ヒーローと探偵   作:タルマヨ

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黒と銀の包囲網(弐)

 ベルウッドホテルの大宴会場「鳳凰の間」は、数千個のクリスタルが煌めく巨大なシャンデリアの光に満たされ、正装した数百人の招待客たちの熱気に包まれていた。一ヶ月前、この同じ場所で起きた「ミス・ジャパネスク全国最終選考会」の悲劇は、日本中の耳目を集める未曾有のスキャンダルとなった。しかし、その後の再審査によって、真の実力者として認められたピアニスト、寿かれん。今日のパーティーは、彼女の失われた名誉を完全に回復するための、いわば「再生」の儀式でもあった。

会場の正面、一段高いステージに置かれたスタインウェイに向かい、かれんが静かに鍵盤に指を置く。一瞬の静寂の後、彼女が紡ぎ出したのは、ショパンの『革命のエチュード』。激しく、時に悲痛な旋律が、会場の隅々まで力強く響き渡る。

「……すごいね。一ヶ月前の事件で、あんなに精神的に追い詰められてたのに……。それを跳ね除けるだけの執念を感じるよ、蘭姉ちゃん」

会場の隅、壁際でタキシードの襟を窮屈そうに直しながら、コナンが隣の蘭を見上げて微笑んだ。その瞳には、子供らしさの裏に、彼女の指先の震え一つ見逃さない鋭い観察眼が宿っている。

「本当ね……。あんなに素敵な音を出せるようになるなんて、かれんさん、死ぬ気で頑張ったんだね」

蘭が祈るように胸の前で手を組み、感嘆の声を漏らす。その横では、圭人が黒いスーツのポケットに手を入れ、壁に背を預けたまま、静かに旋律に耳を傾けていた。少し離れた円卓では、阿笠博士が皿に山盛りにされたオードブルを前に「これくらいなら哀君も許してくれるかのう」と独り言を漏らし、その隣で灰原が「脂質と塩分の計算、忘れないでね」と冷ややかに釘を刺している。

「……けどさ、拍手だけを贈りたい奴らばかりじゃないみたいだよ」

圭人の視線の先、最前列の特等席で、一人の男が不愉快そうにワイングラスを揺らしていた。音楽大学教授、藤田圭一。再審査の結果に最後まで異を唱え、自身の教え子が落選したことを「政治的判断だ」と公然と批判し続けている男だ。

「ちょっと、相変わらず嫌な顔してるわね、あの教授! せっかくのかれんさんの晴れ舞台なんだから、もっと楽しめばいいのよ!」

園子がカップを片手に、呆れたように肩をすくめた。そして、蘭の横で静かに佇む美桜へと、茶目っ気たっぷりに視線を向ける。

「みーちゃんもそう思うでしょ?」

「ええ。ですが、あの方の執着は音楽への情熱というよりは、自身の正当性を守るための意固地に近いものを感じます。少し、空気が澱んでいますね」

美桜は背筋をピンと伸ばし、周囲の喧騒の中でも決して崩れることのない礼節を保っていた。その視線は、演奏に集中するかれんと、それを見守る観客たちの細かな表情の変化を、鏡のような静謐さで捉え続けている。

「ま、あんな偏屈オヤジのことは放っておきましょ! それよりこれ、今回のパーティーのために特別に用意させたラムケーキなんだけど、最高に美味しいんだから! ほら、ガキンチョ達(コナン君と哀ちゃん)も食べてみなさいよ!」

園子が給仕から受け取ったトレイから、銀のフォークが添えられた小さなケーキをコナンと灰原に差し出した。

「わーい、ありがと園子姉ちゃん!」

「……いただくわ。糖分補給にはちょうどいいかしら」

コナンは子供らしい笑顔を作り、灰原はいつものように淡々とした口調で応じる。二人がそのケーキを一口、口に運んだ。その瞬間だった。

かれんの演奏が最高潮を迎え、激しい打鍵と共に最後の和音が会場に叩きつけられた。割れんばかりの拍手が沸き起こる。だが、その歓声を切り裂くように、会場の全照明が突如として死に絶えた。

「きゃあああ!?」

「何!? 停電か!?」

暗闇の中、招待客たちの悲鳴と罵声が入り混じる。

わずか十秒足らず。非常用電源が唸りを上げて作動し、再びシャンデリアに光が灯った時、会場は一瞬にして氷付いたような静寂に支配された。

最前列の円卓。先ほどまで不機嫌そうに座っていた藤田圭一が、椅子から崩れ落ち、テーブルに突っ伏していた。その口元からは、青酸系特有の、鼻を突くアーモンド臭を放つどす黒い吐瀉物が溢れ出している。

「藤田……教授……?」

誰かの震える声が響いた直後、再び阿鼻叫喚の叫びがパーティー会場を支配した。

「どけ! 下がってろ!!」

一喝して人だかりを割ったのは、毛利小五郎だった。小五郎は鋭い手つきで藤田の頸動脈に触れ、即座に顔を顰める。

「……駄目だ、死んでる。この口元の状態に独特の臭気……毒殺だ! 蘭、すぐに警察へ連絡しろ! 園子、ホテルのスタッフを呼んで全ての出入り口を固めさせろ! 犯人はまだこの会場の中にいるはずだ!!」

小五郎の怒号のような指示が飛び、会場に戦慄が走る。招待客たちがパニックを起こして出口へ殺到しようとするのを、小五郎がその威圧感で押し止める。コナンは小五郎の足元を器用にすり抜け、藤田が直前まで口にしていたワイングラスを覗き込もうとした。

「おじさん、これ……」

「コラコナンっ! 現場を荒らすんじゃねぇ!」

ゴカッ!

「痛ぁ……」

小五郎の容赦ない拳骨がコナンの頭に落ち、コナンは涙目で頭を押さえる。

その喧騒の最中、圭人は一人、出口付近に立つ給仕係の男を注視していた。

(……事件が起きたっていうのに、あのスタッフ、慌てる素振りすら見せないな)

その男は、悲鳴を上げる客たちを冷淡な目で見つめるだけで、動く気配すらない。あまりにも無機質な、異様な統制。圭人がその違和感に眉を潜めた、その時だった。

「……ッ、あ、が……!!」

不意に、背後から漏れた短い苦悶の声に、圭人は弾かれたように視線を向けた。

「ん……!?(二人共どうしたんだ?)」

そこには、顔面を土気色に変え、自身の胸元を掻き毟るようにして床に崩れ落ちるコナンと灰原の姿があった。

(身体が……戻ろうとしてやがる……!)

遠くから、夜の静寂を切り裂いてパトカーのサイレンが近づいてくる。会場の混沌が加速する中、圭人は即座に二人の元へと駆け寄った。

 

 

 

「おい蘭! 警察へ連絡したのか!」

「え、ええ! 今、ホテルのフロントから外線で目暮警部を呼んでもらったわ。……でも、近くで大きな事故があったみたいで、少し時間がかかるって……!」

小五郎の怒鳴り声に対し、蘭は手元のガラケーを握りしめたまま、不安げな表情で答えた。会場の回線も混み合っているのか、それとも別の要因か、不穏な静寂が華やかな空気を侵食していく。

「ちっ、こんな時に……! 園子、美桜ちゃん! 悪いがホテルの連中を捕まえて、この会場の出入り口を全部封鎖させろ! 鑑識が来るまでネズミ一匹逃がすんじゃねぇぞ!」

「わ、分かったわ! みーちゃん、行きましょう!」

「はい、園子さん。……承知いたしました」

園子が蘭の肩を叩いて美桜を促し、二人は即座に会場の入り口へと急ぐ。

その喧騒から切り離された円卓の影では、深刻な事態が進行していた。

「……っ、が、は……っ!!」

「……く、……あ……」

コナンの喉から、絞り出すような喘ぎ声が漏れる。タキシードの胸元を強く握りしめ、床に膝をつくその姿は、単なる体調不良のそれではない。隣では灰原が自身の肩を抱くように丸まり、顔を伏せて激しく震えていた。

「哀君! どうしたんじゃ、しっかりせんか!」

「……っ、……あつい……身体が、燃える……っ」

灰原が脂汗を流しながら、消え入りそうな声で訴える。博士が狼狽して二人を抱え上げようとした時、傍らに立っていた圭人がその肩を掴んだ。

「博士、貸して。俺が運ぶ」

「圭人君! しかし、現場は動くなと毛利君が……」

圭人は博士の言葉を遮り、苦悶する二人を左右の腕に一人ずつ抱え上げた。その目は、騒然とする会場の片隅、微動だにせず立ち尽くす一人の給仕係を捉えていた。

その男は、毒殺死体にも、泣き叫ぶ客にも目もくれず、ただ機械的な精密さで圭人たちの動向を注視している。瞬き一つせず、感情を削ぎ落としたその立ち振る舞いに、圭人は言いようのない寒気を覚えた。

(……なんだ、あいつ。俺たちを見てるのか……?)

「おい圭人! 何してやがる、そこを動くなって言っただろうが!」

容疑者の江口や森本を逃がさぬよう睨みつけていた小五郎が、振り返って一喝する。

「悪いけどおじさん、この子ら、さっきの停電でパニックを起こしてひどい過呼吸なんです。一回、寝かせてきます」

「何だと!? ったく、この忙しい時に……!」

小五郎の制止を黙殺し、圭人は力強い足取りでバックステージへと続く扉を蹴り開けた。

「待って、圭人! コナン君……!」

「大丈夫だ蘭、俺がついてる。博士、悪いけど案内してくれ!」

小五郎の怒鳴り声と、蘭の不安げな声を背に、圭人は廊下へとなだれ込む。

廊下に入った瞬間、背中に刺さるような冷たい視線があった。振り返ると、先ほどの給仕係が一人、音もなく扉の側に立ち、やはり瞬き一つせずにこちらをじっと見つめていた。

(……今は構ってられねぇ)

圭人は二人の重みを感じながら、奥にある個室の更衣室へと急ぐ。腕の中では、コナンのタキシードの袖から覗く手首が、ありえないほどの熱を帯び、膨れ上がるような鼓動を刻み始めていた。

「……圭人、……悪ぃな……」

「オイオイ、今はあんまり喋るなよ」

更衣室の扉を突き破らんばかりの勢いで入り込み、圭人は内側から鍵をかけた。

その数分後。ホテルの正面玄関に、ようやく数台のパトカーが急停車し、赤色灯の光がロビーを照らし出した。目暮警部を先頭に、高木刑事、佐藤刑事、白鳥警部ら警視庁の面々が、騒乱の「鳳凰の間」へとなだれ込んでくる。

「毛利君! 状況を説明したまえ!」

「あ、目暮警部! やっと来ましたか、実は……!」

小五郎が説明を始めたその時、会場の隅にいた給仕係の男が、初めて僅かに首を傾げた。

 

 

 

「……っ、ぐ……あああぁ……!!」

男子更衣室の暗闇の中、コナンの喉から獣のような呻きが漏れた。圭人は背後からその小さな体を支え、激しい熱に浮かされる背中を強く抱きしめる。腕の中で、子供の細い骨がミシミシと不気味な音を立てて軋み、タキシードの布地が内側からの圧力に耐えかねて悲鳴を上げていた。

「……耐えろ、イチ……! 呼吸を止めるな!」

圭人の必死の呼びかけも、今のコナンの耳には届いていない。溢れ出す脂汗が床に滴り、数秒ごとに繰り返される骨格の変容という地獄の苦痛が、彼の意識を何度も白濁させていた。

一方、その数メートル先にある女子更衣室の前。

「あ、あの……すみません、孫が急にひどい貧血を起こしてしまいましてな……! しばらくここで休ませてやってください!」

博士は、怪訝そうな顔で通り過ぎようとしたホテルの女性スタッフに必死に頭を下げ、震える手で灰原を中へと運び込んだ。

「哀君! 哀君、しっかりするんじゃ!」

「……っ、……はぁ、はぁ……っ! 博士……早く……鍵を……っ」

扉を閉めた瞬間、灰原は床に崩れ落ち、自身の肩を掻き毟るようにして悶絶した。大人へと戻りゆく肉体の膨張。その凄絶な変貌が、静かな更衣室に荒い呼吸音だけを響かせていた。

表の「鳳凰の間」では、到着したばかりの目暮警部が指揮を執り、重苦しい空気が漂っていた。

「……なるほど。被害者は藤田圭一教授。死因は口元の状態から見て青酸系の毒物、というわけだな?毛利君」

「ええ、目暮警部。教授が自身のワイングラスを口にした直後、照明が落ち……再び点いた時には、もうこの通りですよ」

小五郎は、鋭い目付きで三人の容疑者を指し示した。寿かれん、マネージャーの江口、そして主催者の会長の森本。三人は顔を青白くさせ、警察の視線に耐えていた。

「目暮警部、あちらのグラスの縁を見てください。……藤田教授の座っていた位置から見て、不自然な飛沫が飛んでいます」

蘭と園子の側に静かに佇んでいた美桜が、控えめな声で小五郎の背後から進言した。小五郎がハッとして鑑識の作業を覗き込む。

「……おい美桜ちゃん、本当か? ……ん?確かに。こりゃあ、誰かが後から毒を入れたんじゃなく、最初からグラスの縁に……」

「そうだとしても、あんな暗闇の中で正確に毒を塗れるものかしら?」

佐藤刑事が眉を潜める。隣で高木刑事も手帳を広げながら頷いた。

「停電時間はわずか十秒……。その間に、自分の席から被害者のグラスまで移動して戻るのは、至難の業ですよ」

「コナン君と哀ちゃん、大丈夫かな……。圭人もついてるけど、あんなに苦しそうだったし……」

蘭が廊下の方を何度も振り返り、胸元で手を握りしめる。

「大丈夫よ蘭! 圭人君もいるし、あのガキンチョ達も案外タフなんだからさ!」

園子が蘭の肩を抱いて励ますが、その瞳にも隠しきれない不安が混じっていた。

その喧騒の最中、会場の壁際。

一人の給仕係が、警察の現場検証をただ無言で見守っていた。

パトカーの赤色灯が窓から差し込み、規則的に男の横顔を照らす。だが、その瞳は光を反射するだけで、瞳孔が開閉する気配すらない。男は、ただじっと、廊下の先を、一定の間隔で静かに見つめていた。

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