ヒーローと探偵 作:タルマヨ
対称の罠
深夜の静寂を切り裂くように、パトカーのサイレンが米花町の住宅街に響き渡った。
行き先は、瀟洒な門構えを誇る「黒川邸」。しかし、その重厚な扉の向こう側で待っていたのは、無惨にも物言わぬ骸と化した主の姿だった。
「ひどいもんだな……」
現場に到着した圭人は、書斎の凄惨な光景に微かに眉をひそめた。床に倒れているのは、この屋敷の主であり、黒川病院の院長でもある黒川大造。後頭部を鈍器のようなもので強く殴打されており、周囲の絨毯にはどす黒い鮮血が広がっている。
「目暮警部! 犯人はもう分かってますぞ!」
遺体の傍らで自信満々に声を張り上げたのは、毛利小五郎だった。その背後には、あどけない表情を浮かべながらも、鋭い視線で周囲を観察するコナンの姿がある。
「な、なんだって? もう分かったのかね、毛利君」
目暮が驚きの声を上げると、小五郎はふんぞり返って遺体の指先を指し示した。
「ええ! 見てください、このダイイングメッセージを。被害者が指で作った『JUN』の文字……JUN、つまり6月ですな! 6月は和名で水無月。犯人はズバリ、奥さんの黒川美奈さん、あんただ!」
「な、なんてこと……! 私が主人を殺すなんて!」
美奈が顔を覆って泣き崩れる中、現場の空気は一気に凍りついた。目暮も困惑した表情で首をひねる。
「いや、しかし毛利君。それはあまりに飛躍しすぎでは……」
(オイオイ……飛躍しすぎどころの話じゃねーよ、おっちゃん……)
小五郎の死角に隠れたコナンが、呆れたように心の中で毒づいた。隣でその様子を見ていた圭人も、困ったように肩をすくめる。
「おじさん、さすがにそれは強引じゃないかな。美奈さんにはアリバイもあるし……」
「うるさーい! 素人は黙ってろ、圭人! これは名探偵の直感なんだよ!」
小五郎は圭人の言葉を遮り、鼻息を荒くして持論を展開し続ける。遺族である長男の大介や次男の二郎も、あまりの的外れな推理に怒りを通り越して呆れ顔だ。
コナンはそんな喧騒を余所に、机の上に置かれたパソコンのキーボードと、遺体の足元をじっと見つめていた。
(……指の形は『JUN』。だが、これはアルファベットじゃねー。かな入力の配列だとしたら……Jは『ま』、Uは『な』、Nは『み』……)
コナンの思考が加速する。同時に、遺体の周囲にある不自然な「空白」と、容疑者たちの足元を繋ぎ合わせ、真実のピースを組み立てていく。
(……動機は、一年前におきたあの医療ミス。スリッパを脱いで近づき、背後から一撃……。証拠は、今もその足元に残ってるはずだぜ)
コナンは腕時計型麻酔銃の蓋を静かに跳ね上げた。ターゲットは、いまだに大声で美奈を問い詰め、周囲の反感を買っている小五郎の首筋だ。
「悪いなおっちゃん、ちょっと眠っててもらうぜ……」
シュッ、という小さな風切り音と共に、麻酔針が正確に小五郎の頸部を射抜いた。
「ふにゃ……ふにゃにゃにゃ……」
小五郎の体がガクガクと震え、まるで操り人形の糸が切れたかのように、近くの回転椅子へと崩れ落ちる。圭人は手慣れた動作でその肩を支え、不自然に見えないよう椅子の向きを調整した。
「お、おい毛利君! どうしたのかね!?」
慌てる目暮を制するように、椅子に深く腰掛け、うなだれた状態の小五郎が口を開いた。
〈……いや、失礼。少々、今の推理は冗談が過ぎましたな……目暮警部〉
蝶ネクタイ型変声機を喉元に当てたコナンが、小五郎の声で静かに、そして威厳を持って語り始めた。
〈これから、この黒川大造さんを殺害した真犯人を、論理的に説明しましょう。……犯人は、家政婦の中沢真那美さん。あなただ〉
「な、なんですって!? 私、そんな……!」
突然の指名に、中沢の手が激しく震える。しかし、
〈あなたが遺体の傍らに残した『JUN』の文字。これは、パソコンのキーボードで『かな入力』をした際の配列です。J、U、N……それをそのまま読めば、『ま・な・み』となる〉
室内がざわつく。中沢の顔から血の気が引いていくのが、暗がりでもはっきりと分かった。
〈さらに、犯人は背後から近づく際、足音を消すためにスリッパを脱いでいた。そして、院長を殴打した際、返り血が微かに足元へ飛んだはずだ。中沢さん、あなたが今履いているその靴下の裏……洗っても落ちきらなかった血痕が、今も残っているのではないですか?〉
中沢はその場に崩れ落ち、声を上げて泣き始めた。
「……あの人は、主人の手術を……酔った状態で執刀したんです。それなのに、ミスを認めようともせず……!」
復讐の独白が、夜の書斎に重く響く。目暮の合図で、高木たちが中沢の身柄を確保した。
事件は解決し、警察車両が引き上げていく。
◆
黒川邸の事件から数日後。阿笠邸の居間では、コナンが山積みにされた郵便物を整理していた。
その傍らでは、灰原が静かに紅茶を啜りながらファッション雑誌を捲っている。
「……森谷帝二?」
宛先は「工藤新一様」。差出人は、世界的に名を馳せる建築家、森谷帝二だった。
コナンは封を切り、中身を確認する。それは、4月26日に彼の邸宅で開催されるガーデンパーティーへの招待状だった。
「どうしたんじゃ、新一君。妙な顔をして」
キッチンから紅茶を運んできた博士が、コナンの手元を覗き込んだ。
「博士、これ。有名な建築家の森谷帝二から招待状が届いたんだけど……今の俺じゃ行けるわけねーだろ?」
「ほっほっ、それは弱ったのう。せっかくの著名人からの誘いじゃが、小学生の姿で行くわけにはいかんしな」
コナンは椅子にもたれかかり、天井を仰いだ。新一への挑戦とも取れるような丁寧な文面。無視するには惜しい相手だが、リスクが大きすぎる。
「あら、有名な建築家じゃない。あなたの美的センスに合うんじゃないかしら?」
灰原が視線を上げずに皮肉っぽく呟く。コナンは鼻で笑って返した。
「バーロォ、俺はホームズ並みに論理的な建築の方が好みだっつーの」
その時、コナンのポケットでスマートフォンが震えた。画面には「蘭」の文字が表示されている。コナンは阿笠邸の隅へ移動し、喉元に蝶ネクタイ型変声機を当てた。ダイヤルを素早く回し、新一の声へと調整して通話ボタンを押す。
〈よう、蘭。ちょうど今、オメーに電話しようと思ってたんだ〉
『あ、新一? ちょうどよかった。あのさ、森谷帝二っていう建築家から、新一の家にパーティーの招待状が届いてない?』
電話越しの蘭の声は、どこか弾んでいた。
〈ああ、今見てたところだ。だけど悪い、俺、今ちょっと外せない事件にかかっててよ。行けそうにねーんだ〉
『えーっ、やっぱり? せっかく園子も「あの森谷帝二の屋敷が見られるなんて一生の宝物だよ」って言ってたのに……』
蘭の残念そうな声を聞き、コナンは口角を上げた。
〈だからさ、おっちゃんを俺の代理として行かせてやってくれよ。オメーも一緒にな。建築の勉強になるかもしれねーだろ?〉
『え、いいの? お父さん、有名な先生のパーティーだって聞いたら喜ぶと思うけど……あ、そうだ新一! ちょっと聞きたいことがあるんだけど』
唐突に蘭の声のトーンが変わった。
〈なんだよ、改まって〉
『新一の好きな色って……やっぱり赤?』
〈赤? ああ、まあな。それがどうしたんだよ〉
『うふふ、別に! ちょーっと気になっただけ。……あ、それからもう一つ! 来月の5月3日、空けておいてよね。米花シティービルでオールナイトの映画を一緒に観るって、約束したでしょ?』
〈5月3日? ……ああ、別に構わねーけど、なんでまたそんな日に?〉
『もう、忘れたの? ……まあいいわ、とにかく絶対だよ? 待ってるんだからね!』
電話が切れると、コナンはふぅと大きく息を吐き、変声機を外した。
その様子を隣の部屋から見ていた圭人が、苦笑交じりに声をかける。
「お疲れ様。また蘭を待たせることになっちゃったね」
「……わりーな、圭人。4月26日のパーティー、おっちゃん達の付き添い、頼めるか? 俺もコナンとしてついて行くつもりだけど、おっちゃんが暴走しないように見張っててほしいんだ」
「ああ、分かってる。俺も建築家としての森谷帝二には興味があるしね。一緒に行くよ」
圭人は優しく微笑み、隣に座る灰原へ視線を向けた。
「志保さんも来ない? 目の保養にはなると思うけど」
「……私はパス。そんな騒がしい場所、これっぽっちも興味ないわ」
灰原は雑誌のページを捲りながら、そっけなく断った。圭人は「残念だね」と軽く肩をすくめ、再びコナンの方を向く。
「……おめでたいわね、工藤君」
雑誌を捲る手を止め、灰原が小さく溜息をついた。
新一の誕生日が近づいていることなど、当の本人は露ほども気づいていない。
春の穏やかな陽光が差し込む阿笠邸だったが、その招待状が運んできたのは、完璧すぎるほどに「対称」な悪意の始まりだった。
◆
4月26日、西多摩市。
初夏の気配を感じさせる陽光の下、小五郎を先頭にした一行は、鬱蒼と茂る緑の先に現れた異様な光景に足を止めた。
「ほう……こりゃあ、たまげたな」
小五郎が感心した声を上げるのも無理はない。目の前に広がる森谷帝二の邸宅は、門から玄関へ続く石畳、左右に配置された街灯、果ては庭園の植栽に至るまで、定規で測ったかのように一点の狂いもなく左右対称に整えられていた。
「すごい……まるで鏡合わせみたい」
蘭が感嘆の息をもらす。しかし、その後ろを歩くコナンと圭人の表情は対照的だった。
「おじさん、見て下さい。あの窓の形も、屋根の煙突の位置も全部一緒ですよ」
圭人が小五郎に声をかける。その口調は穏やかだが、視線は鋭く建物の細部を射抜いていた。コナンもまた、眼鏡の奥の瞳を細める。
(左右対称……シンメトリーか。それにしても、度が過ぎてやしねーか?)
玄関ホールで出迎えた主、森谷帝二は、自身の建築そのままに隙のない身なりをしていた。
「ようこそ、毛利探偵。……それと、工藤君の代理の方々も」
「いやあ、お招き預かり光栄です、森谷先生! 私は毛利小五郎、こちらは娘の蘭、そして居候のコナンと、協力者の星野圭人です」
小五郎が仰々しく挨拶すると、森谷は満足げに頷き、自身の名が刻まれたプレートを指し示した。
「私の名は森谷帝二。この名もまた、ほぼ左右対称な漢字で構成されている。私はね、美というものは完璧な対称の中にこそ宿ると信じているのだよ。最近の若手建築家たちが作るような、無節操で不規則な歪んだ建築物には、反吐が出る……」
その言葉には、狂信的なまでの自負と、自身の美学に反するものへの激しい嫌悪が滲んでいた。
「は、はあ……なるほど、さすが先生だ」
圧倒される小五郎を余所に、圭人は壁に飾られた森谷の過去作品の写真を眺めていた。
「先生、あちらの写真は? 今の作風とは少し違うようですが」
「……ああ。あれは30代の頃の未熟な作品だ。当時はまだ、真理に辿り着いていなかった。今となっては、私の経歴から消し去りたいほどの汚点だがね」
森谷は一瞬だけ、忌々しげに目を細めた。その冷徹な光を、コナンは見逃さなかった。
(……消し去りたい汚点、か。建築家としちゃ、相当なこだわりだな)
パーティーが始まる直前、森谷は一同を広大な庭園へと促した。そこもまた、一分の隙もない左右対称の世界が広がっていた。
森谷邸の広大な庭園に、優雅な音楽と招待客たちの談笑が響く。しかし、その華やかな空気は主人の一言で一変した。
「さて、皆さんにちょっとした余興を楽しんでもらおうかな。私が今最も大切にしている建築ギャラリー……そこへの入室を、このクイズを解いた方に許可しよう」
森谷が掲げたのは、三人の男のプロフィールが書かれたボードだった。
「三人の男が共同経営する会社の、パソコンのキーワードを推理していただきたい。三人に共通する言葉で、ひらがな五文字だ。制限時間は三分。……毛利さん、工藤君がいない今、名探偵のあなたの腕を見せてもらえますかな?」
小五郎は「がってんだ!」と鼻息荒くボードを凝視した。蘭とコナン、そして圭人もその横に並ぶ。招待客たちも「血液型か?」「趣味の頭文字では?」と口々に囁き合い、現場には緊張感が漂う。
【三人の男のプロフィール】
1. 小山田 力(おやまだ ちから)
A型 / 昭和31年10月生まれ / 趣味:温泉めぐり
2. 空飛 佐助(そらとび さすけ)
B型 / 昭和32年6月生まれ / 趣味:ハンググライダー
3. 此堀 二(ここほり ふたつ)
O型 / 昭和33年1月生まれ / 趣味:散歩
「うーむ……名前か? それとも趣味か?」
小五郎が唸る横で、コナンも眉を寄せる。
(……温泉にハンググライダーに散歩……共通点なんてねーぞ)
その時、ボードを眺めていた圭人が、隣の小五郎にそっと耳打ちした。
「おじさん、この三人の『生まれた年』に注目してみてはいけませんか? 昭和31年、32年、33年……。ここ、綺麗に並んでますよね」
「ん? ……年か? 昭和31年が何だってんだ……」
小五郎が首を捻る一方で、コナンはハッとしたように顔を上げた。
(そうか……干支だ!)
「ねえねえ、蘭姉ちゃん! 昭和31年って
「え? 31年は……確か申(さる)年よ」
「じゃあ、32年は?」
「酉(とり)年、33年は戌(いぬ)年だけど……それがどうしたの、コナン君?」
蘭が不思議そうに首を傾げた瞬間、コナンの口角が不敵に上がった。
(猿、鳥、犬……。こいつらを引き連れて歩くものと言えば……!)
「あ、ボク分かっちゃった! 森谷先生、答えは『ももたろう』でしょ?」
無邪気なコナンの声が庭園に響き渡り、周囲の招待客たちの視線が一斉に集まった。森谷は驚愕に目を見開く。
「……ほう。理由を聞かせてもらえるかな?」
「うん! 一人目の人は『申』、二人目の人は『酉』、三人目の人は『戌』。猿と鳥と犬をお供にしてるのは、桃太郎だもん!」
静まり返った庭園に、森谷の乾いた拍手が鳴り響いた。
「素晴らしい。まさか少年が、制限時間を二分も残して正解に辿り着くとは……。工藤君がいなくとも、彼の身近には優秀な頭脳が揃っているようだ」
森谷は満足げに目を細め、コナン、そして助言を与えた圭人を一瞥した。
「約束通り、皆さんをギャラリーへご案内しよう。完璧な美の世界へね……」
森谷に案内され、一行は邸宅の奥にある広大なギャラリーへと足を踏み入れた。そこには、森谷がこれまでに手がけた数々の名建築の模型や写真が、完璧な対称性を持って展示されていた。
「ほう……どれもこれも見事なもんですな」
小五郎が感心した声を上げる横で、コナンはある写真に目を留め、微かに目を見開いた。
(……黒川邸。一昨日の事件の現場だ。これもこの人の設計だったのか)
「おじさん、このギャラリーにある建物、どれも最近のニュースで見たようなものばかりですね」
圭人が小五郎に敬語で話しかけながら、別の模型を指差す。そこには西多摩市の再開発で建てられた主要な建築物が並んでいた。
「おやおや、お嬢さん。そんなに熱心に何を見ているのかな?」
森谷が、シティービルの模型を眺めていた蘭に優しく声をかけた。蘭は嬉しそうに答える。
「あ、はい! 実は来週の土曜日に、新一……工藤君とこの米花シティービルで映画を観る約束をしてるんです。彼の誕生日の前祝いなんですけど、あいつ、自分の誕生日も忘れてるみたいで」
その言葉を聞いた瞬間、コナンの身体が硬直した。
(……誕生日? 5月4日……。アッ! そうだ、俺の誕生日じゃねーか! 完全に忘れてた……!)
コナンは冷や汗を流しながら、隣で苦笑いしている圭人と顔を見合わせた。
「……わりー、圭人。オメーまで巻き込んで忘れてた。……っていうか蘭、アイツ……俺の誕生日祝うために、そんな前から……」
蘭の健気な想いを知り、コナンは胸の奥が締め付けられるような申し訳なさに襲われた。
「そうだね。俺もすっかり忘れてた」
圭人は小五郎に聞こえないよう囁き、コナンの肩に手を置いた。
「でも、これだけ楽しみにしてくれてるんだ。おじさんに内緒で抜け出すのも、一恐ろしそうだ」
「ほう、それは仲睦まじい。プレゼントなどは用意されているのかね?」
「ええ! 新一の好きな色が赤だって聞いたので、赤いポロシャツを買ったんです。……あ、もしかして赤って情熱的すぎて変でしたか?」
蘭が無邪気に問いかけると、森谷の穏やかだった表情が一瞬だけ、陶器のように冷たく強張った。その瞳の奥に、言葉にできないほど深い、どす黒い感情が過るのを圭人は見逃さなかった。
「……赤はいい色だ。左右どちらから見ても、その鮮やかさは変わらないからね……。実に……完璧な対称を壊すには、惜しい色だ」
森谷は不気味に目を細め、クスクスと喉を鳴らした。その笑い声は、美しすぎるシンメトリーの部屋に冷たく反響していた。
帰り道、小五郎の車の中。運転する小五郎は上機嫌で鼻歌を歌っていたが、助手席のコナンは窓の外を流れる景色を眺めながら、静かに決意していた。
(悪いな蘭……。5月4日、必ず新一として……いや、どうにかして時間を作ってやるからよ)
その後部座席で、圭人はバックミラー越しに森谷邸を振り返った。
夕闇に包まれ始めた邸宅は、まるですべてを飲み込む巨大な檻のように見えた。
「……イチ。あの建築家、ただの完璧主義者じゃない気がするよ」
「ああ……。あのギャラリーにあった設計図、何枚か欠けてたしな。……嫌な予感がしやがるぜ」
平和な夕景の裏側で、完璧を求める者の悪意が、静かに、そして確実に牙を剥こうとしていた。
街を焼き尽くす、紅蓮の炎を予感させるように——。