ヒーローと探偵 作:タルマヨ
米花シティビルのロビー。複数の爆破によって無残に歪んだ巨大な扉は、もはや人力でこじ開けられる状態ではなかった。周囲に人の気配はない。小五郎や警察関係者は、圭人や救助隊によって既に外の安全圏へ退避させられていた。
静まり返った廊下で、コナンは一人、歪んだ扉の前に立っていた。手には蝶ネクタイ型変声機。ダイヤルを合わせ、変声機の音量を上げる。
〈蘭か……? 俺だ、新一だ〉
扉の向こうから、絶望を堪えるような蘭の声が返ってくる。
「新一……? 新一なの!?」
〈ああ、悪いな、遅くなって……。落ち着いて聞け。オメーの椅子の下に、紙袋に入った爆弾がある。それをゆっくりと引き出すんだ〉
コナンの瞳には、工藤新一としての鋭い光が宿っていた。扉一枚を隔てたすぐ向こうに、蘭が死の淵に立たされている。焦燥を抑え込み、努めて冷静な声を紡ぎ出す。
〈いいか、蘭。今から俺の指示通りにコードを切るんだ。時間はまだある。オメーならできる……俺がついてるからな〉
一方、ビルの外――。
夜明け前の冷たい空気の中、圭人と灰原、そして博士は、避難誘導を終え、祈るような思いでその結末を待っていた。
「……工藤君なら、やり遂げるわ。そう信じるしかないわね」
灰原は、ビルを見上げる圭人の隣で静かに呟いた。
圭人は腕を組み、微動だにせず扉の向こうに意識を向けていた。ティガとしての戦いを終えた彼は、今はただ一人の友として、相棒が最愛の幼馴染を救い出す奇跡を信じていた。
「ああ。あいつなら、必ず蘭を連れ戻すさ」
圭人の言葉には、迷いのない信頼が込められていた。
再び、コナンの声が蘭の耳元で響く。
〈まずは蓋を止めているビスを外せ。……そうだ。焦るなよ、オメーなら大丈夫だ〉
深夜0時の時報まで、残された時間はあとわずかだった。
扉の向こう側では、新一の指示に従って蘭が必死に爆弾の配線を切断し続けていた。暗闇の中、小さなペンライトの光だけを頼りに進められる作業。
〈そうだ、蘭。その次は緑のコードだ。……いいぞ、その調子だ〉
コナンの声は落ち着いていたが、扉に押し当てた左手は小刻みに震えていた。タイマーの数字は非情に刻まれ、深夜0時まであと数分に迫っている。
「……ねえ、新一」
ふいに、作業の手を止めた蘭が弱々しく呟いた。
〈どうした、蘭。次は黒いコードだ〉
「…あのね……誕生日おめでとう。……もう、言えなくなっちゃうかもしれないから……」
蘭の震える声が受話器を通してコナンの胸に突き刺さる。コナンは思わず扉を殴りつけた。歪んだ鉄の冷たさが拳に伝わる。
〈バーロォ……! 何縁起でもねーこと言ってんだ。オメーの好きな色を切れよ。……死ぬときは一緒だぜ〉
コナンの覚悟に、蘭が小さく息を呑む音が聞こえた。
一方、外で見守る圭人と灰原は、緊迫したビルの入り口を凝視していた。
博士が祈るように組んだ手を握りしめている傍らで、灰原は静かに、だが鋭い目で建物の微かな振動を感じ取っていた。
「……あと、二分」
灰原が短く告げる。
圭人はその言葉に頷くこともなく、ただ扉の向こう側にいる二人の絆を信じていた。
「……蘭ならやるさ。蘭が選んだ答えなら、俺は信じるよ」
圭人の声は低く、だが確かな熱を帯びていた。蘭の強さと、新一の執念。幼馴染として誰よりも知っている二人の力を疑う余地などなかった。
だが、爆弾の中には最後の一本――森谷が仕掛けた最悪の二択、赤と青のコードが残されていた。
コナンの脳裏に、かつて森谷が蘭のラッキーカラーについて聞き出していた光景が鮮明に蘇る。
〈……っ、蘭! 赤を切るな! 青を切れ! 青だ!!〉
コナンは喉が張り裂けんばかりに叫んだ。だが、その瞬間、ビルの深部で起きた小規模な崩落の衝撃音が凄まじい轟音となり、コナンの叫びを無慈悲に遮った。
時が止まったかのような静寂。
コナンは受話器を握りしめたまま、扉に背を預けて崩れ落ちた。
運命の0時。
秒針が頂点に重なろうとしていた。
秒針が重なった瞬間、世界から音が消えた。
コナンは歪んだ鉄扉に背を預けたまま、固く目を閉じて爆音を待った。だが、数秒が過ぎても、衝撃は訪れない。あるのは、ただ静まり返ったビルの不気味な静寂だけだった。
「……止まったのか?」
コナンが震える手で受話器を握り直したその時、扉の向こう側から、蘭の泣きじゃくるような、それでいてどこか晴れやかな声が聞こえてきた。
「……新一? 新一、止まったよ……爆弾、止まったよ!!」
コナンの全身から力が抜け、その場に頽れた。目からは熱いものが込み上げ、視界が滲む。
〈……ったく…心臓に悪いぜ……〉
喉の奥で絞り出すように呟いた言葉は扉越しに蘭へと届く。
間もなく、レスキュー隊が到着し、歪んだ扉は機械の唸りを上げてこじ開けられた。担架で運ばれてくる蘭の無事な姿を確認し、コナンは人知れず廊下の影へと身を隠した。
一方、外の喧騒の中――。
「……止まったみたいね」
灰原が小さく息を吐き、隣に立つ圭人を見上げた。
圭人は、救助隊に囲まれてビルから出てきた蘭の姿を捉えると、僅かに目を和らげた。
「信じてたよ、あいつらの絆をね」
そこへ、腰を抜かしていた博士がよろよろと歩み寄ってくる。
「おお、蘭君! 無事だったか……! よかった、本当によかったわい……」
博士はハンカチで額の汗を拭いながら、安堵の涙を流していた。
やがて、救急車の前で蘭が小五郎に抱きしめられながら、ボロボロになりながら、駆け寄ってきたコナンに「なぜ青を切ったのか」を語り始めた。
「だって……切りたくなかったんだもん。赤い糸は、新一と繋がっているかもしれないから……」
「え…」
その言葉を聞いたコナンは、照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
灰原は圭人の横顔を盗み見ると、少しだけ意地悪く口角を上げた。
「……赤い糸、ね。非科学的にも程があるわ」
「まぁまぁ、そう言わないで。理屈じゃ説明できない力が、あいつらにはあるんだよ」
圭人はそう言って、夜明けを迎えつつある空を静かに見上げた。
夜明けの光が、半壊した米花シティビルを白く照らし出していた。
救急車の赤色灯が回る中、蘭は毛利小五郎に支えられ、毛布にくるまりながら一息ついていた。
「お熱いことね……。工藤君も、あの糸に一生縛られて生きていくのかしら」
灰原が皮肉を交えて呟く。
「いいんじゃないか? 縛られているのがあいつなら、きっと本望だろうし」
圭人がそう返すと、二人は救急隊の慌ただしい動きから逃れるように、静かな場所へと歩を進めた。
周囲に人がいないことを確認し、圭人は隣の灰原へ視線を落とした。
「それと……志保さんも、無事でよかった…」
「……何よ、急に。私は爆弾のそばにいたわけじゃないわ」
灰原は素っ気なく返したが、その頬は朝焼けのせいか、わずかに赤らんでいるように見えた。
博士が「やれやれ、寿命が縮まったわい」と肩を落として歩み寄り、一行は事件の熱狂が残る現場を後にした。
◆
翌朝。阿笠邸のダイニングには、窓から柔らかな陽光が差し込んでいた。
テーブルの上には博士が用意したサンドイッチとサラダが並び、テレビからは昨夜の爆破事件のニュースが流れている。
「ワシはもう、心臓がバクバクで昨日は一睡もできんかったわい……」
博士がコーヒーを啜りながら溜息をつく。
「オイオイ…一番怖かったのは扉の中にいた蘭たちだろ」
コナンが呆れたようにツッコミを入れる。
「でも、蘭君はその新一君との『赤い糸』を信じて、見事に危機を回避したわけじゃからな。いやはや、愛の力は偉大じゃ!」
「……っ、うっせーよ博士!」
コナンは顔を真っ赤にし、サンドイッチを口に押し込んだ。
カウンターでは、圭人と灰原が並んで座り、静かにコーヒーを飲んでいた。
「……赤い糸なんて信じないけれど。それでも、切れない縁というものはあるのかもしれないわね」
灰原はそう囁くと、カウンターの下で、誰にも見えないように圭人の袖を指先でわずかに掴んだ。
圭人はその感触に、優しく微笑みを浮かべた。
「志保さん、お疲れ様。ゆっくり休むといいよ」
阿笠邸に流れる穏やかな時間は、戦いを終えた彼らにとって何よりの報酬だった。