ヒーローと探偵 作:タルマヨ
24時間の宣誓
阿笠邸の地下ラボには、どこか現実味のない静寂が漂っていた。
換気扇の規則的な回転音だけが、ここが絶え間なく時間の流れる世界であることを辛うじて証明している。
「いいんじゃな? 哀君」
博士が、隣に立つ少女——灰原へ、案じるように声をかけた。
その視線の先、実験用テーブルの上には、一錠の小さなカプセルが置かれている。白と青の冷たい色彩。それが、数多の運命を狂わせ、今なお多くの命を縛り続けている毒薬『APTX4869』の、試作解毒剤だった。
「ええ……。工藤君にこれ以上の無茶はさせられないわ。彼の身体には、既にかなりの耐性ができ始めている。次に使う時が、本当に彼を元の姿に戻す最後の一錠になるかもしれない……。だから、その前に私自身が被験者になって、データの最終確認を行う必要があるのよ」
灰原の声は、驚くほど冷静だった。博士の前であろうと、そこに圭人がいようと、彼女は迷いなく『工藤君』の名を呼ぶ。その言葉の端々には、同じ宿命を背負った彼に対する、科学者としての、そして一人の協力者としての深い信頼が滲んでいた。
しかし、その小さな指先がわずかに震えているのを、隣に立つ圭人は見逃さなかった。
「……志保さん、本当にやるのか? 君が一番分かってるはずだろ」
圭人の声はどこまでも柔らかかった。これから起こる変化が、彼女の肉体にどれほどの負荷を強いるか。圭人はその危うさを、誰よりも肌で感じていた。
灰原は圭人を、少しだけ悲しそうに、けれど不敵な色を湛えた瞳で見上げた。
「科学者として当然の義務よ、星野君。……それに、いつまでもこの姿で甘えているわけにはいかないもの」
彼女は、博士が用意したパーテーションの内側へ入った。身体が膨張し、子供服が引き裂かれる瞬間の無防備な姿を晒さぬよう、厚手の特大シーツをその身に纏う。
彼女は迷いなく、カプセルを口に含んだ。
直後、ラボの空気が震えるほどの悲鳴が上がった。
「……っ、あああああ!!」
パーテーションの向こう側で、シーツを握りしめる彼女の指が白く浮き出る。凄まじい発熱。骨の一本一本が作り替えられ、肉が沸騰するような劇痛。圭人はパーテーションの入り口で、必死に彼女の背中側からシーツを抑え、その身体を支えた。
「志保さん、しっかり! 志保さん!」
「哀君! グラフが……っ、耐えるんじゃ!」
博士の叫びと、圭人の掌に伝わる異様なまでの熱。幼児の身体が、本来の「17歳の宮野志保」へと無理やり拡張されていくその衝撃は、支える圭人の腕を弾き飛ばさんばかりだった。圭人は奥歯を噛み締め、その苦痛の奔流を共に耐え抜くように彼女を抱き留め続けた。
やがて、熱気が霧のように引いていく。
パーテーションの奥から、荒い呼吸と共に、一人の女性が立ち上がった。博士が差し入れた予備の白衣をシーツの上から羽織り、彼女は静かに姿を現した。
「……成功、ね。ひとまず24時間は……維持できるはずよ」
志保は乱れた赤茶色の髪をかき上げ、自身の掌を見つめた。その声は、灰原のそれよりも幾分低く、大人の女性の響きを持っていた。
「よかったわい……。ひとまず、上(リビング)へ行こうかの。データの計測はワシのパソコンでもできるわい」
三人は地上への階段を上がり、リビングへと移動した。
地下の冷えた空気とは違う、暖かな午後の光が差し込む部屋。だが、そこに「宮野志保」が座っているというだけで、見慣れたリビングは全く別の、ひりついた空間に変わっていた。
「……計測には、しばらく時間がかかるわね。今のうちにできる限りの数値を抽出しておきたいの」
志保はソファーに深く腰掛け、ノートパソコンを膝に置いた。白衣の裾から伸びるしなやかな脚。灰原の時には見ることのなかった、完成された女性のライン。
博士が紅茶を淹れながら、時計を確認する。
「しかし、データの解析にはワシも付き合うが、夕方からは町内会の寄り合いに行かねばならのじゃ。それから泊りがけで知人の家にも行かねばならん…。しばらく家を開けるが、すまんのぉ。哀君……いや、志保君。無理は禁物じゃぞ」
「えぇ…分かっているわ、博士」
「管理は、圭人君。頼めるかの?」
「うん、分かったよ。博士……気をつけて」
博士は、後ろ髪を引かれる思いで玄関へと向かっていった。
扉が閉まる音が響き、リビングには圭人と志保の二人だけが取り残された。
沈黙が流れる。
圭人は、向かいの椅子に座り、手元のサブモニターを見つめていた。だが、意識はどうしても、正面にいる「彼女」へと向いてしまう。
「……星野君。さっきから手が止まっているわよ」
志保が顔を上げることなく告げた。その目は冷静に画面の数値を追っている。
「……あ、ごめん。ちょっと、見慣れない数値があったから」
「そう。……それとも、私の姿がそんなに珍しいかしら?」
志保がふっと視線を上げた。
同じ高さ。
いつもなら、彼女の頭頂部を見下ろしている。守るべき、小さな背中を見守っている。だが今、圭人の瞳に映るのは、自分と対等な視線を持つ、一人の美しい女性だった。
白衣の隙間から覗く白い首筋、少しだけ大人びた唇。彼女が息を吐くたび、微かに漂うその香りが、圭人の鼓動を狂わせる。
(ダメだ……。直視できない。灰原哀の姿の時には、あんなに近くにいられたのに……)
圭人は不自然に視線を逸らし、淹れたての紅茶に口をつけた。
「……志保さん。体調は、どう?」
「今のところは安定しているわ。……工藤君が言っていた通りね。あの『燃えるような感覚』の後に来る、この奇妙な全能感。身体が自分のものでありながら、どこか借り物のような……」
彼女は自嘲気味に微笑んだ。
「ねえ、星野君。あなたは、どちらの私を望んでいるの?」
「えっ……?」
「この、組織にいた頃の忌まわしい姿か……。それとも、あなたの隣で子供の振りをしている、あの偽りの少女か」
志保の問いは、静かだが鋭かった。彼女はパソコンを閉じ、真っ直ぐに圭人を見つめた。
「……どちらも、志保さんだよ」
圭人は柔らかい口調で、けれど迷わずに答えた。
「姿が変わっても、君は君だ。君が工藤……イチを助けようとしてることも、ここで博士と笑ってることも。全部、宮野志保っていう一人の女性の心だろ?」
志保は一瞬、意表を突かれたように目を見開いた。そして、ほんの少しだけ、頬を朱に染めて視線を落とす。
「……相変わらずね、あなたは」
夜が更けていく。
二人はリビングで、データの整理を続けながら、時折、他愛のない話をした。組織のことでも、解毒剤のことでもない、今の学校の友達のことや、博士の失敗談。
大人の姿で、子供の日常を語る志保。その歪な、けれど愛おしい時間が、二人の距離を少しずつ、着実に縮めていった。
だが、時間は残酷なまでに正確に刻まれていく。
日付が変わり、未明。
リビングの時計が、服用から24時間を告げようとしていた。
「……っ」
志保が突然、胸を押さえて前のめりになった。
ノートパソコンが床に滑り落ち、鋭い音が響く。
「志保さん!」
圭人は椅子を蹴って立ち上がり、彼女の肩を抱き寄せた。尋常ではない熱。再構築の時とは違う、今度は「収縮」へのカウントダウンが始まったのだ。
「……はあ、はあ……。来たわね……。星野君、離れて……」
志保は苦悶に顔を歪めながら、圭人の手を振り払おうとした。
「もうすぐ、私はまた……あの小さな姿に戻る。……見ないで。こんな無様な姿……」
彼女はふらつく足取りで、部屋の隅に置かれたパーテーションの裏へ向かおうとする。身体が熱を帯び、白衣が内側から燃えるように熱くなっていく。
その時、圭人の心に、言いようのない喪失感と焦燥が突き上げた。
この24時間、彼女と同じ高さで向き合い、一人の女性としての彼女を感じてきた。
その彼女が、また「守られるだけの子供」という殻の中に消えてしまう。
その前に、今この姿の彼女に、どうしても伝えなければならないことがあった。
「……志保さん!」
圭人は、逃がさないという強い意志を込めて、パーテーションに手をかけた志保の右腕を、がっと強く掴んだ。
「……っ、星野君……!? 放して、もう、身体が……!」
志保が驚き、そして悲痛な声を上げる。
だが、圭人は離さなかった。
掴んだ腕から伝わるのは、再構築を目前にした激しい鼓動と、圭人の「17歳の男」としての、剥き出しの熱量。
「聞いてくれ、志保さん。……俺は」
それは、ヒーローとしてではなく、一人の男として、彼女と向き合うための覚悟だった。
彼は志保の瞳を真っ直ぐに射抜き、声を絞り出した。
「……全部片付いて、君が本当に元の体に戻れたら……。その時は、俺に……君を隣で支えさせてくれないか」
宣誓だった。
いつか来る「本当の未来」への。
志保の瞳が、激しく揺れた。
苦痛に歪んでいたはずの彼女の表情が、驚きと、それから、今まで見せたことのないような柔らかな光に包まれる。
掴まれた腕から伝わる体温が、熱い。けれど、それは薬の熱ではなく、圭人の心の熱だった。
「星野……君……」
彼女が何かを答えようとした、その瞬間。
「ただいまー! いやあ、今日は寄り合いが本当に長引いてしもうた! 圭人君、哀君、無事かの?」
玄関から響く、博士の能天気な声。
張り詰めていた空気が、まるで割れたガラスのように、一瞬で砕け散った。
圭人は、弾かれたように志保の腕を離した。
「……あ、博士」
圭人の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
志保は、赤くなった自分の右手首を左手でそっと押さえ、伏せ目がちに、けれど、どこか熱を帯びた眼差しを圭人に向けた。
「……続きは、元の体に戻った時の楽しみにしておくわ。星野君」
彼女は最後、宮野志保の微笑みを残し、パーテーションの裏へと消えた。
直後、青白い光が部屋を満たし、白衣が床に滑り落ちる衣擦れの音が響く。
「圭人君? 何をボーッとしておるんじゃ?」
博士がリビングに入ってくる。
圭人は、空を切った右手のひらを、強く握りしめた。
そこには、今しがたまで掴んでいた志保の腕の熱感が、消えることのない誓いとして、確かに残っていた。
「……なんでもないよ、博士。……おかえり」
圭人はいつもの柔らかい声で笑った。
けれど、その胸の内には、24時間を越えて刻まれた、一人の女性への消えない想いが、静かに、けれど強く燃え続けていた。