ヒーローと探偵 作:タルマヨ
阿笠邸の居間。
圭人はソファに腰掛け、手持ち無沙汰に自分の胸元へ手をやった。そこにあるべき、自律回避モードを備えた「バッジ」の感触がない。
「……悪い、博士。例のアリバイ君1号、アレ、どこかで落としちゃったみたいだ。接近を察知して自動で電話のフリまでしてくれるから重宝してたんだけどな」
申し訳なさそうに報告する圭人の隣で、灰原は静かに紅茶を啜りながら、冷ややかな視線を向けた。
「あら、あの精巧なホログラム・バッジを失くすなんて。誰かに拾われて、勝手に貴方の『分身』が歩き回っていなければいいけれど」
「ハハ…。まあ、あのバッジも改良の余地があったからのう。ちょうど良かったわい、圭人君。紛失したというのなら、これを使うといい」
博士が作業机から持ってきたのは、重厚なマットブラックのボディを持つ腕時計——アストロウォッチだった。
「これは……バッジじゃなくて、時計か?」
「そうじゃ! バッジ型は紛失しやすいという欠点もあったからの。今度は肌身離さず着けられる腕時計型に機能を統合したんじゃ。圭人君、まずは横のスイッチを押してみなさい」
圭人が操作すると、時計の側面から小さなシールが射出され、壁に貼り付いた。
「このシールが、かつてのバッジの役割を果たす『投影拠点』になるんじゃ。ウォッチでホログラムを起動させれば、シールを起点に1/1スケールの君の姿が浮かび上がる。バッジの時と同じく、誰かが近づけばウォッチと連動して電話の着信音を鳴らし、ホログラムが『あ、すみません。電話だ』と断って自然にフェードアウトする自律退避モードも完備しておるぞ」
「なるほど。シールを貼った場所が、俺の『身代わり』の出現ポイントになるってわけか。これなら、俺が別の場所に移動しても、そこに残ったシールがアリバイを作ってくれる」
「その通りじゃ! さらにこのフラッシュアイコン……。これは1日1回限定の、超高輝度フラッシュ機能じゃ。緊急時の目眩ましに使えるが、射出の瞬間は自分も目を閉じんと危ないからの」
「……博士、子供に持たせるには少し物騒な機能ね。まあ、この人なら使いこなすでしょうけど」
灰原は少し呆れたように言ったが、その瞳には圭人の身を案じる色が微かに混じっていた。
「分かった。1日1回、ここぞという時だね。ありがとう。助かるよ博士。大切に使うよ」
圭人は投影を消し、新たな相棒の感触を確かめるように、左手首へしっかりとウォッチを巻き直した。
◆
夜の帳が下りた米花町。華やかなイルミネーションに彩られたベルウッドホテルの周囲には、その煌びやかさとは対照的な、沈黙した空気が漂っていた。
ホテルの裏門を見通せる路地に、一台の目立たないワンボックスカーが停まっている。スモークガラスで遮断された車内。そこにはジョディ、キャメル、ジェームズの他に、本来ここにはいないはずの「大学院生」が一人、モニターの光に照らされていた。
沖矢昴。
その変装の要であるハイネックの襟元には変声機が仕込まれ、眼鏡の奥の瞳は細められている。だが、端末を操作する指先の無駄のない動きは、FBI随一の切れ者である赤井秀一そのものだった。
「……動きはありませんね、ジョディさん」
キャメルが低く声を出す。その手元には、水無玲奈から送られてきた断片的な情報――「ジンが動く」という警告の記録が表示されていた。
「ええ。でも、あの男が動くなら必ず『前触れ』があるはずよ」
ジョディが答えるのと同時に、沖矢が手元のノートパソコンで独自の解析画面を開く。
「どうだ、赤井君。何か気付いたことはあるか?」
助手席に座る上司のジェームズが、後方の沖矢へ振り返り、その本名を呼ぶ。沖矢としての穏やかな表情は崩さないまま、赤井の意識で周囲の闇をスキャンしていく。
「今のところは、静かなものですよ……。ですが、ホテルの従業員通用口に先ほど入っていった清掃業者。あの歩き方、荷物の積み下ろしの際に見せた周囲への警戒心。ただのアルバイトにしては、少々『教育』が行き届きすぎている」
沖矢は画面上の清掃員の動きを指し示した。その声は変声機を通した穏やかなトーンだが、言葉選びの端々に赤井としての冷徹な観察眼が漏れ出している。
「ジョディ、キャメル。深追いは禁物だ。奴らの狙いがこのホテルでの『取引』なのか、それとも別の『何か』なのか……。それを見極めるまでは、こちらに気付かせてはいけない」
沖矢はゆっくりと眼鏡を押し上げた。その細められた瞼の裏、緑色の鋭い眼光が、ターゲットを狙うスナイパーのようにホテルの外壁を射抜く。
「……死んだはずの男を、死神が探しに来る。そんな予感がしてならないんですよ」
沖矢は、ホテルの高層階の一室で一瞬だけ不自然な光が明滅したのを、誰よりも早く察知していた。
◆
再審査を経て正当な優勝を勝ち取った天才ピアニスト、寿かれん。彼女を祝う祝賀パーティーの会場となったベルウッドホテルは、政財界の重鎮や著名な音楽関係者たちの熱気に包まれていた。吹き抜けの天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床に眩い光の粒を落としている。
重厚な大扉が開くと、園子の案内で蘭、小五郎、美桜、コナンが会場内へと足を踏み入れた。
蘭は淡いピンクのパーティードレスを身に纏い、その清楚な華やかさが会場の照明に映えている。対照的に園子は、自信に満ちた笑みを浮かべ、鮮やかなブルーのミニドレスで快活に場を仕切っていた。
「もう、お父さん! シャンパンは後にしてよ!」
小五郎は着慣れたタキシードの襟を何度も指で弄りながら、ウェイトレイが運ぶトレーに並べられた最高級の酒に、早くも鼻の下を伸ばしている。
「分かってらぁ蘭……。だがな、こういう場所では喉を湿らせておくのがマナーってぇもんだ」
その傍らで佇む美桜は、深い紺色のロングドレスを纏っていた。徹底した礼節を保ちながらも、その静かすぎる佇まいは、華やかな喧騒の中でどこか異質な空気を漂わせている。
一行が大広間の中ほどまで進んだ頃、エントランスから博士、灰原、そして圭人が到着した。
博士はいつもの茶色のスーツ、灰原は落ち着いたボルドーのワンピースに身を包んでいる。圭人はシックな黒のタイトなスーツでその長身を包み、左手首には先ほど博士から受け取ったアストロウォッチが静かに収まっていた。
「あ、博士! 圭人君もこっちこっち!」
園子が大きく手を振って呼びかけ、後発の三人が合流する。圭人は軽く手を挙げ、穏やかな笑みを浮かべて一行に歩み寄った。
「やぁ、園子。待たせたね。かれんさんの出番はまだかな?」
「ええ! ちょうど今、彼女が登場するところよ!」
「ほっほっほ、これだけ豪華なパーティーだと、わしも少し緊張するわい」
博士が髭を揺らして笑うと、コナンが圭人の手首に目を留めた。隣へ歩み寄り、小声で耳打ちする。
「……圭人、それ。博士の新作か?」
「ああ。紛失しバッジの代わりだ」
圭人が短く応じると、美桜が博士と灰原の前へ進み出た。彼女は子供相手であっても背筋を正したまま、丁寧な一礼を捧げる。
「初めまして。千ヶ崎美桜と申します。阿笠さん、それに哀さんですね。星野さんからお話は伺っております」
その挨拶に、灰原はどこか楽しげな、皮肉めいた視線を向けた。
「……あなたがそう。星野君に、あんなに嬉しそうに電話してた人?」
その一言に、美桜が「え……?」と微かに声を漏らして硬直する。
「あ……いや、それは、その……業務上の、ご報告を……」
「あら、報告であんなに声が弾むものかしら?」
灰原はさらに隣の圭人を見上げ、いたずらっぽく口角を上げた。
「星野君も、まんざらでもなさそうだったけれど? 鼻の下、伸びてなかったかしら?」
「……あ、いや。そんなんじゃないって。美桜さんは普段、徹底した礼節を欠かさない人なんだよ。……本当だぞ? ただ、今回ばかりはよっぽど楽しみだったみたいで……」
不意を突かれた圭人は、視線を泳がせながらも必死に弁明を並べる。そんな二人を交互に眺め、灰原はクスクスと喉を鳴らした。
「ふふ、ごめんなさい。あまりに面白い反応をするから、つい。よろしくね、千ヶ崎さん」
「……はい。よろしくお願いいたします、哀さん」
美桜は動揺を隠すように再び頭を下げ、灰原は満足げに会場へと視線を戻した。コナンは「相変わらずだな……」と呆れ顔でその様子を眺めている。
会場内では、いよいよ寿かれんの登場を待つ拍手の予兆が広がり始めていた。華やかな喧騒が一段と増し、祝祭のムードが最高潮に達しようとする中、圭人だけはふとした瞬間に視線をホテルの上層階へと滑らせた。
この場所に漂い始めた、言葉にできない不穏な胎動。パーティーの華やかさの裏側に潜む「何か」を、彼は研ぎ澄された感覚で探っていた。