ヒーローと探偵 作:タルマヨ
男子更衣室の床に、引き裂かれた子供服の残骸が散らばっていた。
荒い呼吸を繰り返し、滴る汗を拭いながら、一人の青年が上体を起こす。
「……はぁ、はぁ……っ。死ぬかと思ったぜ……」
「……イチ、生きてるかい? 」
壁際に立っていた圭人が、静かに声をかけた。工藤新一は自身の大きな掌を何度か握り込み、肉体の感覚を確かめるように頷く。
「ああ。……わりぃな、圭人。助かった」
「いいよ、気にするなって。……それよりこれ、俺の上着使いなよ。流石にその格好じゃ外に出られないだろ」
圭人は自分のジャケットを脱ぎ、肩で息をする新一の背中にふわりと掛けた。新一はそれを羽織り、窮屈そうに袖を通しながらも、どこか安堵した表情を見せる。
その頃、隣の女子更衣室でも凄絶な変容が終わりを迎えていた。
「……哀君……いや、じゃなかった、志保君。大丈夫かね? ……ワシは、まだ後ろを向いておるぞ」
博士は扉に背を向けたまま、震える声で室内に問いかけた。咄嗟にいつもの呼び名が出そうになり、慌てて言い直す。
床に伏せっていた宮野志保は、備え付けのガウンを必死に手繰り寄せ、自身の肢体を覆った。
「……ええ。なんとかね、博士……」
掠れた声に応じ、博士がゆっくりと振り返る。そこには、赤茶色の髪を乱し、青白い肌を露わにした大人の女性の姿があった。
「……よし、今だ。イチ、志保さん。隣に移るよ」
圭人が廊下の気配を伺いながら、手早く新一を伴って女子更衣室の扉を叩く。合図と共に中へ入り、鍵を閉め直した。
狭い更衣室の中に、四人の大人が集まる。
圭人は、ガウンを纏って壁に身を預ける志保を視界に入れた瞬間、思わず言葉を失った。
(……相変わらず、とんでもない美人だな……)
子供の姿の時も大人びた雰囲気はあったが、本来の姿に戻った彼女の佇まいは、鋭利な刃物のような美しさと、どこか儚い色気を帯びている。普段は冷静な圭人も、至近距離で見る彼女の瞳に、不覚にも見惚れてしまっていた。
「……なに?」
志保が冷ややかな視線を向けると、圭人は慌てて視線を逸らし、首の後ろを掻いた。
「あ、……いや、別に。……元気そうで良かったと思ってさ」
「バーロ、そんなこと言ってる場合かよ」
新一が苦笑しながら割って入る。だが、その表情はすぐに真剣なものへと変わった。
「にしても……ったく、なんて威力してやがんだ。あのラムケーキ……」
男子更衣室から女子更衣室へ移動し、内鍵をかけ直した新一が、苦々しく喉元を押さえた。圭人のジャケットを羽織り、肩で荒い息をつきながらも、その瞳には探偵特有の鋭い光が戻っている。
壁に身を預け、ガウンの襟元を強く握りしめていた志保が、冷や汗の滲む額を拭いながら視線を上げた。
「当然よ。……私の作った解毒剤の試作体は、まだアルコールとの過剰反応を抑えきれていないわ。あのケーキに含まれていたラム酒の純度と量が、眠っていた細胞を無理やり叩き起こしたのね」
「持続時間はどうなんじゃ、あい……し、志保君……?」
博士がおろおろと二人の顔を見比べる。志保は自嘲気味に口角を上げた。
「今の私にそんな質問をしても無駄よ、博士。……数時間持つか、あるいは数分でまた縮むか……。博打のようなものだわ」
「……なら話は早い。今のうちにカタをつけるよ」
新一が扉の方へ一歩踏み出す。だが、その肩を志保の鋭い声が射抜いた。
「待ちなさい、工藤君! 正気なの? ……今の貴方は『江戸川コナン』じゃない。その姿で表に出れば、組織の耳に入るリスクがどれだけ跳ね上がるか、分かっているはずよ。目立つ行動は厳禁……それが今の貴方の絶対条件でしょう?」
「分かってるさ。……だけどな、あの停電の瞬間に起きた毒殺、そして会場のあの妙な空気……。このまま知らんぷりして、子供のふりをして帰るなんて真似、俺にはできねぇんだよ」
新一の譲らない姿勢に、志保は苛立ちを露わにして顔を背けた。二人の間に走る火花のような緊張感の中、圭人が静かに間に割って入る。
「……志保さんの言うことはもっともだ。だけど、イチの性格上、ここで止めても後で勝手に飛び出すだけだろうしね。……志保さんは博士と一緒に、ここで待機してて。コナンと哀ちゃんは、具合が悪くなって博士が車で送っていった……蘭や園子には、俺がそう説明して納得させるから」
圭人の提案に、志保は「……貴方まで彼を甘やかすの?」と不満げな視線を向けたが、圭人の揺るぎない眼差しに、やがて小さく溜息をついた。
「……勝手になさい。その代わり、もし途中で体が熱くなったら、何が何でも隠れなさいよ。……分かったわね、工藤君」
「……ああ。サンキューな、灰原」
新一は短く応じると、博士に目配せをして先に更衣室を出た。
二人が廊下へ消え、静まり返った室内。
ガウンに身を包んだ志保の肩が、微かに震えているのを圭人は見逃さなかった。本来の姿に戻ったことで、彼女の心に巣食う「組織への恐怖」が、子供の姿の時以上に生々しく彼女を苛んでいる。
圭人は志保の傍らへ歩み寄り、その怯えを遮るように彼女の前に立った。
「……怖い? 志保さん」
「……当たり前でしょう。……姿が戻れば、それだけ死神の鎌が首筋に近づくんだから。今の私は、ただの標的でしかないわ」
震える声で答える志保。圭人は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、一文字ずつ刻みつけるように、静かだが力強い声で告げた。
「……大丈夫。何があっても、俺が……この星野圭人が、志保さんを守り抜く。……この命に代えてもね。だから、今は俺を信じて」
志保は驚いたように目を見開き、圭人の顔を凝視した。いつもは柔和な彼の表情が、今は見たこともないほど険しく、そして確かな決意に満ちている。
志保はわずかに唇を震わせ、吐き出すような溜息と共に視線を落とした。
「……相変わらず、大層な自信ね。殺人事件の現場で、そんな大口を叩けるのは貴方くらいなものだわ」
突き放すような言い草だったが、その声からは先ほどまでの鋭い刺が消えていた。彼女はガウンの袖を握りしめると、小さく鼻で笑う。
「……信じるわよ。だから、せいぜいその言葉に責任を持ちなさい。星野君」
「……ああ。約束するよ」
二人の間に、外の喧騒とは無縁の静かな誓いが交わされた。
一方、更衣室の外。
新一は廊下で待っていた博士と、短く言葉を交わしていた。
「……新一君、本当に大丈夫なのかね。体温は……」
「まだ少し熱いけど、動けないほどじゃねぇよ。……博士はそのまま駐車場へ回って、俺たちが『帰った』既成事実を作ってくれ」
「……分かったわい。無理だけはせぬようにな」
博士の懸念を背負いながら、新一は圭人のジャケットの襟を立て、迷いのない足取りで「鳳凰の間」へと向かう。
◆
「……目暮警部。……かなり手こずっているようですね」
「鳳凰の間」の重厚な扉を押し開け、静かな、しかし会場の喧騒を力強く切り裂く声が響いた。
圭人の上着を肩に掛けたその青年が、一歩、また一歩と遺体の置かれた中心部へと歩み寄る。
「……え?」
蘭が、弾かれたように顔を上げた。その隣で園子が大きく目を見開き、喉を震わせる。
「く、工藤新一君……!」
目暮警部が、驚愕に目を見開いた。その傍らにいた刑事たちも、一様に動きを止める。
「工藤君! 本当に君なのか!?」
高木刑事が、驚きで手に持っていた鑑識の資料を落としそうになりながら声を上げた。佐藤刑事も、鋭い瞳を一瞬だけ和らげ、信じがたいものを見るかのように彼を注視する。
「……死んだなんて噂もあったけど、相変わらずいいタイミングで現れるわね」
「全く……。僕たちの出番を奪うつもりですか、工藤君」
白鳥警部も、皮肉を交えつつもどこか安堵したような表情で眼鏡の縁を上げた。
「な、何で……何で新一がここに……!?」
「し、新一君なの!? 本物の!?」
蘭と園子が詰め寄るが、新一は軽く手を挙げてそれを制した。
「……悪いな、蘭。ちょっと近くまで来てたもんでね」
「バーロ! 何が近くまでだ! なんでお前がこんなとこにいやがる!」
小五郎が、新一の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで食ってかかる。新一はそれをいなしつつ、居住まいを正して小五郎に向き直った。
「後で説明しますよ、毛利探偵。今は、この事件の解明が先ですよね?」
その混乱の渦中、圭人が蘭と小五郎の間に割って入った。
「おじさん、蘭。……あ、そうだ。コナンと哀ちゃんだけど、さっき博士が車で送っていったよ。二人ともかなり具合が悪そうだったから、挨拶もなしで悪いけどってさ」
「え、コナン君たちが?」
蘭が驚きに目を瞬かせる。圭人は頷き、新一を顎で示した。
「代わりに、ちょうど連絡がついたイチが来てくれたんだ。……あいつが来たなら、もう安心だろ?」
圭人の説明に、蘭たちはようやく納得したように肩の力を抜いた。だが、その場にいたもう一人の女性、美桜だけは違った。彼女は、蘭たちの背後で、現れたばかりの青年を静かに見つめていた。
(……あの方が……。噂に聞く、高校生探偵……)
美桜の驚異的な観察眼は、彼が放つ圧倒的な自信と、それによって警察関係者たちの空気が一変した様を、克明に捉えていた。
「……さて。目暮警部、状況を整理させてもらえますか。高木刑事、被害者の死因の特定は?」
「あ、ああ。現在、青酸系毒物による中毒死と見られています」
「佐藤刑事、停電中の不審な動きは?」
「給仕係以外の出入りは確認されていないわ。容疑者はこの三人に絞られているけど……」
新一の問いかけに、現場の指揮権が自然と彼に移ったかのように、刑事たちがテキパキと情報を共有し始める。
「目暮警部、この方は? 捜査に民間の方が関わるのは、あまり好ましいことではありませんわ」
寿かれんが、静かな、しかし芯の通った声で問いかける。
「……我々をいつまでここに留めるつもりですか」
「警察の面子に関わるんじゃないですか」
江口と森本も、新一の放つ独特の威圧感から逃れるように、警察への不満を口にした。
「……お静かに。工藤君の協力は以前から仰いでいる。高木君、佐藤君、三人の証言に矛盾がないか再確認を頼む」
目暮警部の指示に、二人の刑事は「はい!」と即座に応じた。白鳥警部もまた、新一の視線の先にある不自然な点を探るように、自らも身を屈める。
新一が眉間に皺を寄せ、テーブルの上の飛沫を見つめていた、その時だった。
蘭たちの側に寄り添っていた美桜が、毛利の背後から静かに、しかしよく通る声で口を開いた。
「……毛利さん。あのクロスの汚れ……少し不自然ではありませんか?」
「ん? 汚れか?」
小五郎が覗き込もうとした瞬間、その傍らで新一の目が鋭く光った。新一は、美桜が指し示した、小五郎の死角になっていた箇所を食い入るように見つめる。
「……汚れ?」
「ええ。グラスから飛び散ったにしては、一点に集中しすぎているような……。まるで、あらかじめそこにあったかのように見えます」
新一は美桜を一瞬だけ見つめ、すぐにその箇所へ視線を戻した。その瞳が、カッと見開かれる。
「……そうか。……なるほど、そういうことか…」
トリックの全貌が、新一の頭の中で一つの線に繋がった。彼は初対面の女性による的確な指摘に驚きを覚えつつも、即座に目暮警部へと指示を飛ばす。
その新一の背中越しに、圭人は会場の隅へと意識を向けた。
捜査が進展し、周囲が色めき立つ中で、壁際に立つ一人の給仕係だけが、微動だにせず立っている。
他のスタッフが警察の動きに反応しているのに対し、その給仕係だけは、一切の感情を排した瞳で圭人の動きを、まるで「観測」しているように見えた。
(……やっぱり、おかしい。あの男、事件なんてどうでもいいんだな……。ただ、俺の動きを見てる……)
圭人は、自分の内側から湧き上がるような、正体不明の悪寒に背筋を凍らせた。
遺体の傍らで立ち上がった工藤新一は、不敵な笑みを浮かべた。その瞳は、テーブルの上に不自然に残された一滴の飛沫を貫いている。
「目暮警部、この事件は突発的な犯行ではありません。犯人は被害者の心理を巧みに操り、自分の手を汚さずに毒を飲ませた。そう……最初から、この結末を書き上げていたんですよ」
新一の言葉に、現場検証を行っていた小五郎、目暮、高木、佐藤、白鳥の面々に緊張が走る。
「な、何だと……? 自分の手を汚さずにだぁ!?」
「工藤君、それは一体どういうことだね。我々が着いた時には、教授はすでにこのグラスを握って絶命していたんだぞ!」
目暮が驚愕の声を上げると、隣で鑑識の手配をしていた高木も身を乗り出した。
「そうです、教授が毒入りのワインを飲んだのは停電中のわずか十秒間……。その場にいた全員が暗闇で動けなかったはずなのに、誰にも悟られずに毒を入れるなんてことが……!」
小五郎が堪らず、新一の肩を掴むようにして問い詰める。
「おいボウズ、寝ぼけたこと言ってんじゃねぇぞ! 現場には不審な足跡も指紋もねぇんだ。魔法使いじゃなきゃ、そんな芸当は無理な話だろ!」
新一は小五郎の手を軽く払いのけ、首を振った。
「毛利探偵、発想が逆ですよ。犯人は停電中に動いてなんかいない。犯人が毒を仕込んだのは、パーティーが始まる『前』だ。藤田教授は、自らその毒を口に運ぶよう、ある『合図』を待っていたんだ」
「合図だと……?」
「ええ。それは、寿かれんさんの演奏の『最後の和音』。そして、それと同時に起きた『停電』です。教授は暗闇の中で、無意識に自分のグラスを左側に寄せた。そこには……あらかじめ、教授自身のグラスとは別に、縁に毒を塗った『本物と瓜二つの空グラス』が、テーブルの裏に吸盤で固定されていた」
新一は容疑者の三人――かれん、江口、森本を順に射抜くような視線で追い詰め、最後に主催者の森本の前で足を止める。
「教授が暗闇の中で手探りで掴んだのは、自分のグラスじゃない。犯人があらかじめ用意し、位置を調整していた『死の器』だ。……犯人は音楽界の利権を守るため、邪魔な教授をこの『再生』の舞台で葬る必要があった。そうですね? ――森本会長」
「フ、フン……デタラメだ! 証拠もなしにそんな御伽話を信じろと言うのか!」
森本は顔を真っ赤にし、唾を飛ばしながら叫ぶ。
「吸盤だのワイヤーだの、そんなものがどこにある! そもそも、教授が確実に左側に手を伸ばす保証などどこにもないはずだ!」
「いいえ、ありますよ。教授が演奏の最後には必ず左手で眼鏡を直す癖があることを、あなたは熟知していたはずだ。その動作の延長線上に、毒入りのグラスを配置しておけばいい……。佐藤刑事、白鳥警部! 会長の右のポケット、およびテーブルのクロスの裏側を確認していただけますか?」
白鳥が冷徹な手つきで森本の腕を掴み、佐藤が鋭い眼光でポケットに手を伸ばす。
「や、やめろ! 離せ! 貴様ら、私が誰だと思っている! 警察の分際で……!」
森本は周囲を突き飛ばそうと暴れ、往生際悪く罵声を浴びせ続ける。
蘭は、その新一の背中を見つめ、無意識に胸元で手を握りしめる。
(……新一。やっぱり、事件の時のあなたは……)
その傍らで、美桜は一礼を保ったまま、静かに新一を観察していた。
「……見事な論理。淀みない真実への導き……」
微かに目を和らげた美桜の視線の先では、園子が「流石は蘭の旦那様ね! 惚れ直したんじゃない?」と小声で蘭を冷やかしている。だが、圭人の目は、その喧騒から外れた場所に立つ一人の給仕係に釘付けになっていた。
(……あいつ、やはりさっきから一歩も動いてない。この騒ぎの中で、呼吸一つ乱さずに『観測』している……。ただのウェイターじゃないな)
周囲が事件解決の喧騒に包まれる中、その給仕係だけが、機械的な無機質さで圭人や現場の状況を見つめ続けていた。
一方、女子更衣室。
志保はガウンの襟元を合わせ、鏡の前で自身の顔を凝視していた。
「……っ」
時折、胸の奥からせり上がるような奇妙な拍動に眉を寄せるが、まだ呼吸を乱すほどではない。博士は扉の隙間から慎重に外を覗き、安堵の息を漏らす。
「志保君、表の騒ぎが少し落ち着いたようじゃ。新一君が犯人を特定したらしい。……今のうちにここを出て、地下の駐車場へ向かおう」
「……ええ。嫌な予感が止まらないの。早くここを離れた方がいいわ」
志保は博士と共に、足早に更衣室を後にする。
人気のない静かな通路を急ぐ二人の背中。その無機質な天井に設置された監視カメラの赤いランプが、まるで意志を持っているかのように冷たく無機質な光を放ち、二人の去り際を静かに見送っていた。