ヒーローと探偵 作:タルマヨ
放課後の鏡像
「……これ、博士が言ってたやつ?」
阿笠邸の地下。圭人は、作業台の上に置かれたシルバーとメタリックブルーのバッジを手に取った。手のひらに収まるサイズのそれは、エンブレムのような意匠を凝らしており、メカとしての冷たさよりもどこか洗練された工芸品のような質感を帯びている。
「そうじゃ! 中身を詰め込むのに苦労したが、ようやく小型化に成功してな」
博士は自慢の髭を誇らしげに揺らし、モニターに表示された設計図を指し示した。
「それを制服の内ポケットにでも付けておけば、スマホ一つで君の姿を少し離れた場所に投影できる。指向性スピーカーも内蔵しておるから、ホログラムの口元から声が出ているように聞こえるはずじゃ。もちろん、周囲の光に合わせて質感も自動で調整されるぞ。そして、名付けて……」
博士は一度言葉を切り、ビシッと作業台を指差して高らかに宣言した。
「身代わりホログラム・バッジ――アリバイくん一号じゃ!」
「……アリバイくん一号?」
圭人はその独特なネーミングに少し頬を緩めたが、機能自体には感心したようにバッジを光にかざした。正体を隠し、人知れず戦う身としては、自分がその場にいると周囲に思わせる「不在偽装」の手段は何物にも代えがたい。
「ま、お守りとしては上出来なんじゃない?」
ソファで週刊誌をめくっていた灰原が、顔を上げずに口を挟んだ。
「もっとも、そんな小細工が必要になるほど、あなたが本来の役割を放り出すような事態にならないのが一番だけど」
「はは、手厳しいな。俺だって、学校でこれを使うような騒ぎは勘弁してほしいよ」
圭人は苦笑いしながら、銀色のバッジを制服の内ポケットの奥へと収めた。その横で、コナンはバッジの構造を覗き込みながら、親友としての忠告を付け加える。
「まあ、何が起きるか分からねーからな。もし操作できない状況になっても、誰かが近づけば自動で着信を装ってフェードアウトする設定になってるんだろ? 博士」
「いかにも。自律回避モードじゃな。緊急時にはそれが君の身代わりになってくれるはずじゃ」
圭人はポケットの上から、鈍い輝きを放つバッジの感触を指先で確かめた。
「アリバイくん一号、か……。頼りにしてるよ」
軽く叩いた制服の厚みが、今は少しだけ心強く感じられた。
◆
翌日の放課後の帝丹高校2年B組。終礼のチャイムが鳴り響き、教室内が部活動や帰宅の準備でざわめき始めた頃、その彼女は現れた。
教室の入り口に佇んでいたのは、隣のA組の生徒、千ヶ崎美桜だった。一切の乱れがない黒髪で姫カット、凛とした制服の着こなし。彼女がそこにいるだけで、放課後の教室特有の喧騒が、どこか透明な空気へと塗り替えられていくような錯覚を覚える。
圭人が鞄を手に立ち上がろうとしたその時、美桜は迷うことなく蘭の席へと歩み寄った。
「失礼いたします。毛利蘭さんは、こちらにいらっしゃいますでしょうか」
澄んだ、しかし芯のある声が響く。蘭が不思議そうに顔を上げると、美桜は静かに、そして深く頭を下げた。
「放課後のお忙しい時間に申し訳ありません、蘭さん。実は、どうしてもお耳に入れたい奇妙なことがございまして……。A組の教室で、少し不可解なことが起きているんです」
その丁寧な立ち振る舞いに、近くにいた園子も興味津々といった様子で身を乗り出した。美桜は園子に対しても穏やかに会釈し、本題を切り出した。
「ここ数日、夜の間に教室の備品が、まるで鏡合わせのように『左右反転』しているんです。掲示板のプリントの並び順、出席簿の置かれた向き……。さらには、掃除用具入れのホウキの並び方まで、翌朝になると完璧に逆転しているんです」
「……左右…反転?」
蘭は不可解な現象を反芻するように呟き、首を傾げた。
「でも、どうして私に? 千ヶ崎さんなら、先生とかに相談した方が確実だと思うんだけど……」
その問いに、美桜は淀みなく、しかしどこか柔らかな響きを持って答えた。
「もちろん、学校側の対応も考えました。ですが、この件は単なる規律違反ではなく、もっと『人の心の機微』が深く関わっているような気がするんです。……それに、蘭さん」
美桜は少しだけ蘭の方へ歩み寄り、その澄んだ瞳で真っ直ぐに彼女を見つめた。
「蘭さんの瞳には、強さと共に、他者の困りごとを放っておけない温かさがあります。お父様の名声以上に、私は蘭さんという方そのものの持つ誠実さを信じて伺いました。……不躾なお願いなのは重々承知しておりますが、お力添えをいただけないでしょうか」
「そ、そんな風に言われちゃうと……」
あまりに真っ直ぐで淀みのない言葉に、蘭は少し照れたように頬を掻いた。その横で、園子が感心したように声を漏らす。
「やるわねぇ、千ヶ崎さん。あんた、人を見る目があるじゃない! 確かにこの蘭は、頼まれたら断れないお人好しの塊だもんね」
園子は我がことのように胸を張り、そのまま蘭の肩を叩いた。
「ねえ蘭、だったらやっぱり、あのガキンチョを呼びなさいよ! こういう理屈っぽくて細かい謎なら、あいつの得意分野でしょ? ほら、いつも事件現場でチョロチョロしてる、あの生意気な探偵小僧!」
「あ、そっか! コナン君なら何か気づくかも!」
蘭はスカートのポケットから、使い込まれたピンク色の折りたたみ式携帯電話を取り出した。パカッと手慣れた動作で画面を開くと、サイドに付いたナマコ男のストラップが小刻みに揺れる。
「えっ、ちょ、ちょっと待てよ二人とも」
圭人が慌てて口を挟もうとしたが、蘭はすでに短縮ダイヤルでコナンの番号を呼び出していた。
「ほら蘭、早く! 今頃あいつ、ガキんちょ達と帰ってる頃でしょ?」
園子がニヤニヤしながら横から覗き込む中、呼び出し音が教室に小さく響く。
圭人は(またあいつを高校まで呼び出すのか……)と、同情に近い溜息を吐きながら、電話の向こうの親友の受難を察していた。
その頃、帝丹小学校からの帰り道。
コナンは一人、夕暮れ時の通学路を歩いていた。
(……圭人の奴、あのアリバイくん一号を使いこなせりゃいいけどな。正体がバレるリスクは少しでも減らしておくに越したことはねーし……)
そんなことを考えながら歩いていると、ランドセルのサイドポケットに入れたスマホが震えた。画面を確認すると、表示されたのは『毛利 蘭』の文字だ。
「(……蘭?)……もしもし、蘭姉ちゃん? どうしたの?」
通話ボタンを押すと、電話の向こうから蘭の少し困惑したような声が聞こえてきた。
『あ、コナン君? 今、帰り道だよね。ごめんね急に。……実は今、学校にいるんだけど、ちょっと不思議なことが起きてて……』
「学校で不思議なこと?」
『うん。園子もコナン君に見てほしいって言ってるの。A組の千ヶ崎さんも、ぜひコナン君の知恵を借りたいって……。今から高校まで来れるかな?』
「ええーっ、今から高校に!? これから帰って宿題やろうと思ってたんだけど……」
コナンは子供らしい声を意識して返したが、電話の奥から「さっさと来なさいよ、このガキンチョ!」という園子の野太い声が漏れ聞こえ、思わず顔を引きつらせた。
「……分かったよ。すぐ行くから」
観念して通話を切ったコナンは、一つ溜息を吐くと、来た道を引き返して帝丹高校への坂道を歩き出した。
(高校で不可解な謎ねぇ……。あの園子がわざわざ呼び出すくらいだから、また妙なことに首を突っ込んでるんじゃねーだろうな)
十分後。
コナンは帝丹高校の校舎へと足を踏み入れ、蘭たちが待つ2年B組の教室の前へと辿り着いた。少しだけ息を整え、重たい木製の引き戸に手をかける。
「お待たせ、蘭ねえちゃん!」
コナンがいつもの明るい声を出しながら、ガラリと教室の扉を開けた。
教室の扉を開けたコナンの視界に、まず飛び込んできたのは蘭と園子、そして少し困ったような笑みを浮かべて立っている圭人の姿だった。
「あ、コナン君! 急に呼んじゃってごめんね」
「来たわね!ガキンチョ!」
蘭の申し訳なさそうな声と、園子のいつもの調子。そこまでは想定内の光景だった。だが、蘭のすぐ隣に静然と佇んでいた「彼女」がゆっくりとこちらを振り向いた瞬間、コナンは無意識に足を止めた。
(……なんだ、この空気?)
一切の乱れがない黒髪、吸い込まれるような瞳。背筋を真っ直ぐに伸ばしたその立ち姿からは、女子高生という言葉では片付けられないような、完成された静謐さが漂っている。
美桜は、蘭や園子が見せたような「子供を迎え入れる」時の緩みを一切見せなかった。彼女は静かにコナンの前まで歩み寄ると、一人の独立した人間に対する敬意を込めて、淑やかに一礼した。
「初めまして。千ヶ崎美桜と申します。お噂はかねがね伺っております、江戸川さん」
コナンの思考が一瞬、停止した。
「江戸川さん」。
その響きには、子供を揶揄するような色は微塵もなかった。まるで、対等な人間として自分を認識しているかのような、絶対的な礼節。
「……あ、えっと……初めまして……」
いつもなら「あれれー?」と無邪気な子供を演じるはずのコナンだったが、美桜の射抜くような、それでいて穏やかな眼差しを前にして、その言葉が喉の奥に張り付いて出てこない。
(なんだ……? この人は。蘭たちの隣に、こんな子がいたのかよ……)
コナンは内心でたじろぎながら、隣にいる圭人に視線を送った。圭人は柔らかな口調で、事の次第をコナンに伝える。
「美桜さんの教室で、どうにも不可解なことが起きてるみたいなんだ。蘭たちがぜひコナンに見てほしいって。……どう思う、これ?」
「不可解なこと……?」
コナンが訊き返すと、美桜は静かに、しかし一言一言を置くように語り始めた。
「はい。ここ数日、私のクラスであるA組の教室に、異変が起きているのです。朝、登校してくると……教室の備品の配置が、前日の放課後とは『逆』になっているのです」
「逆……? 席替えか何かじゃなくて?」
「いいえ。そんな単純なものではありません。机や椅子はもちろん、掲示板のプリントの並び順、さらには教壇の小さな傷の向きに至るまで……まるで教室の真ん中に巨大な鏡を置き、それをそのまま実体化させたかのように、完璧に『左右が反転』しているのです」
「……!」
(へぇ……左右反転か。もし本当なら、相当手の込んだ悪戯だな)
コナンは少しだけ目を丸くしたが、すぐに探偵らしい好奇心を含んだ表情になった。
「……わかった。とりあえず、その教室を見せてくれる? 美桜姉ちゃん」
コナンがそう切り出すと、美桜は慎ましく頷き、教室の入り口へと歩を進めた。
「はい。ご案内いたします。……蘭さん、園子さん、星野さんも。よろしいでしょうか」
一同はB組を出て、隣のA組へと足を踏み入れた。
一見すれば、放課後のどこにでもある静かな教室だ。しかし、一歩中へ入った瞬間に感じる、脳をかき回されるような強烈な違和感。
「……これ、マジか…」
圭人が眉をひそめ、教室を見渡した。
「嘘でしょ……。ここ、私たちの教室と造りは同じはずなのに、なんだか別の学校に来たみたい……」
蘭が不安そうに周囲を見回すと、隣で園子が腕を組み、信じられないといった様子で声を上げた。
「ちょっと見てよ蘭! あの後ろの掲示板、あんな端っこに貼ってあったプリントが、今は反対側の端にあるわよ! 誰がこんな面倒なことやったのよ、全く……!」
教壇は右側に寄っており、掲示板のプリントは一番新しいものが左端から貼られている。時計の文字盤こそ正常だが、掛かっている位置は本来の場所の真向かいだ。
「……ねえ、美桜姉ちゃん。ここ、全部反転してるんだよね?」
コナンはあえて無邪気な声を出し、教室の隅々まで視線を走らせた。美桜は静かに、しかし確信を持って頷く。
「はい。例えばあちらの棚にある掃除用具の並び順……一番右にあるべきホウキが、今は左にあります。そして、棚の扉に付いている小さな凹み……。私が以前、不注意で付けてしまったものですが、それも今は逆側にあります」
「信じられない……。そんな細かいところまで逆になってるなんて……」
蘭が絶句する傍らで、コナンは床に這いつくばるようにして、ある一点を見つめていた。
(……ああ、なるほど。そういうことか)
コナンが何かを掴みかけたその時、圭人が教室の後方にある大型の木製ロッカーの陰で足を止めた。圭人はその付近の床を指先でなぞり、コナンに声をかける。
「なぁ、コナン。こっちを見てくれ。これ、ただの掃除じゃつかない跡だよね?」
コナンが駆け寄ると、そこには床のワックスがわずかに削れ、何か重いものを円を描くように動かしたような、真新しい「擦り跡」が残っていた。
「……うん。しかも、かなり最近ついたものだね、これ」
コナンはニヤリと笑い、今度は教室の前方、黒板の脇にあるチョークケースに目を向けた。そこには、授業で使われたらしいチョークが数本並んでいる。
「……美桜姉ちゃん、このクラスに左利きの先生とか、生徒っている?」
美桜は少し考え、不思議そうに首を傾げた。
「いえ……。担任の先生も、日直で黒板を書く生徒たちも、私の知る限りでは皆、右利きですが……それが何か?」
「いや、ちょっと気になっただけだよ!」
コナンは子供らしい笑顔で誤魔化した。だが、その瞳の奥では、バラバラだったピースが急速に形を成し始めていた。
(床の擦り跡に、右利きの人間が『逆向き』に作業した形跡……。これ、ただの悪戯じゃねーぞ。誰かが、明確な目的を持ってこの空間を『鏡合わせ』に作り替えたんだ……!)
「ねえ、園子姉ちゃん。最近、演劇部の人たちがこの辺りで練習してたりしなかった?」
コナンの唐突な質問に、園子は人差し指を顎に当てて「うーん」と唸った。
「演劇部? ああ、そういえば彼等、文化祭の出し物で使うホールが工事中だとかで、空いてる教室を片っ端から借りて練習するって騒いでたわね。……確か、演目は『鏡の国のアリス』だったかしら」
「『鏡の国』……。なるほどな、そういうことか」
圭人が納得したようにポンと手を打った。コナンと顔を見合わせ、二人は確信を持って教室内のある一点を指し示した。
「美桜さん。この教室を『左右反転』させた犯人は、おそらくその演劇部の生徒たちだよ」
「ええっ!? 演劇部が? でも、どうしてこんな手の込んだことを……」
蘭が驚きに目を見開く中、コナンがチョークケースの横に置いてあった黒板消しを指差した。
「見てよ、蘭姉ちゃん。この黒板消し、持ち手の部分が全部左側に揃えて置いてあるでしょ? でも、このクラスには左利きの人はいない……。つまり、誰かが『鏡合わせの世界』を完璧に再現しようとして、わざと左手で作業したみたいに配置したんだね」
「でも、慣れない左手での作業だったから、重いロッカーを動かす時に余計な力が入りすぎて、床にあの円形の擦り跡がついちゃったんだな」
圭人の補足に、園子が信じられないといった様子で声を上げる。
「ちょっと待ってよ。練習のために、わざわざ机や備品を全部逆さまに並べ替えたっていうの? 正気じゃないわよ!」
「いや、彼らにとっては切実だったんだと思うよ」
圭人は美桜の記憶力の凄さを思い出しながら、苦笑まじりに続けた。
「鏡の中の世界という設定で動く練習をするために、自分たちの体を環境に慣れさせたかったんだろう。ただ、練習が終わった後に元の配置を正確に思い出す自信がなくて……いっそのこと『全部、元の逆』に並べ替えれば、矛盾なく元に戻せると考えた……真面目すぎるがゆえの計算違い、といったところかな」
「……」
美桜は静かに二人の推理を聞いていたが、やがてその薄紅色の唇に、微かな、しかし確かな微笑を浮かべた。
「……やはり、そうでしたか。人の手による、あまりに純粋な努力の跡……。私の記憶に間違いがなかったと証明していただけて、安堵いたしました」
美桜は淑やかに一礼し、コナンの方をじっと見つめた。
「助かりました、江戸川さん。……そして、星野さんも。私の奇妙な相談に最後まで付き合ってくださって、感謝いたします」
「あ、いや……美桜姉ちゃんが自分の記憶を信じてたから、解けた謎だしさ!」
コナンはいつもの子供らしい笑顔で返したが、美桜の射抜くような眼差しには、すべてを見透かされているような心地よさと、得体の知れない緊張感が同居していた。
「……さて、蘭さん、園子さん。夜も更けてまいりましたし、そろそろ失礼いたしましょうか」
美桜の促しに、蘭たちは「そうね」と頷き、賑やかに教室を後にする。
夕闇に包まれ始めた廊下で、コナンと圭人は最後尾を歩きながら、静かに歩み去る美桜の背中を見つめていた。
(……千ヶ崎美桜さん、か。ただの美少女ってだけじゃないかもな、あれは)
(ああ。……あの子、もしかして本当は最初から答えに気づいてたんじゃねぇーか?)
二人は顔を見合わせ、言葉にできない奇妙な余韻を胸に、学校の階段を下りていった。