ヒーローと探偵 作:タルマヨ
2度目の浮気調査
「……というわけで、主人の行動がどうしても信じられないんです」
毛利探偵事務所のソファで、田口紀子は力なく項垂れていた。30代半ばという年齢よりも少しやつれて見える彼女は、膝の上で組んだ両手を固く握りしめている。
「以前、別の探偵さんに依頼した時は『証拠不十分で白』という報告を受けました。でも、夫の様子はそれからますますおかしくなって……。帰宅はさらに遅くなり、夜中に隠れて誰かと電話しているようなんです」
「なるほど、なるほど……。別の探偵が匙を投げた難事件を、この名探偵、毛利小五郎に解決してほしい、と。そういうことですな!」
小五郎はふんぞり返り、自慢の髭を撫でながら鼻息を荒くした。その隣では、蘭が心配そうに紀子を見つめている。
「お父さん、ちゃんと親身になってあげてよ? 紀子さん、本当に困ってるんだから」
「分かってるって。奥さん、安心してください。この名探偵がその旦那の化けの皮、綺麗さっぱり剥がして差し上げますよ!」
小五郎の威勢のいい声が響く中、事務所の隅では二人の少年が顔を見合わせていた。コナンと、学校帰りに蘭に連れられてやってきた圭人だ。
「……またいつもの調子だね」
コナンが呆れたように呟くと、圭人も小さく苦笑いを浮かべた。
「まあ、おじさんにとっては絶好の稼ぎ時なんだろうけど。不倫調査か……。正直、あんまり気が進まないな」
「そう言うなよ。蘭も『お父さんだけだと暴走しそうで怖いから、二人で見張ってて』って言ってたろ?」
コナンに袖を引かれ、圭人は困ったように眉を下げる。圭人は探偵ではないし、他人の家庭事情に首を突っ込む趣味もない。だが、蘭に頼まれてしまえば断ることはできなかった。
「分かったよ。……おじさん、俺とコナンも付いていきますよ。蘭に『見張り』を頼まれているからさ」
「あぁ!? 圭人にコナン、お前らは来るんじゃねぇ! 遊びじゃねぇんだぞ!」
小五郎が顔を真っ赤にして追い払おうとするが、すかさず蘭が腰に手を当てて割って入った。
「いいじゃない、お父さん! 紀子さんの大事な依頼なんだから、お父さんが変な失敗しないように二人が見ててくれるっていうんだから。ね?」
「ぐ、ぐぬぬ……。失敗なんてするわけねーだろ!」
蘭の剣幕に押され、小五郎は渋々承諾した。こうして、小五郎、コナン、圭人の三人は、紀子の夫・橋本武文の尾行を開始することになった。
◆
数日後の夜。舞台は杯戸町。
煌びやかなネオンが明滅し、夜の帳に大人の欲望が溶け込むホテル街の一角。小五郎たちは、ターゲットである橋本が勤務先から杯戸町へ移動するのを慎重に尾行していた。
「……静かに。止まったぞ」
小五郎が低い声で制止をかける。三人は路地裏の物陰に身を潜めた。
視線の先には、高級そうなコートを羽織った男・橋本が立っていた。彼が腕時計を気にしながら待っていると、派手なドレスに身を包んだ若い女が駆け寄ってくる。
「お待たせ、武文さん」
「いや、僕も今来たところだよ」
橋本は鼻の下を伸ばし、女の肩を抱き寄せた。二人は親密な様子で語り合いながら、すぐ目の前にあるホテルの入り口へと歩き出す。
「チャンスだ……!」
小五郎が素早く自身のスマホを取り出し、カメラを構えた。
ホテルの入り口で、橋本と女が足を止める。そして、どちらからともなく顔を近づけ、周囲の目も憚らずに深く、生々しいキスを交わした。
「……っ!」
その光景を間近で目撃した瞬間、圭人とコナンの顔が同時に熱くなった。
(……オイオイ、あんなところで堂々と……)
圭人は思わず手で口元を覆う。17歳の男子として、こうした現場を目の当たりにするのは刺激が強すぎた。隣のコナンも、メガネの奥で目を白黒させながら、頬を真っ赤に染めている。新一としての意識が強い彼にとっても、こうした光景は目のやり場に困るものだった。
「よっしゃあ! 完璧だ! 証拠ゲットだ!」
一方、小五郎だけは興奮気味にスマホのシャッターを切っている。
だが、顔を赤らめながらも、圭人とコナンの観察眼は止まっていなかった。二人は同時に、ある違和感に気づく。
「……待て。あの人、なんでわざわざ街灯の下で、カメラに見えやすい角度で止まっていたんだろう?」
圭人が小声で指摘すると、コナンも赤みを帯びた顔のまま頷いた。
「あぁ……。まるで見せつけているみたいだ。それにあの女の人、抱きつきながらチラチラと周囲を気にしている……。誰かを探しているみたいに」
二人の疑念が確信に変わる間もなく、背後の暗闇から不快な笑い声が聞こえてきた。
「……ヒヒッ、いい絵が撮れたみたいじゃないか、毛利さん」
振り返ると、そこには安っぽいスーツをだらしなく着こなした男が、数人のガラの悪い男たちを連れて立っていた。
「……誰だお前は?」
小五郎がスマホをしまい、険しい表情で前に出る。男は薄汚い名刺を差し出した。
「岡探偵事務所の岡だ。紀子さんから以前依頼を受けていたのは俺だよ。……おい、そのスマホのデータ、こっちに渡しな。そいつは俺のシマの獲物なんだよ」
「なんだと? シマだぁ?」
小五郎が岡を睨みつける。背後に控える男たちは明らかにカタギではない雰囲気を醸し出していた。
「寝ぼけたこと抜かしてんじゃねえぞ。この写真は俺の依頼人が待ち望んでる証拠だ。お前のような三流に渡すわけねえだろ!」
小五郎が毅然と言い放つが、岡は鼻で笑って肩をすくめた。
「三流ねぇ……。これ以上首を突っ込むなら、そのガキ共も含めて無事じゃ済まないぞ? 痛い思いをしたくなきゃ、素直に渡すこった」
岡の言葉に、小五郎がさらに一歩踏み出し、コナンと圭人を背後にかばった。
「……っ、おじさん」
圭人が呟く。小五郎の背中は、普段の情けなさが嘘のように大きく見えた。
「脅しなら他所でやりやがれ。コナン、圭人。お前らは下がってろ!」
小五郎が鋭く指示を飛ばす。その横から、コナンが岡を見据えて、無邪気さを装った声を上げた。
「ねえ、おじさん。あの岡さんって人、あの不倫相手の女の人と仲良しなんじゃない? さっきから息がぴったりだもん!」
「あぁ!? な、何をバカなことを言ってやがる、このガキ……!」
岡が露骨に動揺し、顔を引きつらせる。小五郎はその隙を逃さず、獲物を狙う鷹のような鋭い視線で岡を射抜いた。
「……いや、確かに言われてみりゃ、あの橋本の不自然な動き、誰かに撮らせるためのポーズだったと考えりゃ合点がいくな。てめぇ、最初からあの旦那をハメて、自分たちで撮った証拠写真をネタに強請るつもりだったんだな?」
「……ちっ、バレちまったら仕方ねえ。おい、やっちまえ! そいつらのスマホを奪い取れ!」
岡の逆上した合図と共に、数人のチンピラたちが一斉に襲いかかってきた。
「名探偵を舐めるんじゃねえぞ……!」
小五郎が叫び、真っ先に突っ込んできた大男の懐に滑り込む。相手の右腕をがっちりと固め、腰を切って深く入り込む。
――ドォン!!
一切の無駄がない、電光石火の一本背負い。コンクリートを叩く激しい衝撃音と共に、男は声を上げる間もなく意識を失った。
「うわっ!?」
目の前で一瞬にして仲間が沈むのを見て、岡の顔が引きつる。彼は逃げ出そうと踵を返したが、その先に圭人が音もなく立ち塞がった。
「……悪いが、ここは通さない」
「ガキが、どけえ!」
岡は懐から折りたたみ式のナイフを取り出し、圭人へ向けて振り下ろした。だが、圭人は冷静だった。最小限の動きで切っ先をかわすと、鳩尾に鋭い右膝蹴りを叩き込んだ。
「あがっ……!? 」
岡が悲鳴を上げる。圭人はよろけた岡の手を離さず、そのまま岡の体を路地の壁に叩きつけ、逃げ場を封じた。
「……っ、この野郎!」
さらに背後から小五郎に迫るもう一人の男。その足元に、凄まじい風切り音と共に「何か」が飛来した。
「いっけええええ!!」
コナンが「ボール射出ベルト」から放出したサッカーボールを、「キック力増強シューズ」のダイヤルを最大にして蹴り飛ばす。
――ドシュッ!!
空気を切り裂く剛球は、男の鳩尾に完璧にめり込んだ。男はくの字に折れ曲がり、後方のゴミ集積所まで数メートル吹き飛んでいった。
「な、なんだぁ……なんなんだよ、お前らは!」
壁に押し付けられたまま、岡が絶望的な声を上げる。その首根っこを、小五郎が背後から万力のような力で掴み上げた。圭人が手を離すと同時に、小五郎は岡を路地の中心へと放り出す。
這いつくばって逃げようとする岡の背中を、小五郎が重い革靴で踏みつける。岡は「がはっ」と短い声を漏らし、そのまま地面に伏した。
「これでおしまいだ。三流探偵さんよぉ。……おいコナン、警察に連絡だ!」
「うん、わかった!」
小五郎の鋭い指示に、コナンはすぐさま防犯電話を手に取った。
場所は移り、杯戸公園。
高木刑事や千葉刑事が現場の状況を整理し、男たちの身柄を確保している横で、小五郎は自身のスマホを橋本の鼻先に突きつけた。画面には、昨夜の生々しい抱擁とキスの瞬間が映し出されている。
「……これが証拠です。あんた、言い逃れはできませんな」
「そ、そんな……。紀子、これは違うんだ! 僕はハメられたんだよ、あの岡とかいう男に!」
橋本は必死に妻に縋り付こうとする。コナンは小五郎の影から、子供らしい無邪気な声で核心を突いた。
「でも、おじさんがホテルに行こうとしたのは本当だよね? 罠にかけようとした人は悪いけど、誘いに乗っちゃったのはおじさんなんだもん」
「そ、それは……」
絶句する橋本に、紀子が氷のように冷たい視線を向けた。
「……もういいわ、武文さん。岡さんのしたことは詐欺かもしれないけれど、あなたが私を裏切ろうとしていた事実は変わらない。昨日の夜、あんな風に誰かを抱いていたその手で、私に触れないで」
紀子は小五郎に深々と頭を下げ、報酬の封筒を渡した。
「毛利先生、ありがとうございました。……おかげで、ようやく踏ん切りがつきました」
彼女は一度も夫を振り返ることなく、独りで公園を去っていった。
「……自業自得だよね。浮気なんて、誰も幸せにしないのに」
コナンが溜息混じりに呟く。その隣で、圭人はポケットに手を突っ込み、遠ざかる紀子の背中を見つめていた。
「……勝手にやってろって感じだけど」
小五郎が「それにしてもお前ら、昨日の写真は刺激が強すぎたか?」とニヤニヤしながら振り返る。
コナンは真っ赤な顔で(……バーロォ、誰のせいだと思ってんだよ)と心の中で毒づきながら、表向きは「もう、おじさん、デリカシーないよ!」と子供らしく膨れてみせた。
圭人も耳まで赤くしながら、小五郎に対して丁寧な口調で返した。
「……おじさん、茶化すのはやめてください。俺だって、見たくて見たわけじゃないんですから」
「わっはっは! 17歳のガキには毒だったか! さあ、帰るぞ。今日は特上の寿司でも取るか!」
高笑いして歩き出す小五郎の後ろを、二人は顔の熱が引かないまま、割り切れない表情で付いていった。