ヒーローと探偵   作:タルマヨ

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欠落する瞬き

 帝丹高校の午後の空気は、どこか緩慢で眠気を誘う。窓から差し込む西日が、古い校舎の廊下や教室の床に長い影を落としていた。

だが、窓際の席に座る圭人の背筋は、授業が始まってから一度も緩むことはなかった。

黒板の前では、国語教師の一ノ瀬が教科書を手に、淡々と夏目漱石の文章を読み上げている。三十代半ば、整った顔立ちに眼鏡をかけた知的な女性だ。生徒たちからの信頼も厚く、その声は心地よいリズムを刻んでいる。

しかし、圭人の目に映る彼女は、あまりにも「異質」だった。

(……一ノ瀬先生)

圭人は無意識に拳を握りしめる。

五感が、そして彼の中に宿る「光」の感覚が、激しい警報を鳴らしていた。

一ノ瀬が教科書をめくる。その指先の動き、首の角度、立ち居振る舞い。すべてが完璧な「一ノ瀬」を演じているが、決定的な何かが欠けている。

瞬きだ。

授業が始まってから十五分。彼女は一度もその瞼を閉じていない。乾燥するはずの眼球は、ガラス細工のように無機質な光を反射し続けている。それだけではない。教科書を読み上げる合間、一瞬の休符があっても、彼女の胸が上下することはなかった。呼吸をしていないのだ。

(人間じゃない……。ナノマシンの集合体が、先生の姿を模倣しているのか?)

圭人は息を呑む。ゾルブ。その擬態知性体の名が脳裏をよぎる。奴らは標的のデータを読み取り、内側から「置換」する。今、教壇に立っているのは、一ノ瀬であって、一ノ瀬ではない別の「何か」だ。

「――なぁ、星野君」

不意に、すぐ近くから飛んできた低い声に、圭人の肩が跳ねた。

視線を向ければ、隣の席で頬杖をついた世良が、獲物を見つけた狩人のような目でこちらを覗き込んでいた。

「さっきから随分と熱心に一ノ瀬先生を見てるじゃないか。いくら綺麗な先生だからって、瞬きも忘れるほど見惚れるなんて……君らしくもないね」

世良の口角が不敵に吊り上がる。彼女の観察眼は、圭人が抱いている「疑念」の正体こそ掴んでいないものの、彼が「何か」に気づいていることだけは正確に看破していた。

「……いや、真純さん。ちょっと考え事をしてただけだよ。先生の解説が分かりやすくてさ」

圭人は努めて平静を装い、視線を黒板へと戻した。だが、世良の視線は外れない。

「へぇ、考え事ねぇ……。でも、君のその目。ただの考え事にしては、少しばかり『鋭すぎる』気がするんだけど? まるで、獲物の隙を伺う武道家……あるいは、未知の怪物に直面した戦士のような目だ」

世良の言葉に、圭人は冷や汗が流れるのを自覚した。

世良は探偵だ。それも、極めて直感に優れた部類の。彼女の前で不自然な挙動を見せることは、自らの正体、あるいはこの異常事態に踏み込まれるリスクを孕んでいる。

「買いかぶりすぎだよ。俺はただの武道オタクだからね。先生の姿勢が綺麗だな、なんて思ってただけさ」

「姿勢、ね……。確かに一ノ瀬先生の立ち姿は凛としているけど」

世良は一度前を向き、一ノ瀬の背中をじっと見つめた。その瞬間、世良の眉が僅かに動く。彼女ほどの観察眼があれば、一ノ瀬の「呼吸のなさ」や「瞬きのなさ」に違和感を抱くのも時間の問題かもしれない。

(まずい。真純さんまで巻き込むわけには……)

 

 

 

授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。

一ノ瀬は機械的な動作で教本を閉じ、一言も余計な雑談を交わすことなく教室を後にした。その歩き方は、あまりに合理的で、無駄がなさすぎた。

圭人が立ち上がろうとした瞬間、世良が先に席を立った。

「真純さん? どこへ行くんだ」

「決まってるじゃないか。君がさっきから気にしていた『姿勢の良い』先生に、少し質問をしに行くだけだよ」

世良は背中で軽く手を振ると、迷いのない足取りで廊下へと消えていった。一ノ瀬を追うつもりだ。

「おい、待てよ!」

圭人の制止も虚しく、世良の姿は人混みに紛れて見失う。

最悪の展開だ。一ノ瀬がもし本当にゾルブに置換されているのだとすれば、その「正体」に近づこうとする者は、例外なく排除の対象になる。

(…クソッ!今は俺が真純さんを止めないと!)

圭人はカバンを掴むと、教室を飛び出した。

夕暮れに染まり始めた校舎内。人影がまばらになり始めた廊下に、圭人の足音が激しく響く。

一ノ瀬は職員室へ向かうはずだが、彼女が「中身」をゾルブに置き換えられた異物であるなら、向かう先は別にある。情報の集積地か、あるいは人目を避けて「同胞」と接触できる場所。

圭人がたどり着いたのは、旧校舎へと続く連絡通路だった。

そこには、立ち止まって中庭の暗がりを凝視する世良の姿があった。

「真純さん!」

「しっ、静かに」

世良は振り返らずに指を唇に当てた。彼女の視線の先、人気のない校舎裏の倉庫前で、一ノ瀬が一人、立ち尽くしている。

彼女は何もしていない。ただ、夕闇の中で直立不動のまま、空を見上げている。

だが、その肌の表面が、夕日に反射して不自然に輝いた。

「……なぁ、星野君。君にも見えるだろ?」

世良が声を潜めて囁く。

「先生の首筋……あんなところに、銀色の『鱗』なんてあったかな」

世良が指摘した箇所。一ノ瀬の襟元から覗く白い肌の上に、微細な銀の粒子が、波打つように蠢いていた。それはまるで、意思を持った砂が皮膚の下で蠢動しているかのようだった。

その瞬間、一ノ瀬が、ギギ、と異音を立てて首を真後ろに回転させた。

人間には不可能な角度。

無機質な瞳が、物陰に潜む圭人と世良を真っ向から捉える。

「……観測者。……排除、対象。……データ、抽出を開始シマス」

一ノ瀬の口から漏れたのは、彼女の声でありながら、幾重にも重なった電子ノイズのような不快な響きだった。

「なっ……!?」

世良が驚愕に目を見開く。

一ノ瀬の肉体が、音を立てて膨れ上がり、その皮膚を突き破って銀色の砂が溢れ出した。

一ノ瀬だったモノの皮膚が裂け、内側から溢れ出した銀色の砂。それは意思を持っているかのように空中で渦を巻き、夕闇の中で不気味な鈍色に輝いた。

「なっ……何だい、これ……っ!?」

世良が驚愕の声を上げ、反射的に数歩後ずさる。探偵として、武道家として、彼女は数々の修羅場を潜り抜けてきたはずだ。だが、目の前で起きている「人体が崩壊し、無機質な砂に置換される」という超常現象は、彼女の理解の範疇を遥かに超えていた。

一ノ瀬の顔は、すでに半分が銀色のナノマシンに覆われ、残された右目だけが、焦点の合わない虚ろな光を放っている。

「……情報、不足。……観測、サンプル、トシテ……不適切。……排除、開始シマス」

ノイズ混じりの声が響いた瞬間、一ノ瀬の右腕が鋭利な刃物のような形状へと変質し、凄まじい速度で世良へと振り下ろされた。

「真純さん、危ないっ!」

圭人が叫び、咄嗟に世良の身体を突き飛ばす。

直後、コンクリートの壁が紙細工のように切り裂かれ、激しい火花が散った。

「くっ……! 星野君、大丈夫かい!?」

地面を転がって体勢を立て直した世良が、鋭い目つきで一ノ瀬を睨み据える。彼女は恐怖を押し殺し、その身に宿る截拳道の構えをとった。

「わけがわからないけど……このままやられるつもりはないよ!」

「待って、真純さん! 相手は人間じゃない、まともに戦っちゃ駄目だ!」

圭人が制止するが、世良の闘争心に火がついていた。彼女は鋭い踏み込みと共に、一ノ瀬の懐へ飛び込む。電光石火の突きが、一ノ瀬の腹部を捉えた――はずだった。

だが、拳が触れた瞬間、一ノ瀬の肉体は粘土のように形を崩し、世良の手首を絡め取った。

「……ッ!? 離せ!」

「検体……確保。……構造、解析、開始……」

一ノ瀬の身体から伸びた銀色の触手が、世良の腕を伝い、彼女の肩へと這い上がる。それは世良の生体データを読み取ろうとする、ゾルブ特有の「置換」への予備動作だ。

(まずい、このままじゃ真純さんまでデータ化される……!)

圭人の胸の奥で、光の感覚が激しく脈打つ。

今ここで自分が「何か」をしなければ、世良の命……いや、彼女という存在そのものが、この世から消えてしまう。

(変身するしかないのか……。でも、真純さんの目の前で……!しかし、このままじゃ彼女までデータ化される……!)

圭人の胸の奥で、光の感覚が激しく脈打つ。

今ここで自分が「何か」をしなければ、世良の命……いや、彼女という存在そのものが、この世から消えてしまう。

(変身するしかない。彼女の目の前だろうが……ここで誰も失うわけにはいかないんだ!)

圭人は覚悟を決め、スパークレンスを強く握りしめた。だが、世良の視線はまだ自分と一ノ瀬の間に釘付けになっている。この至近距離で変身すれば、光に包まれる自分の姿を確実にその目に焼き付けられることになるだろう。

「真純さん、目を閉じて!」

「えっ……? 星野君、何を――」

「いいから、早く!」

圭人の悲痛な、そして命令に近い叫びに、世良は一瞬戸惑いを見せた。しかし、圭人の瞳に宿る尋常ならざる決意に圧されたのか、彼女はその瞳を強く閉じた。

彼女を信じ、圭人は迷いを断ち切る。

(頼む、間に合ってくれ……!)

圭人は世良の視界に入らない角度へと一歩踏み出し、懐からスパークレンスを抜き放ち、天へと掲げた。

夕闇の校舎裏。世界の時間が止まったかのような静寂の中で、黄金の翼が展開し、溢れんばかりの「光」が解き放たれる。

その光は、ゾルブの冷徹な銀色を塗り潰し、辺り一帯を白銀の世界へと変えた。

「――ッ!?」

目を閉じていてもわかるほどの強烈な輝きに、世良が息を呑む。

ナノマシンの触手が、光の圧力に耐えかねたように世良の手首を弾き飛ばした。

光の中で、圭人の姿が変質していく。

それは人間が作り出したどんな兵器よりも気高く、どんな闇よりも深い輝きを放つ、光の戦士の姿。

《……逃がさない》

エコーの掛かった、重厚な声。

一ノ瀬の姿を借りたゾルブが、警戒するように全身の銀色を波打たせる。

「……光、線。……脅威、レベル……最大」

強烈な閃光が収まり、世良がおそるおそる瞼を持ち上げた。その瞬間、彼女は言葉を失った。

「……え……?」

そこに「星野圭人」の姿はなかった。

彼女の目に映ったのは、闇に包まれた校舎裏で、自分と一ノ瀬の間に割って入るように立つ「光り輝く影」の後ろ姿だった。

人の形をしてはいるが、明らかに人間ではない。

その身体からは、先ほどまでの絶望的な冷気とは真逆の、温かくも力強い拍動が伝わってくる。

「君は……誰だい……?」

世良の問いかけに、その影が答えることはない。

ただ、その背中越しに圭人の声が聞こえたような気がして、世良は周囲を何度も見渡すが、相棒であるはずの少年の姿はどこにも見当たらなかった。

《下がっていてくれ》

頭の中に直接響くような、重厚な声。

それが圭人のものだと確信する間もなく、光の影は爆発的な踏み込みを見せ、驚くべき怪力で一ノ瀬を掴み上げた。

空気が爆ぜるような音と共に、光の影は一ノ瀬を連れて、垂直に夜の空へと飛び上がった。

後に残されたのは、腰を抜かしたまま立ち尽くし、ただ呆然と空を見上げる世良と、静まり返った校舎裏だけだった。

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