ヒーローと探偵 作:タルマヨ
死ぬほど美味いラーメン(前編)
凍てつくような冬の夜風が、米花町の街並みを鋭く吹き抜けていた。
街灯の下を歩く人影はまばらで、誰もが襟を立て、吐き出す息を白く染めながら家路を急いでいる。
「……っくしゅん! ったく、寒い夜だぜ……。蘭の奴、空手の大会前だからって、こんな日に泊まりがけで練習に行くなんてよぉ」
毛利小五郎は、コートのポケットに深く手を突っ込み、真っ赤になった鼻をすすりながら愚痴をこぼした。その隣では、大きなマフラーに顔の半分を埋めたコナンが、眼鏡を曇らせながら歩いている。
「仕方ないじゃない。今度の大会、蘭姉ちゃん気合入ってるんだから。……それよりおじさん、早くお店見つけようよ。僕、凍えちゃうよ」
「分かってるよ。だがよぉ、この辺の店はどこも満員か、準備中じゃねーか。……ん? おい、コナン。あそこ、まだ明かりがついてるぞ」
小五郎が指差した先には、お世辞にも綺麗とは言えない、年季の入った赤提灯と暖簾が揺れていた。『ラーメン小倉』――。建物自体が傾いているのではないかと思わせるほど古びた店構えだが、そこから漏れ出す温かな黄色い光と、食欲をそそる醤油の香りが、凍えた二人の足を自然と引き寄せた。
「背に腹は代えられねぇ。入るぞ、コナン」
「うん……」
小五郎がガラリと引き戸を開けると、店内に満ちていた濃厚な湯気が一気に二人を包み込んだ。
「へい、いらっしゃい!」
威勢の良い、だがどこか頑固そうな店主・小倉功雅の声が響く。カウンターだけの狭い店内。しかし、その一角に座る見覚えのある背中を見て、コナンと小五郎は同時に声を上げた。
「……あれ? 圭人……兄ちゃんに、博士!」
「あ、おじさんにコナン。奇遇だね」
湯気の向こうで、圭人が穏やかな笑みを浮かべて手を挙げた。その隣では、阿笠博士が少し決まり悪そうに、半分ほど減ったラーメンの丼を前にして座っている。
「いやぁ、二人とも。こんな時間にどうしたんじゃ?」
「どうしたもこうしたもねーですよ。蘭がいねーから晩飯の食い倒れですよ……。それより博士、
小五郎が空いている椅子に腰を下ろしながら尋ねると、博士は「うっ」と言葉を詰まらせ、横にいる圭人に助けを求めるような視線を送った。
「博士、正直に言いなよ。……おじさん、実は哀ちゃん、最近は美容のために夜の炭水化物を控えてるみたいなんだ。だから今日は夕飯がいらないってことで……。でも博士がどうしてもラーメンが食べたいってね」
「……うむ。哀君が『食べに行ってもいいけれど、ラーメンは1杯だけ。汁まで飲み干したら承知しないわよ』とキツく言われてきてな……。ワシはどうしてもここのラーメンが食べたくなって、圭人君を拝み倒して付いてきてもらったんじゃよ。今のワシには、この一杯だけが唯一の救いなんじゃ……」
博士は自分の腹をさすりながら、子供のように肩を落として嘆いた。
(……
コナンは隣で、心の中で呆れたようにツッコミを入れた。一方、小五郎は目を点にして博士を見つめている。
「……お、おう。最近のガキは美容だの炭水化物だの、小難しくて敵わねぇな……」
小五郎は本気で引いた様子で呟くと、カウンターの向こうの店主に向き直った。
「オヤジさん、俺にもその死ぬほど美味いってのを二つ頼むぜ!」
「へいよ! 閻魔大王ラーメン、二丁!」
小倉が手際よく麺を茹で始める。その傍らでは、バイトの彩代が忙しそうにグラスを並べていた。
「閻魔大王……。凄い名前だね」
コナンが手元のコップを弄りながら呟くと、小倉がニヤリと笑う。
「ああ、激辛だが死ぬほど美味い。一度食ったら地獄まで忘れられねぇ味だ。……おっと、先客のそっちの二人も、ゆっくり味わってくれよ」
しばらくして、二人の前にも真っ赤なスープの丼が置かれた。
「おお、こいつは凄え……。見た目からして地獄だぜ」
小五郎が感心したように声を上げ、割り箸を割る。隣でコナンも、立ち昇る熱い湯気に眼鏡を曇らせながら、箸を手に取った。
「……熱っ! でも、この辛さがたまらないね」
コナンがハフハフと麺を啜る。唐辛子の刺激の奥にある濃厚な旨味が、冷え切った身体に染み渡っていく。
「ふぅ……。やっぱり冬はこれが一番だね。博士が無理を言ってまで食べに来たがる気持ち、分かる気がするよ」
圭人が穏やかに言い、冷たい水を一口飲んだ。店内には四人が麺を啜る音と、時折漏れる「美味い」という溜息だけが響く。
だが、その平和な空気は、再び入り口の戸が乱暴に開け放たれたことで一変した。
「おい、小倉! まだこんな汚ねぇ店で油売ってんのか!」
入ってきたのは、高級そうなスーツに身を包みながらも、その表情には傲慢さが滲み出ている男だった。不動産会社社長の西津徳盛。その後ろには、隣の理髪店から出てきたばかりなのか、理髪店主の谷中 篤も心配そうに顔を覗かせている。
「西津……。また来たのか。何度言わせる、この店を畳む気はねぇ!」
店主の功雅が忌々しそうに、しかし毅然とした態度で言い返す。店員の大橋彩代は顔を強張らせ、トレイを胸元で抱えるようにして立ち尽くした。
「アンタ!またですか西津さん!うちは営業中なんですよ!!」
「うるせぇ! こんなボロ屋、とっとと取り壊して高層ビルの一部にしちまった方が世のためだってのが分からねぇのか。……まぁいい。最期にその自慢の地獄ラーメンってのを食ってやろうじゃねぇか。おい、彩代! 俺にも同じもんを出せ!」
西津はドカリと、圭人たちのすぐ近くのカウンター中央に陣取った。不機嫌そうに鼻を鳴らすと、外の冷気で真っ白に結露した眼鏡を外してテーブルに置く。
「……感じの悪い客だね」
圭人が声を潜めて囁くと、コナンも無言で頷いた。
西津はテーブルに手をついて身を乗り出し、レンズをシャツの裾でゴシゴシと拭き、再び眼鏡をかけた。そしてハシ立てから乱暴に割り箸を引き抜く。
「……へい、閻魔大王ラーメンだ。……味わって食いやがれ」
功雅が職人の矜持を保ちつつ、西津の前にも真っ赤な丼を差し出した。
「ふん、見た目だけは一人前だな……」
西津はハシの先端を無意識に、カチカチと歯で噛みしめるような仕草を見せると、一気に麺を啜り上げた。
「……ほう。辛ぇが、味は悪くねぇな。これなら客が来るのも頷ける……が、それも今日までだ」
傲慢に笑いながら、二口、三口と食べ進める西津。しかし、四口目を啜ろうとした瞬間、彼の動きがピタリと止まった。
「……? ぐっ……あ、が……っ!?」
急に顔を真っ赤にして喉を掻きむしり、激しく咳き込む西津。
「お、おい! 辛いのは分かるが、そんなに急いで食わなくても……」
小五郎が呆れたように声をかけるが、西津の容態は明らかに尋常ではなかった。手からハシが滑り落ち、西津は椅子から崩れ落ちるように床に倒れ伏した。
「きゃああああああっ!」
彩代が悲鳴を上げ、トレイを落とす。西津の体は数回大きく痙攣した後、ぴくりとも動かなくなった。
「……! !どいてくれ!」
小五郎が素早く西津の傍らに膝をつき、その首筋に手を当てる。だが、すぐに苦虫を噛み潰したような顔をして手を離した。
「……ダメだ、死んでる。……ん? この臭い……」
小五郎は西津の口元に顔を近づけ、その表情を一層険しくさせた。
「……チッ、アーモンド臭か。間違いない、青酸系の毒物だ!」
「毒……!? ま、まさか……」
博士が絶句し、圭人も西津の遺体と、カウンターに残された丼を交互に見つめる。
「彩代さん、すぐに警察と救急車を! ……オヤジさん、あんたもだ! 警察が来るまで、厨房のものには一切触れるんじゃねえぞ!」
小五郎の鋭い一喝に、店内の空気は凍りついた。
◆
やがて、凍てつく夜の空気を切り裂くサイレンの音が近づき、黄色い規制線が店を包囲した。
「……また君かね、毛利君」
呆れたような声を出しながら店に入ってきたのは、目暮警部だった。その後ろには高木刑事と千葉刑事も続いている。
「いやぁ警部殿、面目次第もございません! 私がこの店に入った途端、この男が……」
小五郎が状況を説明する傍らで、目暮は鋭い視線を店内に走らせた。
「高木君、千葉君、鑑識を急がせろ。……それとコナン君に、星野君、阿笠さんまで。君たちも一緒だったのか」
「はい。目暮警部、被害者は西津徳盛さん。僕たちもそこで食べていたんですが、彼はラーメンを数口啜った直後に急変しました」
圭人が小五郎を立てつつ、冷静に補足する。その横で、コナンは西津の座っていたカウンター周辺を、物言わぬ証拠品を探すように食い入るように見つめていた。
(ラーメン、割り箸、水、眼鏡……。おっちゃんの言う通り毒殺で間違いねぇ。だが、どこだ? どこに毒を仕込んだ……!?)
コナンは眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、現場の違和感を探り始めた。