ヒーローと探偵 作:タルマヨ
悪魔の審判(前編)
昨夜の出来事は、果たして夢だったのではないか。
阿笠邸の朝食の席で、圭人はトーストを口に運びながら、隣に座る少女を盗み見た。
赤いカーディガンを羽織り、静かに紅茶を啜る灰原。その姿は、どこからどう見ても帝丹小学校に通う一年生の「灰原哀」そのものだ。
だが、圭人の右手のひらには、いまだに消えない熱が残っている。
引き止めるように掴んだ、あの細い、けれど確かな大人の女性の腕の感覚。
(……どちらも志保さんだ)
自分が告げた言葉が、自身の内側で何度も反響する。彼女を「哀ちゃん」と呼ぶその裏側で、一人の女性としての「宮野志保」を強烈に意識してしまった。その自覚が、圭人の喉を不自然に乾かせていた。
「……星野君? 私の顔に何かついているかしら」
灰原が、カップを置かずに視線だけをこちらに向けた。
「あ、いや……なんでもないよ。今日もいい天気だなと思って」
「そう。予報では午後から曇りだったけれど。……あなた、昨夜から少し様子がおかしいわよ。熱でもあるんじゃない?」
灰原の瞳には、微かな懸念が浮かんでいる。彼女がどこまで昨夜の「熱」を共有しているのか、圭人には読めない。平静を装おうとすればするほど、自分の中の「志保」という存在が大きく膨れ上がり、胸の奥が騒がしくなった。
「圭人君、お代わりはどうじゃ?」
博士が、山盛りのスクランブルエッグを手に呑気に声をかけてくる。
「あ、ああ、もらうよ。博士」
「元気がないのう。夜更かしして実験のデータ整理を手伝わせすぎたかのう?」
博士の悪気ない言葉に、圭人は「……まあ、そんなところかな」と曖昧に笑った。食卓を囲む日常の風景。しかし、その足元は昨夜を境に確実に変質していた。
「おい、圭人。オメー、さっきから上の空だぞ」
登校路。元太、光彦、歩美の三人が、少し先を歩く灰原を追いかけて走っていく中、コナンが隣で歩調を合わせて声を潜めた。
圭人はハッとして、視線を泳がせる。
「……そんなことないさ」
「嘘つけよ。オメーがそんなに分かりやすく動揺してるのは、何かあった時だけだ。……昨日、博士のところで何かあったのか?」
コナンの探るような視線は、鋭い。
圭人は、昨夜の志保の姿を脳裏から追い出すように首を振った。
「別に。特に何も無かった。……ただ、少し考え事をしてただけさ」
「ふーん……。まあ、オメーがそう言うなら信じてやるけどよ。あまりニヤつくなよ、気色悪いからな」
コナンはニヤリと不敵に笑い、それ以上は深追いしなかった。だが、その瞳の奥には、親友の微かな変化を見逃さない鋭敏さが光っていた。
「あ、見て! またあのマークだよ!」
歩美が立ち止まり、街路樹の幹を指差した。
そこには、羽を広げたような幾何学的な「天使」の紋章が描かれたポスターが、不自然なほど整然と貼られていた。
「最近、テレビでもこればっかりだよね。空に天使様が出たって、みんな言ってるよ」
歩美が純粋な瞳でポスターを見上げる。
「バカ言えよ。天使なんて、ただの雲か光の加減だろ」
元太が鼻で笑うが、光彦は真剣な表情で首を振った。
「でも元太君、目撃した人はみんな『救われた気分になった』って言ってるんですよ。……それに、最近ネットやメディアでは、あの光の戦士のことを……」
光彦が言葉を切った瞬間、街頭の大型ビジョンがノイズと共に切り替わった。
ニュース番組のワイドショーだ。派手なテロップと共に、コメンテーターの男が熱弁を振るっている。
『……ええ、そうです。この古代碑文にあるティガという名は、光を意味すると同時に、地を揺るがす者とも解釈できます。我々はこの戦士を、敬意を込めてティガと呼称すべきではないでしょうか』
『ティガ、ですか……。しかし一方で、彼が現れてから不審な破壊事件が増えているという意見もありますね』
「ティガ……」
圭人は、その名を口の中で反芻した。
世間が勝手に名付けた、自分という存在の呼び名。
だが、ビジョンの映像に映し出される街の人々の表情は、救いを求める「天使」への熱狂とは対照的に、ティガに対してはどこか怯えや疑念の色が混じり始めていた。
◆
午後の授業が終わり、圭人が帝丹高校の校門を出ると、街の空気は朝よりも一層重苦しく沈んでいた。
空を見上げる人々。彼らの視線の先には、薄雲の向こう側に黄金色に輝く「天使」の幻影が、陽炎のようにゆらゆらと浮かんでいる。
「……救世主様だ」
通りすがりの男が、ふらふらと吸い寄せられるように立ち止まり、手を合わせる。その瞳には焦点がなく、ただ空に浮かぶ虚像だけを盲信しているようだった。
圭人は言いようのない胸騒ぎを覚えながら、いつもの公園へと急いだ。そこには既に、コナン、灰原、そして探偵団の三人が集まっていたが、いつもの賑やかさは微塵もなかった。
「あ、圭人お兄さん……」
歩美が駆け寄ってくる。その瞳は赤く腫れ、今にも零れ落ちそうな涙を湛えていた。
「歩美ちゃん、どうしたんだ。何かあったのか?」
圭人が屈んで目線を合わせると、隣にいた光彦が沈痛な面持ちで口を開いた。
「歩美ちゃんの様子が変だって言うから、さっきみんなで家まで行ってみたんです。そしたら……」
「歩美の母ちゃんが、全然母ちゃんじゃないみたいなんだ……」
元太が珍しく声を震わせ、拳を握りしめている。
コナンは険しい表情で、公園の砂場を睨みつけていた。
「……ただ事じゃねえ。灰原も、何か感じたんだろ?」
「ええ……。あの家の周り、不自然なほど静まり返っていたわ。まるで、生き物の気配を吸い取っているみたいに」
灰原が腕を組み、冷ややかに、しかし警戒を込めて言った。
「……もう一度、行ってみよう。歩美ちゃん、大丈夫かい?」
圭人の言葉に、歩美は小さく頷いた。
歩美の自宅に着くと、そこには「日常」という言葉からは程遠い異様な光景が広がっていた。
手入れの行き届いていたはずのマンションのエントランスには「天使」の紋章が描かれた旗がいくつも突き立てられ、窓という窓は内側から厚いカーテンで閉ざされている。
「お母さん……? 帰ったよ……」
歩美が震える手でリビングの扉を開ける。
そこは、ロウソクの火だけが揺れる、死のような静寂に包まれていた。正面の壁には、巨大な天使のポスター。その前で、歩美の母親が床に跪き、憑りつかれたように祈りを捧げていた。
「……おばさん?」
圭人が一歩踏み出し、声をかける。母親はゆっくりと首だけをこちらに向けた。その瞳は濁り、不気味な光を湛えている。
「……ああ、歩美。戻ったのね。お友達も一緒? ……でもダメよ、連れてきちゃ。この子たちはまだ『汚れ』ているわ」
「汚れって……お母さん、何言ってるの? 暗いよ、カーテン開けるね……」
歩美が泣きそうになりながら窓へ向かおうとするが、母親はそれを鋭い拒絶の手つきで制した。
「救世主様が仰ったのよ。この世を乱す悪魔、ティガを排除しなければならないって。あんな光り輝く悪魔に騙されてはいけないわ。あれこそが、災厄を呼ぶ元凶なのよ!」
「そんな……! ティガは、いつも僕たちを助けてくれたじゃないですか!」
光彦が叫ぶように反論する。元太も「そうだぜ! あの人は良い奴なんだ!」と食ってかかるが、母親の表情は微塵も動かない。
「黙りなさい、歩美! お友達も!」
母親の怒声が冷たく響く。
「ティガを信じる者は悪魔の下僕。……さあ、歩美。あなたもこちらに来てお祈りしなさい。天使様が、その汚れた心を浄化してくださるわ」
圭人は絶句した。
守るべき人々の心が、これほどまでに脆く、他者の意志に塗り替えられていく。母親の背後に揺らめく「天使」の幻影が、圭人を嘲笑っているように見えた。
歩美の家を後にした一同の足取りは、鉛のように重かった。歩美は灰原に肩を抱かれ、声を殺して泣き続けている。
「……キリエル人の精神干渉だな。ただの洗脳じゃない。人々の心の隙間に入り込んで、都合のいい『救世主』を植え付けてやがるんだ」
圭人が苦々しく吐き捨てると、隣を歩くコナンが拳を強く握りしめた。
「ああ……。弱ってる心に付け込んで、自分たちの思い通りに操ってやがる。ヘドが出るぜ、そんなやり方……!」
コナンの瞳には、冷徹な怒りが宿っていた。
「……哀ちゃん。悪いけど、みんなのことを頼めるかい」
圭人が足を止めると、灰原は鋭い視線を向けた。
「……星野君。一人でどうにかしようなんて、思わないことね」
「分かってるよ。……でも、この気配を放っておくわけにはいかないんだ」
圭人はそれだけ言い残し、人通りの途絶えた路地裏に入っていった。
「……出てきたらどうだ。そこにいるんだろ」
圭人が立ち止まると、ビルの影からマントを羽織った女――キリエル人の巫女が姿を現した。
「光を背負いし者よ。お前の足元を見なさい。お前が守ろうとしている者たちは、今や皆、我らを望んでいる」
「ふざけるな。あんなのは本当の心じゃない」
「いいえ、あれこそが人間の本性。弱き魂は、絶対的な規律と救いを求めている。……お前は、彼らにとって毒でしかないのだ」
巫女の手が、圭人に向けられる。
「消えなさい、ティガ。お前の場所など、この地にはもう無い」
巫女の手から放たれた不可視の衝撃波が、圭人の体を壁へと叩きつけた。
「ぐっ……!」
脇腹に激痛が走り、圭人は地面に膝をつく。苦悶の表情で、懐のスパークレンス・ハイパーに指をかけた。
その瞬間、米花町の上空が、太陽を飲み込むような暗雲に覆われた。
バリバリと空間が裂けるような音と共に、巨大な、禍々しい石造りの「門」が姿を現す。
『見よ! 真の救世主の降臨だ!』
街中に響き渡る預言者の声。
その声に呼応するように、街の人々がふらふらと家から這い出してきた。空を指差し、恍惚とした表情で、あるいは熱狂的に叫び始める。
「天使様だ……! 天使様が地獄の門を開いてくださる!」
「悪魔を、ティガを排除しろ!」
圭人は、口端から流れる血を拭い、歪む視界の中で空を仰いだ。
その傍らを、一台の漆黒の装甲車が猛スピードで通り抜けていく。
MDRのエンブレム。
その車窓から、銀縁眼鏡の奥の冷徹な瞳――黒崎が、嘲笑うような、あるいは冷酷に品定めするような視線を圭人に投げた。
光を憎む群衆の叫びと、門の向こうから迫る圧倒的な闇。
圭人の指先が、スパークレンス・ハイパーの冷たい感触を、これ以上なく強く握りしめた。