ヒーローと探偵   作:タルマヨ

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影の継承者編
地の鮫(前編)


 深夜二時。東京湾の潮風が吹き抜ける首都高速湾岸線は、大型トラックが時折排気音を響かせるだけの静寂に包まれていた。その暗転したアスファルトの上を、数台のパトカーが隊列を組んで疾走している。中心に位置するのは、重厚な装甲を施された警視庁の護送車だ。

後方のパトカーを運転する千葉刑事は、ハンドルを握る手にじっとりと汗が滲むのを感じていた。バックミラー越しに映る護送車の中には、かつて東京を恐怖に陥れた武装組織MDRのリーダー、黒崎凱が収容されている。

「……高木さん。なんだか、嫌な予感がしませんか」

千葉が隣の助手席に座る高木刑事に向かって声をかけた。高木は無線機を手に、前方を見据えたまま表情を硬くしている。

「ああ……。黒崎を拘置所に移送するこのルートは極秘のはずだが……おい、千葉! 計器を見ろ!」

高木の鋭い指摘に千葉が視線を落とすと、スピードメーターの針が狂ったように振れ、カーナビの画面には砂嵐が吹き荒れていた。

「な、なんですかこれ!? 通信も死んでます!」

「ジャミングだ! 千葉、ブレーキ――」

高木が叫び切るより早く、前方の護送車が突如として道路脇から射出された濃密な白煙に飲み込まれた。それは自然の霧などではない。強力な電子攪乱を伴う特殊な発煙弾だ。

「うわっ!? なんだこの煙は! 千葉、前が見えねぇぞ!」

「わ、分かってます! 高木さん、しっかり掴まっててください!」

千葉は必死にブレーキを踏み込んだが、煙の向こうから突如として現れた巨大な黒い影――大型の特殊車両が、猛スピードで護送車の横腹へと激突した。火花が闇を切り裂き、護送車が大きく横転する。パトカーもその衝撃に巻き込まれ、中央分離帯に激突して停止した。

「く……そ……っ」

高木は朦朧とする意識の中で、ドアを蹴り開けた。視界の先では、防弾ベストに身を包んだ男たちが手際よく護送車のリアゲートを爆破している。煙の中からゆっくりと姿を現したのは、手錠を外された黒崎凱だった。

黒崎は、自身の胸ポケットに隠し持っていた――警察の身体検査を擦り抜けた極薄のデータ端末を取り出すと、月光の下で冷たく微笑んだ。

「……千葉、大丈夫か! 返事をしろ!」

「なんとか……っ。高木さん、奴らが……黒崎が!」

高木は震える手で拳銃を構えたが、黒崎は彼らを一瞥することさえなかった。

「……光の解析は終わった。あとは、私自身がその『器』に相応しいことを証明するだけだ」

黒崎が端末のキーを叩くと、再び激しい爆発音と共に煙が周囲を覆い尽くす。煙が晴れたときには、襲撃車両も、そして黒崎の姿も、最初からそこになかったかのように消え去っていた。

 

 

 

 

 

 翌朝。五月蝿いほどのセミの声が響く米花町。毛利探偵事務所の居間では、テレビのニュースキャスターが神妙な面持ちで原稿を読み上げていた。

『……繰り返します。昨夜発生した護送車襲撃事件について、警視庁は先ほど、逃走した黒崎凱被告の顔写真を公開しました。現場からは強力な電磁波の痕跡が発見されており、何らかのハイテク機器を用いた組織的な犯行と見て、警視庁は大規模な検問を――』

ソファで新聞を広げていた小五郎は、テレビに映し出された黒崎の、すべてを嘲笑うような冷笑を見て、手の中の新聞を「ギリッ」と音を立てて握りつぶした。

「……チッ、あの野郎。現場の連中が、どれだけの思いであいつを追い詰めたと思ってやがんだ……!」

小五郎の喉の奥から、絞り出すような怒りが漏れる。彼は元刑事だ。目暮警部や高木、千葉たちが、この男を捕らえるためにどれだけの不眠不休の捜査を続け、命を懸けたか。その過程を、彼は痛いほど知っている。後輩たちの努力を踏みにじられた無念が、その背中に滲んでいた。

「お父さん、朝からそんなに怒鳴らないでよ……。でも、本当に怖いわね。あんな危険な人がまた外をうろついてるなんて。米花町の方は大丈夫なのかしら」

蘭が心配そうにキッチンから顔を出し、コナンに朝食の目玉焼きの皿を差し出す。

「あ、ありがとう蘭姉ちゃん!」

コナンは努めて明るい声で返し、フォークを手にした。だが、蘭がテレビに視線を戻した瞬間、その表情からは子供の仮面が剥がれ落ち、鋭い探偵の眼差しが画面の「ノイズ」を凝視する。

(……現場に残された電子ノイズの跡。ただの逃走にしては手が込みすぎてる。黒崎の奴、連行される直前に懐に何かを忍ばせてた形跡があった……。警察の身体検査を擦り抜けるほどの薄型デバイスか? だとしたら、あの脱走劇の目的は身の自由だけじゃねぇ……)

コナンは、以前の事件で黒崎が見せた、ティガに対する異常な執着を反芻していた。あの男の目は、敗北を認めた者の目ではなかった。

(あの時、黒崎は確かにティガを『解析』しようとしてた。もし、あの状況で真っ先に確認したのが自分の安全じゃなく、何らかの『戦闘データ』の吸い出し完了の合図だったとしたら……)

「コナン君? 手が止まってるわよ。冷めちゃうわよ?」

「あ、う、うん! ちょっとニュースが怖くてさ!」

蘭の問いかけに、コナンは慌てて目玉焼きを口に運ぶ。だが、飲み込んだ食感など全く意識になかった。

「……(あんな危険な野郎、ただ逃げただけで終わるはずがねぇ。必ずどこかで、また『力』を手に入れようと動き出す……)」

心の中で毒づくコナンの瞳には、冷徹な危機感が宿っていた。黒崎が脱走劇を演じてまで手に入れたかった「次のステージ」。それがこの街を、再び未曾有の混沌に突き落とす予感に、コナンの背筋を冷たい汗が伝った。

 

 

 

 

 

 

 

 放課後のチャイムが校舎に溶け、静かだった学び舎が騒がしく塗り替えられていく。廊下には生徒たちの解放感に満ちた声が溢れていたが、その話題の多くは、朝からニュースを独占している「黒崎凱逃亡」の一件に集約されていた。

2年B組の教室。圭人は、周囲のざわめきを遠くに聞きながら、黙々と教科書を鞄に詰め込んでいた。その指先は、自分でも気づかぬうちに微かに強張っている。黒崎が逃げたという事実は、圭人にとって単なる凶悪犯の逃走以上の意味を持っていた。自分の中に眠る「光」が、言いようのない不穏な予感にじりじりと焼かれるような感覚。

「ねえ蘭、聞いた? あの犯人、まだこの近くに潜伏してるかもしれないんですって。ニュースで言ってたわよ、湾岸エリアが危ないって」

園子が蘭の肩を抱き寄せながら、大裟に震えてみせる。蘭もまた、不安を隠せない様子で窓の外を見やった。

「ええ……。お父さんも朝から凄く怒ってたし、本当に怖いわね。米花町の方まで来なければいいんだけど……」

「大丈夫だよ蘭君。ボクたちの周りには警察もたくさん配備されてるみたいだし、何よりボクがついているからね」

教室の入り口に寄りかかっていた世良が、ニッと八重歯を見せて笑う。しかし、その鋭い視線は蘭に向けられたままではなく、静かに、だが確実に圭人の背中を射抜いていた。世良は歩み寄ると、圭人の机の端に座った。

「なあ、星野君。君も気をつけて帰りなよ。君のその様子じゃ、犯人より先に自分の考え事に足元を掬われそうだ」

「……ああ、真純さん。そうだね、気をつけるよ」

圭人は努めて短く答え、鞄のジッパーを引いた。世良の探るような視線をこれ以上浴び続けるのは得策ではない。圭人は教室を後にした。

廊下に出ると、隣のクラスである2年A組の前で、数人の生徒が立ち止まっていた。そこには、担任から頼まれたプリントの束を抱えた美桜の姿があった。

美桜は、不安そうに身を寄せてくる同じクラスの女子生徒たちに、静かな微笑みを向けていた。

「……大丈夫ですよ、愛さん。過度に恐れる必要はありません。お帰りの際は、できるだけ街灯の多い、明るい大通りを選んで歩くようにしましょうね」

美桜の声は、落ち着いた響きを持っていた。女子に対しては親愛を込めて下の名前で呼び、丁寧に寄り添う。しかし、廊下を歩いてきた圭人と、その後ろから付いてきた世良に気づくと、美桜はその場に佇んだまま静かに会釈した。

「星野さん。世良さん。物騒な事件ですね。お二人とも、下校の際はお気を付けください」

美桜は男子に対しては苗字で呼び、敬語を徹底する。それは美桜が自分の中に引いている、明確な「境界線」だった。

「ああ、美桜さんも気をつけて。……行くぞ、真純さん」

圭人が美桜の言葉に応じ、世良に声をかける。世良は美桜の丁寧すぎる挨拶に少しだけ肩をすくめ、ニカッと笑って片手を上げた。

「へへっ、心配ご無用さ! ボクがついてるからね。それじゃ、美桜君も気をつけて!」

世良の快活な返答に、美桜は一度だけ慎ましやかに頷いた。しかし、二人が通り過ぎようとしたその時、美桜は伏せがちだった視線を僅かに上げ、圭人の横顔を見た。

「星野さん。あなたの瞳……怯えているようには見えませんね」

美桜は淡々と、独り言のようなトーンで言葉を継いだ。

「自分以外の何かを案じているのか、あるいは……その身に過ぎた『使命』でも背負っているかのよう。……少し、気にかかります」

その言葉が投げかけられた瞬間、隣にいた世良の笑みが消えた。

世良は口を挟むことなく、鋭い眼光で美桜と圭人の横顔を交互に見つめた。探偵としての直感が、美桜の言葉に含まれた「観察」の深さと、それを受ける圭人の一瞬の硬直を逃さなかった。

(……へぇ。ボクが星野君に感じていた違和感を、彼女も別の角度から突いてくるか。それも、あんなに静かなトーンでね……)

世良はポケットに手を突っ込んだまま、黙って二人の空気感を読み取ろうとしていた。美桜の淡白な「線引き」の向こう側にある、底知れない洞察力。そして、それを向けられた圭人が見せた、肯定も否定もしない沈黙。

「……君は、随分とよく見てるんだね、美桜さん」

圭人がようやく足を止めて答えると、美桜はそれ以上踏み込むことはせず、再び会釈をしてA組の教室へと戻っていった。世良は美桜の後ろ姿を見送る圭人の肩を、少し強めに叩いた。

「……星野君、今の聞いたかい? 随分と意味深なことを言われちゃったね。どうだい、ボクにもその『使命』ってやつの正体を教えてくれないか?」

世良は茶化すような口調を選んだが、その目は笑っていなかった。

「……何度も言うが君は買い被りだよ。俺にあるのは、ただの『責任感』くらいさ。……それより、蘭たちが待ってる。早く行こう」

「ふーん……。相変わらず逃げるのが上手いね、星野君は」

世良は目を細め、圭人の背中を追いかけるように歩き出した。

廊下には、美桜の放った静かな拒絶と、世良が抱いた新たな疑念の余韻だけが重く残されていた。

 

 

帝丹高校の正門を抜け、夕刻の重苦しい光が斜めに差し込む米花町の住宅街へと入る。圭人は、隣を歩く世良の視線を常に感じていた。美桜に言われた「使命」という言葉を反芻しているのか、世良はポケットに手を突っ込み、時折、鼻歌を装った鋭い溜息を漏らす。

「……ねえ、星野君。君ってさ、さっきの美桜君とは前からあんな感じなのかい?」

「あんな感じって?」

「いや、なんていうかさ。お互いに透明な壁を隔てて、相手の急所を探り合ってるみたいな……。ボクの気のせいならいいんだけどね」

世良がニカッと笑いながらも、その目は探偵のそれとして圭人を観察し続けていた。その時、通りの角にある掲示板の前で、三つの小さな影が固まっているのが目に入った。

「あ、圭人お兄さん! 真純お姉さんも!」

掲示板から真っ先に駆け寄ってきたのは、歩美だった。その表情には、いつもの明るさの中に拭いきれない不安が混じっている。

「やあ、歩美ちゃん。こんなところで何をしてるんだ?」

圭人が歩みを止めると、掲示板に貼られた黒崎凱の手配ポスターを睨みつけていた光彦と元太も振り返った。

「よお、圭人兄ちゃん! 見ろよ、この凶悪犯。俺たちが捕まえて、手柄にしようって話してたんだぜ!」

元太が力強く拳を突き出した。ポスターに写る黒崎の冷酷な瞳などどこ吹く風で、その勢いは相変わらずだ。

「元太、無茶を言うな。相手は警察を襲撃するような奴なんだぞ。俺たちが相手にできるような奴じゃないよ」

圭人が厳しくたしなめると、光彦も眼鏡のブリッジを押し上げ、深刻な顔で同意した。

「そうです、元太君。僕も反対です。相手は特殊なジャミング装置を使って警察の通信を遮断したんですよ? 僕たちの探偵団バッジだって、無効化されてしまうかもしれません」

光彦が論理的な恐怖を口にする。それに対し、世良が横からひょいと顔を出した。

「へぇ、よく勉強してるね光彦君! その通り、相手はかなりのハイテク機材を使いこなす組織だ。君たちの出番はないよ」

「あ、真純姉ちゃん! でもよ、俺たちの町にこんな奴がいると思うと、腹が減って戦(いくさ)ができねえよ! 博士ん家に行ったら、うな重の出前、頼んでもらおうぜ!」

元太が鼻を鳴らしながら、危機感よりも空腹を優先させる言葉を吐く。そんな中、歩美が圭人の服の裾をそっと掴んだ。

「圭人お兄さん……歩美、なんだか昨日からずっと変な感じがするの。胸がザワザワして、何かが近づいてくるみたいで……」

歩美は不安げに胸に手を当てて訴えた。その直感は、圭人がアイランドシティの方向から感じている不気味な脈動と、見事に一致していた。

「……ザワザワする?」

「……。へぇ、奇遇だね。ボクの直感も、さっきから似たような警報を鳴らしてるんだ」

世良が低く呟き、ポスターの黒崎と、遠くに見えるアイランドシティのシルエットを交互に見つめた。

「圭人お兄さん、哀ちゃんも言ってたよ。今日は博士の家に早く集まるようにって」

歩美の問いかけに、圭人は頷いた。灰原が早めに招集をかけたということは、彼女もまた「何か」に気づいた証拠だ。

「ああ、一緒に行こうか。……元太、光彦、今日は寄り道厳禁だぞ」

「うな重のためなら、脇目も振らずに走るぜ!」

「もう、元太君ったら……。行きましょう、圭人さん!」

圭人は子供たちの歩幅に合わせて歩き出した。その背中を、世良は無言のまま、しかし確信に満ちた眼差しで見送っていた。

 

 

 

 

 

 博士! お腹空いたよ、うな重の出前頼んでくれよ!」

阿笠邸のリビングに、元太の豪快な声が響き渡る。歩美と光彦も、玄関で出迎えた博士を囲んで、今日の下校路で見た手配ポスターの話をまくしたてていた。

「ガッハッハ! 元太君、うな重はまた今度じゃ。今日はこれから、圭人君と大事な相談があるんじゃよ」

博士は子供たちをなだめると、圭人に目配せをして地下の作業場へと促した。灰原は既に地下へ降りており、リビングには子供たちの賑やかな声が残される。

「ねえ、圭人お兄さん。やっぱり後で一緒にご飯食べようね?」

「ああ、分かってるよ、歩美ちゃん。すぐ戻るから、元太と光彦も大人しく待っててくれ」

圭人はそう言い残し、階段を降りた。

 

 

地下作業場へ降りると、そこにはリビングの喧騒が嘘のような静寂と、電子機器の熱気が満ちていた。壁際のモニターには複雑な波形データが並び、その前で灰原が静かにキーボードを叩いている。

「さあ、圭人君。これが最終調整を終えた**『アリバイくん一号』**じゃ!」

博士が手渡してきたのは、シルバーとメタリックブルーの装飾が施された、手のひらサイズのエンブレム。圭人はそれを制服の内ポケットへ、レンズが隙間から覗くように丁寧に収めた。

「操作はすべてこの専用アプリ、『身代わりマネージャー』で行うんじゃ。画面を見てごらん」

圭人がスマホを起動すると、そこには博士特製の、無駄を削ぎ落としたインターフェースが表示された。

「まず、この中央にある『位置スライダー』じゃ。これを左右に動かすだけで、ホログラムの出現位置を前後左右、最大三メートルまで自在に調整できる。自分が物陰に隠れるのと同時に、あらかじめ設定した位置に自分の『虚像』を残すわけじゃな。そしてその下の『なじませボタン』。これをタップすれば、バッジのセンサーが周囲の明るさや色を解析し、ホログラムを瞬時に周囲の風景へ馴染ませる。これなら世良くんのような鋭い探偵の目も、一瞬では見破れんはずじゃ」

圭人がテスト起動のアイコンをタップすると、足元のバッジから極細のレーザー光が放たれ、三歩先に「もう一人の圭人」が音もなく浮かび上がった。アプリ画面には「同期完了」の文字が青く灯る。

「……指向性音声の精度も、以前より格段に上がってるみたいだね」

「そうじゃ! 画面下部の『声の向き』を操作すれば、君の囁き声をバッジ側で変換し、『ホログラムの口元』に位置を合わせて発信できる。スマホ越しに喋るだけで、まるで本人がその場で返事をしたように周囲の耳に届く仕組みじゃよ」

圭人が感心しながら画面をなぞっていると、背後のPCラックの影から灰原が、椅子を回転させてこちらを向いた。

「問題は、あなたが変身や移動で現場を離れて、操作が不能になった時ね」

灰原は冷めた視線の中に、どこか案じるような色を滲ませて続けた。

「そのための『自律回避モード』よ。アプリの『自動防衛』を有効にしておけば、バッジのセンサーが半径一メートル以内の侵入者を自動で検知するわ。誰かがホログラムに接触しそうになった瞬間、あなたのスマホに着信を偽装して鳴らし、ホログラムにこう言わせる……。『あ、ごめん。ちょっと電話だ』。そのまま物陰へ歩き去り、視界から消えた瞬間にフェードアウトする挙動まで完璧にプログラミングしてあるわ」

「『ごめん』か……。俺の口調、そんなに録音されてたんだな」

「ええ、あなたの声のトーンから呼吸の置き方まで、しっかりサンプリングさせてもらったわ。……星野君、このバッジはあなたの日常を守るための仮面よ。それが剥がれるときは、あなたの正体が白日の下に晒されるとき。それだけは忘れないで」

「わかってる、志保さん。……ありがとう、博士。これがあれば、俺は迷わず戦場へ行ける」

圭人はアプリの最終チェックを終え、画面を閉じた。

上の階からは相変わらず元太たちの賑やかな声が聞こえてくるが、内ポケットの『アリバイくん一号』が放つ微かな金属の冷たさが、これから向かう戦場の厳しさを圭人に自覚させていた。

 

 

 

 阿笠邸のリビングは、博士が急遽用意した特大の焼きそばを囲む探偵団の歓声で包まれていた。

「うおぉー! うな重じゃねえけど、この肉厚の豚バラも悪くねえな!」

「元太君、口の周りがソースだらけですよ」

「あはは、本当! 博士、おかわりある?」

元太が豪快に麺を啜り、光彦と歩美がそれに笑う。その賑やかな光景を、圭人はリビングの隅にある窓から静かに見つめていた。外はすっかり夜の帳が下り、遠くに見えるアイランドシティの建設クレーンが、巨大な獣の角のように夜空を突き刺している。

「……ちょっと、外の空気を吸ってくるよ」

圭人の言葉に、元太が顔を上げた。

「なんだ圭人兄ちゃん、もう食わねえのか?」

「ああ、さっきのパンがまだ効いててさ。すぐ戻るから、みんなで食べててくれ」

歩美が少し心配そうに視線を向けたが、圭人は優しく微笑んで応え、リビングを後にした。玄関を出た瞬間、夜の冷気が肺の奥まで入り込む。彼は即座にスマホを取り出し、アプリ『身代わりマネージャー』を起動。待機状態を確認すると、闇に紛れて港湾エリアへと走り出した。

 

 

 

 二十分後。潮の香りと錆びた鉄の匂いが混ざり合う港湾エリアの入り口には、黄色いテープが張り巡らされていた。

「ここから先は立ち入り禁止だ! 下がってくれ!」

数人の警官が検問を行っている。黒崎の潜伏先とされる倉庫街は、その封鎖線の先だ。圭人はコンテナの陰に身を潜めると、アプリの『位置スライダー』をスワイプした。

「……よし、あっちだ」

封鎖線から少し離れた街灯の下に、バッジを投げ、自分のホログラムを投影する。遠目には、夜の港を呆然と眺めている男子高校生にしか見えない。

「おい、君! こんなところで何をしている!」

警官たちがホログラムの方へ駆け寄り、注意を削がれた隙に、圭人は音もなく封鎖線を飛び越えた。

「……悪いな、警察。ここから先は、俺の仕事だ」

しかし、その様子を遠くから見つめる鋭い視線があった。暗闇の中に佇む一台の大型バイク。その上に跨る世良真純が、ヘルメット越しに目を細める。

「……やっぱりここに来たか、星野君。ボクの直感は外さないよ」

世良はエンジンを切ったままバイクを滑らせ、圭人が消えた方向へと静かに追跡を開始した。

圭人は、さらに奥の廃倉庫街へと足を踏み入れていた。大型クレーンの影が地面に長く伸び、不気味な静寂が辺りを支配している。背後に人の気配を感じ、圭人は咄嗟に積み上げられた木箱の陰に滑り込んだ。

「星野君……。隠れても無駄だよ、そこにいるんだろ?」

世良の声が静まり返った港に響く。彼女は圭人のホログラムが佇んでいるコンテナの角へとゆっくり歩を進めていた。

「どうしてこんな危険な場所に来たんだい? 君がただの高校生じゃないことは、もう分かってるんだ」

世良がホログラムに手を伸ばし、その肩を掴もうとした瞬間だった。

(チリリリリ……!)

静寂を裂いて、スマホの着信音が鳴り響く。バッジの近接センサーが反応し、『自律回避モード』が作動したのだ。

「……あ、ごめん。ちょっと電話だ」

ホログラムの圭人が、いつもの柔らかなトーンでスマホを耳に当てた。そのあまりに自然な動作に、世良は思わず足を止める。

「え……あ、おい!」

ホログラムは電話の相手と話し続けるフリをしながら、スタスタと巨大なコンテナの隙間へと入っていく。世良が慌てて後を追ったが、角を曲がった先には、夜風が吹き抜ける空き地があるだけだった。

「……消えた? まるで、最初から誰もいなかったみたいに……」

世良はその場に立ち尽くし、自分の手のひらを見つめた。

 

 

 

その頃、本物の圭人は、さらに数百メートル先の第4号倉庫の前にいた。重厚な鉄扉の隙間から、禍々しい青黒い光が漏れ出している。

中から聞こえてくるのは、鉄がひしゃげるような音と、獣のような唸り声。

圭人はスマホを操作し、『身代わりマネージャー』を終了させ、鉄扉を蹴破るようにして踏み込んだ圭人の目に飛び込んできたのは、乱雑に立ち並ぶモニター群と、その中心で冷徹にキーボードを叩く男——黒崎凱の姿だった。

その背後、ひときわ目を引く影が蠢く。金属質の鱗に覆われた鮫の背びれのような体、地中鮫ゲオザークが、起動の時を待つように不気味な駆動音を立てている。

「……やっと来たか、星野圭人」

黒崎は振り返らず、嘲笑を含んだ声で言った。その瞳には、圭人のものと同じ、超古代の記憶を呼び覚ます鋭い光が宿っている。

「黒崎……。これ以上、アイランドシティの計画を邪魔させるわけにはいかない」

「邪魔、だと? 笑わせるな。私はこの地の底に眠る遺産を、正しく導こうとしているだけだ。お前のような、ただ『光』を与えられただけの凡夫には分からないだろうがな」

黒崎がゆっくりと立ち上がる。その立ち居振る舞いには、自らを人類を導くべき真の継承者と位置づける、狂気にも似た傲慢さが満ちていた。

「お前を見ていると反吐が出るんだよ。同じ血を継ぎながら、その力を隠し、弱き者を守るための盾に成り下がる……。そんな軟弱な精神の持ち主に、光が宿っていること自体、この世界の損失だとは思わないか?」

「力は、誰かを踏みにじるためにあるんじゃない!」

圭人の叫びを、黒崎は冷酷な笑いで切り捨てた。

「やはり凡夫だ。……行け、ゲオザーク! 停滞したこの街を、底から食い破れ!」

黒崎がコンソールを叩くと、ゲオザークの目が赤く発光し、倉庫のコンクリートを紙細工のように粉砕して地中へと潜行した。直後、港湾エリア全体を激しい震動が襲う。

地中を突き進むゲオザークの衝撃波によって、岸壁に並ぶコンテナが次々と跳ね上がり、アスファルトに深い亀裂が走る。

「危ない……!」

 

そこへ、バイクで追跡してきた世良が飛び込んできた。だが、運悪く彼女のバイクの直下で地面が爆発するように隆起する。

「うわあああっ!」

投げ出される世良。その先には、地割れによって崩落し始めた海沿いの崖があった。投げ出された衝撃で、世良の体は無情にもコンテナの角に叩きつけられ、そのまま意識を失い、崩れる土砂とともに海へと落下していく。

「真純さん!」

圭人は走り出した。もはや『身代わりマネージャー』で誤魔化せるような状況ではない。黒崎はモニター越しに、歪んだ歓喜を浮かべてその光景を眺めている。

「さあ、どうする? 力を晒して彼女を救うか、それとも正体を隠したまま見殺しにするか……。お前の『優しさ』という名の弱さを見せてみろ!」

圭人は宙を舞う世良の姿を網膜に焼き付けた。迷いはない。守るべき日常があるなら、自分はそのために仮面を脱ぐだけだ。

圭人は懐からスパークレンス・ハイパーを掴み出す。叫ぶこともなく、ただ強く握り込み、夜空へ掲げた。

刹那、無音の中に黄金の閃光が爆発し、夜の港を昼間のように塗り潰した。意識を失った世良の視界にその光が届くことはなく、黒崎の嘲笑が驚愕へと変わる。

光が収まったとき、そこには崩落する土砂をその掌で受け止め、世良を優しく包み込む銀色の姿があった。

夜の海を背に、赤と紫のラインが躍る——光の戦士、ティガが、地中から這い出したゲオザークを静かに見据え、今その姿を現した。

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