ヒーローと探偵 作:タルマヨ
「……いや、まだ終わってない…」
圭人の鋭い制止に、スタジオ内の空気が一瞬で凍りついた。
手錠をかけられた松井が、絶望に染まった顔で力なく顔を上げたその時だった。
「……ギャ……ギャォォ……」
スタジオの隅、床に転がっていたはずのゴメラの着ぐるみが、生き物のようにびくんと跳ねた。録音機ではない、喉の奥から絞り出されるような重低音の咆哮。
「な、何だ!? 今の音は……」
「馬鹿な……。中身は空のはずじゃぞ!」
目暮と博士が驚愕の声を上げる。三上や安達も、信じられないものを見る目で着ぐるみを見つめた。
着ぐるみの継ぎ目から、どす黒い霧……ゾルブの闇が溢れ出し、見る間に実体を持って膨れ上がっていく。ゴムの皮膚は生物的な鱗へと変貌し、みるみるうちに人の背丈を超え、二メートル近い巨躯となって立ち上がった。
「うわあああ! 本物の怪獣になっちゃったのかよ!」
「逃げましょう、歩美ちゃん!」
元太が叫び、光彦が歩美の手を引く。歩美は恐怖で足がすくみ、灰原の袖を強く握りしめた。
「哀ちゃん、あれ……ゴメラなの? 本当にゴメラなの……?」
灰原は歩美の肩を抱き寄せ、冷徹ながらも緊迫した眼差しで膨れ上がる闇を見つめた。
「……いいえ、あれはもう怪獣ですらないわ。ただの、悪意の塊よ。……江戸川君!」
「分かってる! 目暮警部、全員を外へ! 早く!」
コナンの鋭い指示と同時に、変貌したゴメラの鋭い爪が、すぐ横にあったミニチュアのビルを粉砕した。爆風と火花、そして瓦礫がスタジオ内に降り注ぐ。
「高木、佐藤! 全員を退避させろ! 三上さん、安達さんも早く!」
目暮が叫び、腰を抜かした友美を三上が抱きかかえるようにして出口へ走る。
「そんな……。私の作ったセットが……嘘だろ、何なんだよあいつは!」
安達が絶叫しながらも、佐藤に背中を押されて走り出す。だが、圭人だけは動かず、その異形を見据えていた。
「星野君! あなたも早く逃げなさい!」
佐藤が厳しい口調で呼びかける。だが、圭人は振り返らずに答えた。
「佐藤刑事、俺は別のルートから脱出します。……皆を頼みます!」
「何を言ってるの、死ぬ気!? 一人じゃ無理よ!」
佐藤が圭人の腕を掴もうとしたが、コナンがその制服の袖を強く引いた。
「大丈夫だよ、佐藤刑事! 圭人兄ちゃんなら、出口は他に知ってるから! それより今は、松井さんや皆を逃がすのが先だ!」
コナンの必死な表情に、佐藤は一瞬迷ったが、崩落を始めた天井を見て唇を噛んだ。
「……分かったわ。……絶対に、すぐ来るのよ、星野君!」
佐藤は高木と共に松井の身柄を抱え、パニックに陥るスタッフたちを誘導してスタジオの外へと飛び出していった。
重厚な防音扉が閉まり、スタジオ内は不気味な静寂と、燃え上がるセットの爆ぜる音だけが支配する空間となった。
目の前では、二メートルを超えた異形が、三上たちが心血を注いで作ったビル群を無慈悲に踏みにじっている。松井の絶望を吸ったゾルブの闇は、もはや元の着ぐるみの面影を歪め、鋭い棘と禍々しい眼光を放つ怪物へと変貌させていた。
圭人は何も言わず、懐からスパークレンスを取り出した。炎の熱気が頬を撫でる中、ただ静かに、その翼を開く。
溢れ出した眩い光が、薄暗いスタジオを白銀に染め上げた。
その光の中から、赤、紫、そして銀のラインを纏う戦士が姿を現す。
精巧な1/25スケールの街並みの中に立つその姿は、ミニチュアとの対比によって、まるで撮影中の映画の一幕が現実へと侵食してきたかのような、幻想的でいて、しかし圧倒的に実在感のある光景であった。
ティガは構えを取る。
変貌したゴメラは、目の前の光を敵と見なし、地を這うような咆哮と共に突進してきた。
ドォォォォン!!
激突の衝撃が床を揺らす。ゴメラの鋭い爪がティガの胸元をかすめ、激しい火花が散った。ティガは咄嗟に腕を交差させて防ぐが、闇の力による膂力は凄まじく、背後のミニチュアビルへと押し込まれそうになる。
だが、ティガは一歩も引かなかった。足元には安達が数ヶ月かけて作り込んだ、古びた映画館のミニチュアがある。これ一軒を壊すだけでも、彼らの十年間の努力を汚すことになる。
ティガは全身の筋肉を躍動させ、ゴメラの巨体を強引に押し返した。そのまま懐に飛び込み、鋭い打撃を打ち込む。だが、ゾルブに操られたゴメラは痛みを感じぬかのように、長い尾を振り回してティガをなぎ払おうとする。
ティガはバック転でそれを回避し、空中で身を翻した。着地する瞬間の衝撃ですらセットを傷つけぬよう、光の力で自身の質量を制御し、羽毛のような軽やかさで広場の中央へと降り立つ。
一方で、スタジオの外では、厚い扉の向こうから漏れ聞こえる咆哮と衝撃音に、一同が凍りついていた。
「おい、中で何が起きてるんだよ……! 建物が壊れちまうぞ!」
元太が扉に耳を押し当てる。
「圭人さんは大丈夫なんでしょうか……! コナン君、中がどうなっているか見えませんか!?」
光彦が必死に問いかける中、コナンは眼鏡のダイヤルを回し、ズーム機能でわずかな隙間から内部を覗こうとしていた。
(圭人……お前、あの狭いセットの中で戦ってるのか……。あの人達の誇りを壊さないように……!)
灰原はコナンの隣で、スタジオから漏れ出す不吉な闇の波動を感じ取り、眉をひそめた。
「……随分と、不器用な戦い方を選んだものね。自分だけならもっと楽に動けるはずなのに。星野君らしいといえば、らしいけれど…」
博士もまた、親友である三上の肩を支えながら、祈るように扉を見つめる。
「三上君……信じるんじゃ。あの撮影所には、まだ光が残っておるはずじゃわい」
三上は、自身の作り出したゴメラが化け物となり、スタジオを破壊している現実に震えながらも、扉の向こうから聞こえる何かが戦う音に、目を離せずにいた。
スタジオ内では、ティガの拳がゴメラの胸元に炸裂した。しかし、ゴメラの喉の奥からは、さらにどす黒い闇が噴き出し、周囲のミニチュアセットを黒く侵食し始めている。
スタジオの床を揺らす重い足音と共に、二メートルを超えた「異形」が迫る。
ティガは腰を落とし、マルチタイプ特有の構えで、眼前のゴメラを迎え撃った。
ドォォォォン!!
ゴメラの突進を真っ向から受け止めた衝撃で、ティガの足元のコンクリートに亀裂が走る。だが、その足首のすぐ横には、三上がこだわった昭和の街並みを再現した商店街のミニチュアがあった。
《……ここを、壊させるわけにはいかない!》
ティガは指先にまで力を込め、ゴメラの巨体を強引に押し戻す。しかし、ゾルブの闇を纏ったゴメラは、その長い尾を鞭のようにしならせ、ティガの側頭部を狙って振り抜いた。
ギィィィィン!!
間一髪、腕を交差させてガードするが、凄まじい衝撃にティガの身体が火花を散らす。ゴメラは休む間もなく、鋭い爪を何度も振り下ろした。ティガは最小限の動きでそれを捌き、掌底でゴメラの懐を突き放すが、闇の霧が障壁となり、マルチタイプの打撃では決定打にならない。
ゴメラの喉の奥から、どす黒い波動が漏れ出す。それが足元のセットに触れた瞬間、精巧に作られたミニチュアの街灯がドロリと腐食し始めた。
《……まずい。このままでは
長期戦は不利だと悟ったティガは、一瞬の隙を見て距離を取った。
両腕を額のティガクリスタルの前で交差させる。右腕を上にし、精神を集中させた。そのまま両腕を勢いよく左右に広げて振り下ろすと、まばゆい光と共にその身体が紫と銀の色彩へと変貌した。
スカイタイプへのチェンジ。
ドッ!!
空気を切り裂くような鋭い音と共に、ティガの身体が凄まじい跳躍力で跳ね上がった。飛行することなく、スタジオの壁や、天井から吊り下げられた照明機材のレールを次々と蹴り、弾丸のような速度でスタジオ内を縦横無尽に駆け巡る。
「……速い……! 目で追いきれないわ」
外で扉の隙間から覗いていた灰原が、驚きに目を見開く。
シュッ、シュシュッ!!
ゴメラの背後、真上、そして側面。ティガは空中を蹴るたびに加速し、ゴメラの巨体に高速の連撃を叩き込んでいく。一撃一撃はマルチタイプより軽いが、その圧倒的な手数が闇の障壁を確実に削り取っていった。
ゴメラは苛立ちを露わにし、逃げ回る紫の影を捕らえようと腕を振り回すが、その爪が空を切るたびに、ティガは紙一重でセットのビルの間を縫うようにして回避する。
《はぁぁっ!》
ティガはキャットウォークからダイブし、ゴメラの脳頭部に強烈な飛び蹴りを見舞った。激しい火花が散り、巨躯が大きくよろめく。
逆上したゴメラは、口を大きく開き、スタジオ全体を焼き尽くさんばかりの暗黒の波動を溜め始めた。松井の執念と連動するように、そのエネルギーは巨大な渦となり、周囲の空気を歪ませる。
《……これ以上は、させない!》
ティガはセットの広場へと着地し、真っ向からゴメラと対峙した。
まず両腕を胸の前で交差させ、大気中の光のエネルギーを呼び込む。瞬時にその腕を左右に大きく広げ、超エネルギーを全身に充填させた。そのまま両腕を上空へ高く掲げ、指先へ光を一点に集約する。
ティガは掲げた両手を素早く左腰の位置へと持っていき、そこで光の球……ランバルトエネルギーを極限まで凝縮させた。そして、左腰から溢れんばかりのエネルギーを右腕へと移し、胸の前で水平に伸ばして一気に放った。
《ランバルト光弾!!》
放たれた紫の半透明な衝撃波が、咆哮するゴメラの胸元を真っ向から貫いた。
「ギャ……ガ、アァァァァァァァッ!!」
ゴメラは断末魔をあげ倒れ、耳鳴りのような高音が響き渡り、次の瞬間、スタジオを埋め尽くしていた闇が完全に霧散した。
エネルギーを失ったゴメラの巨体は、風に吹かれた砂のように実体を失い、後には傷だらけでふにゃふにゃのゴメラの着ぐるみが、ミニチュアの街の真ん中に力なく横たわった。
◆
静寂が戻ったスタジオの重厚な防音扉が、外から勢いよく押し開かれた。
「おい、大丈夫かよ!」
真っ先に飛び込んできた元太が、セットの中央を見て絶叫した。そこには、闇を振り払い、神々しい光を放ちながら佇む、赤・紫・銀の戦士の姿があった。
「あ、あれは……ティガ! 本物のティガですよ!」
光彦が指差し、興奮で声を震わせる。歩美も瞳を輝かせ、両手を組んでその姿を見上げた。後に続いた目暮や佐藤、そして三上たちスタッフ一同は、その場に釘付けになった。
「な……なんだ、あの姿は……。特撮の着ぐるみなどではない……本物なのか!?」
目暮が帽子を抑えながら呆然と呟く。警察官たちが言葉を失う中、三上は震える膝を突き、涙を流しながらその姿を仰ぎ見た。
「……信じられん。……私たちがずっと夢に見ていた『光』が、そこにいるのか……」
その傍らで、博士は隣の三上の肩にそっと手を置き、事情を知る者としての深い笑みを浮かべ、確信に満ちた声で頷いた。
「うむ。三上君、これこそが奇跡じゃ。あの光が、君のゴメラとこの街を、最後まで守り抜いてくれたんじゃわい……」
その視線の中心で、ティガはゆっくりと膝をつき、手錠をかけられたまま震えている松井を見つめた。
《……松井秀豪》
エコーの効いた、重厚でありながら透き通るような声がスタジオ全体に響き渡る。
《君が守りたかったのは、この街を壊す闇ではないはずだ。……私が守ったこの街を、今度は君の情熱で再生させてほしい》
「あ……ああ……」
松井の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
《……誇りを捨ててはいけない。君の愛したゴメラは、今もここにいるのだから》
ティガは静かに頷くと、その全身がまばゆい光の粒子へと変わり始めた。光の粒はスタジオの天井へと昇り、朝焼けの空へ溶け込むようにして、ゆっくりと時間をかけて消えていった。
強烈な光が収まった後、そこにはただ、元のふにゃふにゃになったゴメラの着ぐるみが横たわっているだけだった。
「……消えちゃった」
歩美が名残惜しそうに空を見上げる隣で、灰原は消え去った光の残滓を慈しむような、穏やかな眼差しで見つめていた。
「ええ……。でも、確かにいたわ。私たちのすぐそばにね……最高の守護者が」
セットの影からひょっこりと圭人が姿を現したのは、その直後だった。
「圭人兄ちゃん! どこに行ってたんだよ!」
「今の見ましたか!? ティガですよ!」
駆け寄る元太たちに、圭人は少し困ったような笑みを浮かべて頭を掻いた。
「ああ、見てたよ。……凄いものが見られたね」
「星野君、怪我はないの!?」
佐藤が心配そうに駆け寄ると、目暮と高木も深刻な面持ちで歩み寄ってきた。目暮は横たわる着ぐるみと、傷一つないミニチュアを見比べ、唸るように口を開いた。
「……星野君。君は近くで見ていたんだろう? 一体、何が起きたんだ。あの着ぐるみが突然、あんな姿で暴れだしたのは……松井君が何か仕掛けたのかね?」
高木も困惑した表情で手帳を握りしめる。
「松井さんは、犯行については観念していますが、あの異変については『自分も何が起きたか分からない、恐ろしかった』と繰り返すばかりで……」
佐藤が鋭い視線で周囲の機材を確認しながら、圭人に問いかけた。
「火薬の暴走や、ワイヤーの誤作動で説明がつくレベルじゃなかったわ。……あの戦士も含めて、あなたには何か心当たりがあるの?」
圭人はわずかに視線を落とし、警察官たちに聞こえるよう、慎重に言葉を選んで答えた。
「……俺にも、正確なことは分かりません。ただ……松井さんの映画に対する執着や、追い詰められた心が、このスタジオに溜まっていた何かに火をつけてしまったのかもしれない。……あの光の戦士は、その暴走を止めてくれた……そう考えるしかないんじゃないでしょうか」
「……不可解なことばかりだが、この無傷のセットを見れば、現実として受け入れるしかなさそうだな。あとのことは、署でじっくり聞かせてもらうとしよう」
目暮は重々しく頷き、松井の連行を指示した。松井は警察車両に乗せられる直前、三上の前で深く頭を下げ、静かに撮影所を後にした。
現場検証が続く中、子供たちが少し離れた隙に、コナンと灰原、そして博士は、圭人を交えてスタジオの隅で声を潜めた。
「……結局、あいつは何も知らねーままなんだな。自分がゾルブの闇を呼び寄せちまったってことも」
コナンが低い声で呟く。灰原も周囲を警戒しながら続けた。
「ええ。松井さんの犯した罪は、決して許されるものではないわ。けれど、その負の感情が、ゾルブに付け入る隙を与えてしまったのは確かね。依代にされたゴメラがあんな異形に変貌したのは、松井さんの絶望の深さゆえかしら……」
「あいつらは、人の心の闇を餌にするからな……」
圭人は朝日が差し込むスタジオの天井を見上げた。
「……松井さんの映画への愛は本物だった。だからこそ、その愛が歪んでしまった瞬間の隙を、ゾルブは狙ったんだと思う」
「道理で、ワシの目で見ても説明のつかん現象ばかりじゃったわけじゃ。圭人君……いや、あの光がいなければ、今頃どうなっていたことか。三上君の想い出も、この場所も、すべてが闇に消えていたかもしれんのう」
博士も安堵の溜息を漏らす。スタジオの外へ出ると、東の空から真っ赤な朝日が昇っていた。
「……お疲れさん。けどな、次はもうちょっと目立たねー方法で頼むぜ。あんなの見せられたら、後で目暮警部たちに説明すんのが大変だろ?」
二人きりになった際、隣に並んだ小さな相棒が、本来の低い声で呆れたように囁いた。それに対し、朝日の眩しさに目を細めながら、短く応える。
「オイオイ、目立たないようにって……それをお前が言うの?」
朝日を背に、二人の影が長く伸びる。特撮という虚構の街で起きた一夜の奇跡は、関わった者たちの心に確かな光を残し、静かに幕を閉じた。