま、自分を庇うように倒れ込んでいる圭人をじっと見つめていた。
「ちょっと圭人! 大丈夫!? 派手に転んだけど……」
「星野君! 怪我はない!?」
蘭と園子が椅子を蹴るようにして立ち上がり、慌てて圭人のもとに駆け寄る。
「痛たた……。あ、ああ……悪い真純さん、驚いて突き飛ばしちゃって……。蘭、俺は平気。ちょっと腕を擦っただけだから」
圭人は情けない笑みを浮かべ、あえて「鈍臭い高2」を演じるように腕をさすった。
「もー、梓さんも気を付けてよぉ! 安室さんの自慢のトレイが凹んじゃったじゃない!」
園子が床のトレイを拾い上げ、わざと明るく振る舞って場の空気を和らげようとする。
「星野君、動かないで。すぐに救急箱を持ってくるよ」
安室はいつもの爽やかな店員の顔に戻り、素早い足取りで奥へと向かった。戻ってくると、圭人の隣に椅子を引き、その腕を「検分」するように取った。
「星野君、君……昨日の体育の授業でもそうだったけど、今の『ラグ』、不自然だったね」
世良が、獲物を追い詰めるような足取りで近づいてくる。
「え? 何が?」
「梓さんがバランスを崩した瞬間、君の肩は数ミリ反応していた。なのに、実際に動いたのはトレイがボクの鼻先に迫ってからだ……まるで、『遅れて動く自分』を演じていたみたいにね」
世良の鋭い指摘に、蘭と園子が顔を見合わせた。
「ええっ? 世良ちゃん、何言ってるの? 圭人はただ、慌てて世良ちゃんを助けようとしただけでしょ?」
蘭が不思議そうに首を傾げると、コナンがわざとらしい子供の口調で割って入った。
「そうだよ世良の姉ちゃん! 圭人兄ちゃんがわざと遅れるわけないよ! 圭人兄ちゃん、この前だって高いところの荷物取ろうとして、足滑らせて転びそうになってたんだから」
「コナン君…それはさっきも聞いたよ」
「あ、あれ…そうだった?」
コナンは必死に場の空気を変えようとするが、安室の手が圭人の腕を消毒する動作のまま止まった。
「……そうだね。星野君の反射神経が、僕たちの想像以上に優れている可能性は……否定できないかな」
安室の瞳の奥で、バーボンとしての冷徹な観察眼が光る。
「腕を触らせてもらったけど……君、これだけ柔らかい筋肉をしていながら、体幹の軸が全くぶれていない。よほど効率的な動きを体に叩き込んでいないと、こうはならないよ」
「ちょっと、安室さんまで! 星野君がそんなすごい人なら、今ごろスポーツの特待生にでもなってるわよ!」
園子が笑い飛ばそうとするが、安室と世良の視線は圭人から離れない。
「……二人とも、買いかぶりすぎだよ。さっきも言ったけど、俺、ただ博士の家の重い荷物を運ぶ時に、腰を痛めないようにコツを教えてもらっただけで。トレーニングなんて、そんなカッコいいもんじゃないって」
圭人は苦笑いを浮かべ、包帯を巻かれた腕を蘭に見せた。
「ほら蘭、安室さんに綺麗にしてもらったから、もう大丈夫。……そろそろ帰るよ。博士の夕飯の準備も手伝わないといけないし」
逃げるように席を立った圭人の耳元で、世良がすれ違いざまに囁いた。
「……次は、もう少し手加減してあげるよ。星野君……いや、『君の真の姿』」
圭人は心臓が跳ね上がるのを抑え、振り向かずに店を出る。
後ろから続くコナンの足音が、いつもより重く響いていた。
圭人は軽く手を振ると、逃げるようにポアロのドアを開けた。カランカランと乾いたベルの音が響く。
「あ、待って圭人兄ちゃん! 博士の家に新しいゲームが届いてるって言ってたから、僕も一緒に見に行くんだ!」
コナンが慌てて椅子から飛び降り、蘭に「蘭姉ちゃん、今日は博士の家に泊まるからね!」と叫んで圭人の後を追った。
世良や安室の鋭い視線から、少しでも早く圭人を引き剥がし、状況を整理する必要がある。コナンは短い足で圭人の隣に並び、二人は無言のまま米花町の夕暮れ時を歩き出した。
人通りの少ない路地に入ったところで、コナンが周囲を警戒しながら口を開いた。
「……危なかったな、圭人」
「ああ、死ぬかと思ったよ。イチ……。あのトレイを光の速さで叩き落としたい衝動を抑えるのが、あんなに大変だとは思わなかった」
圭人は包帯を巻かれた左腕を見つめ、溜息をついた。
「真純さん、完全に俺を疑ってるなぁ。あえて自分の身を危険にさらしてまで、俺の『反射』を引き出そうとするなんて……」
「世良だけじゃねぇ。安室さんもだ。あの人、お前の腕の筋肉を触りながら、完全に『プロ』の質感を確かめてたぜ。普通の高校生じゃありえねぇ体幹の強さも、既に見抜かれてる」
コナンは眉間に皺を寄せ、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「オメーの『不自然な不器用さ』が、逆に奴らの探偵本能に火をつけちまったみたいだな」
「悪い……。でも、あそこで完璧に動いたら、それこそ明日には公安かFBIの取調室送りだろ?」
「バーロ、それだけで済めば御の字だ。正体がバレりゃ、お前だけじゃなく博士や灰原まで巻き込まれる。……いいか圭人、当分はポアロに近寄るな。世良の前でも、徹底して『ちょっと運が良いだけの帰宅部』を貫き通せ」
「わかってるよ。……でも、あんなに真っ直ぐ疑いの目を向けられると、隠し通せる自信がなくなってくるな」
圭人は苦笑いしながら、夕闇が迫る空を見上げた。
自分が守るべき「日常」と、背負ってしまった「光」の重み。その境界線は、今、かつてないほどに薄く、脆くなっていた。
阿笠邸に到着し、居間の扉を開けると、白衣姿の灰原がコーヒーカップを手にソファに座っていた。
「……あら、二人とも。随分と派手な『敗北感』を背負って帰ってきたじゃない?」
灰原の冷ややかな、だが鋭い瞳が、圭人の腕の包帯に向けられた。
「あ、ああ。ただいま、志保さん……」
「邪魔するぜ、灰原。博士は?」
コナンが靴を脱ぎながら周囲を見渡すと、奥の作業場から「おー、おかえり」と博士が顔を出した。
「おや圭人君、その腕はどうしたんじゃ?」
「いや、ポアロでちょっと……」
圭人が言葉を濁しながらソファに腰を下ろすと、灰原がカップを置き、じっと圭人の腕を観察し始めた。
「星野君、その包帯……ずいぶん手際がいいわね。まるでプロが巻いたみたい。ポアロにいたのなら、あの店員さんにでもやってもらったのかしら?」
「え、ああ。安室さんに消毒してもらったんだ。梓さんが転びそうになって、それを助けようとして俺も転んじゃってさ」
圭人が説明すると、隣でコナンが苦々しい顔で付け加えた。
「それだけじゃねーんだよ。世良まで居合わせやがって……。二人して、圭人の『反射』にケチをつけてきやがった」
「……なるほどね」
灰原は合点がいったように頷き、髪を耳にかけた。
「女子高生探偵と、あのキレ者の店員……。二人に同時に目をつけられたというわけ。道理で、二人ともそんなお通夜みたいな顔をしているはずだわ」
「安室さんもなのかい?」
博士が驚いて声を上げる。
「うん。安室さんは、俺の筋肉や体幹を触ってまで確かめてきたんだ。真純さんは、俺が『あえて遅れて動いた』ことを見抜いてるし……。志保さん、俺、完璧に隠したつもりだったのに、全然ダメだったよ」
圭人がソファに深く沈み込み、肩を落とすと、灰原は少しだけ表情を和らげ、だが厳しい口調で言った。
「星野君。あなたがその反射神経を完全に殺しきることなんて、土台無理な話なのよ。その体には、あなたの意志より早く動く『光』が宿っているんだから」
「それが一番難しいことだって、まだ気づかねぇのか? 圭人」
コナンが真剣な表情で圭人を見つめた。
「オメーが『光』である以上、奴らの好奇心という闇からは逃げられねぇ。……灰原、何かいい案はないか? 星野圭人という男を、これ以上疑わせないための『設定』がよ」
灰原は少し考え込むように視線を落とした後、不敵な笑みを浮かべた。
「そうね……。いっそ『武道の経験者』という肩書きを公式に持たせるのはどうかしら? もちろん、ただの空手や柔道じゃないわ。もっと、あなたの『異常な動き』を説明できるような……。例えば、古流武術の通信教育でも受けていることにすれば?」
「通信教育でそんな動きができるようになるかな?……」
圭人が呆れたように言うと、灰原はニヤリと笑った。
「いいえ。大事なのは実力じゃなくて、『本人はそのつもりで修行している』という既成事実よ。周囲に『なぜ動けるのか』と問われたとき、あなたが変に隠そうとするから怪しまれるの。堂々と『独学で鍛えているからだ』と答えれば、彼らは勝手に深読みしてくれるわ。……『誰に教わったのか』という、存在しない師匠の影を追ってね」
「なるほどな……。わざとらしい『隠蔽』を『変人のこだわり』にすり替えるわけか」
コナンが感心したように頷く。
「ま、それ相応の資料をあなたの部屋に揃えておく必要があるけれど。博士、古めかしい武術の伝来本みたいな偽造、お願いできるかしら?」
「ワシに任せんかい! 圭人君が怪しまれないためなら、一肌脱ぐぞい! ネットオークションで買った掘り出し物の古書に見えるよう、細工してやるわい」
博士が鼻息荒く作業場へ戻っていくのを見送りながら、圭人は包帯の巻かれた腕を見つめた。
「……武術オタク、か。うまくいくといいけど」
「やるしかねぇだろ。明日、学校で世良に会ったら、さっそくその空気を出しとけよ」
コナンが釘を刺すように言うと、圭人は小さく頷いた。