ヒーローと探偵 作:タルマヨ
「……ふぅ。やれやれ、一件落着だな」
鳳凰の間。小五郎がネクタイを緩め、安堵の溜息をついた。白鳥と高木に連行されていく森本の無様な背中を見送りながら、目暮もようやく険しい表情を崩す。
「工藤君、今回も助かったよ。君がいてくれなければ、この複雑なトリックを見破るのは難しかっただろう」
「いえ……。俺一人じゃ、あそこに残された飛沫には気づけませんでしたから」
新一は謙遜しつつも、視線は無意識に会場の隅々を走らせていた。
新一の言葉に、目暮は深く頷くと「後のことは任せたまえ」と言い残し、部下たちに指示を飛ばした。手錠をかけられた森本が、憔悴しきった様子で警察官に連行されていく。事件解決の安堵と興奮が冷めやらぬ招待客たちの間を縫うようにして、鑑識官たちが証拠品をまとめ、警察の隊列は鳳凰の間の大扉の向こうへと消えていった。
「ふぅ…」
一息ついた新一の横顔を、蘭が心配そうに覗き込む。
「新一? どうしたの、そんなに周りをキョロキョロして……。事件、解決したんでしょ?」
「……あ、ああ。悪い。なんでもねぇよ」
新一は努めて明るい笑顔を蘭に向けた。だが、その瞳の奥には、名探偵としての本能が告げる不協和音が消えずに残っている。
「もう、新一君ったら! 蘭を不安にさせないの。せっかく久々にパーティーに来られたんだからさ!」
園子が隣でニヤニヤしながら蘭の肩を抱き寄せ、新一をからかうように笑う。蘭は顔を赤くしながらも、新一の無事を確かめるようにその袖をぎゅっと握りしめた。
「……新一。今日は、もうどこにも行かないよね?」
「……あ、あぁ、行かねーよ」
新一は蘭の手に自分の手を重ねようとした。その時、圭人が音もなく新一の隣に並んだ。
「……イチ、妙だ。さっきの給仕係、どこへ行った?」
圭人の低い声に、新一の背筋が凍りついた。混乱に乗じて、あの「観測」していた男の気配が完全に消失している。それと同時に、ホテルの華やかなシャンデリアが、まるで断末魔を上げるように激しく明滅を始めた。
「志保君、表の騒ぎが少し落ち着いたようじゃ」
女子更衣室。扉の隙間から外を伺っていた博士が、安堵したように声を上げた。
「新一君が犯人を特定したらしい。……今のうちにここを出て、地下の駐車場へ向かおう。予備の服も車に積んである」
「……ええ。早くここを離れたいわね。胸騒ぎが止まらないわ」
志保はガウンの襟をきつく合わせ、鏡に映る自分を最後にもう一度睨みつけるように見てから、部屋を後にした。だが、二人が通路に出た瞬間、周囲の明かりが消え、けたたましい警告音が全館に鳴り響いた。
「な、なんじゃ!? 停電か!?」
「博士、急いで!」
非常灯すら点かない暗闇の中、志保は本能的な恐怖に突き動かされるように駆け出した。背後で「志保君、待ちなさい! 一人で行っては危ない!」という博士の焦燥に満ちた声が響くが、今の彼女には立ち止まる余裕などなかった。
◆
同じ頃、管理制御室。そこはすでに、漆黒の意志によって支配されていた。
「兄貴、データの吸い出しはあと三パーセントで完了ですぜ。オーナーが隠し持っていた組織の裏金ルート……すべて手中に収めやした」
ウォッカが満足げに報告する。ジンは窓の外、パニックに陥り始めたホテルの庭を見下ろしながら、ゆっくりと煙草を燻らせた。
「ふん……。欲に目が眩んだ豚が溜め込んだ泥水だ。余さず持ち帰れ。……ついでだ、退屈しのぎに全館のログを洗え。このホテルに紛れ込んだ『不純物』をな」
「へい。……おや、鳳凰の間が停電した混乱で、更衣室付近のカメラに何人か……ん?」
ウォッカの指が止まる。数秒前のバックログ。そこには、博士に先んじて暗い廊下を横切る、細い影が映っていた。
「……どうした、ウォッカ。早く回せ」
「ア、アニキ……こいつを見てください。この髪の色、それにこの身のこなし……。まさか、そんなはずはねぇんですが……」
ウォッカが映像を拡大し、ノイズを除去する。モニターに映し出されたのは、恐怖に顔を歪めながらも、凛とした気高さを失わない「宮野志保」の横顔だった。
ジンの瞳が、暗闇の中で獣のようにギラついた。
「……ほう。地獄の淵から這い戻ってきたか。……まさか、こんな掃き溜めで再会できるとはな……シェリー」
ジンは吸いかけの煙草を床に捨て、踏みつける。データの回収という任務の成功に、これ以上ない「余興」が加わったのだ。
「ウォッカ、残りのデータの回収を急げ。それと同時に、各セクションの封鎖を開始しろ。……キャンティ、コルン。聞こえるか。計画を変更する」
ホテルの外、夜の闇に沈む隣接ビルの屋上で、キャンティが不敵な笑みを浮かべて狙撃銃のボルトを引いた。
「あァ? データの回収はどうしたんだよ。こっちはいつでもぶち抜く準備はできてんぜ。……で、誰を狙えばいいんだい?」
「データの回収はまもなくだ。だが、獲物が中にいた……。ネズミ一匹、ここから這い出そうとした瞬間にその頭を吹き飛ばせ。正面、裏口、非常階段……全出口を死の圏内(キリングゾーン)に置け。一歩でも外に出る奴は、一人残らず始末しろ」
ジンの冷酷な指令に、コルンが「了解……」と低く、短い声を無線に落とす。二人のスナイパーがスコープの十字(レティクル)を各出口に固定したその瞬間、ベルウッドホテルは巨大な「死の箱」へと変貌した。
鳳凰の間。
停電による暗闇と、システム異常を知らせる警告音が、招待客たちの理性を削り取っていく。
「おい、押すな! 早く出口を開けろ!」
「警備員は何をやってるんだ! ライトを点けろ!」
怒号と悲鳴が入り乱れ、出口へと殺到する群衆の足音が地響きのように響く。
暗闇と怒号が渦巻く中、新一の視界が断続的に白く濁る。解毒薬の効力が限界を迎え、骨を焼き切るような激痛が全身を駆け巡っていた。
「……ッ、クソ……よりによって、今かよ……! ぐ、あ……っ」
膝を突きそうになる身体を、新一は強引に支える。だが、その肩を蘭の震える手が掴んだ。
「新一!? ちょっと、顔色が真っ青だよ……! どこに行くの、この騒ぎの中で!」
「蘭、離せ……! すぐ戻るから、オメーは……」
「ダメだよ! そんな身体で一人で行かせられない!」
必死に引き止める蘭。その後ろで、小五郎が「おい蘭、今は動くんじゃねぇ!」と周囲を警戒しながら声を荒らげる。園子も蘭の肩に手を置き、「蘭、ちょっと落ち着きなさい! 」と、親友の動揺を鎮めようと必死に声をかける。
この一刻の猶予も許されない焦燥に駆られる新一の前に、圭人が割って入った。
「大丈夫。イチは俺が見てるよ。二人は美桜さんの側にいて」
圭人の言葉に、蘭がなおも食い下がろうとしたその時。沈黙を守っていた美桜が、静かに一歩前へ出た。美桜は新一の尋常ならざる苦悶を一瞥で読み取り、蘭の目を見据えて告げる。
「蘭さん。今は星野さんに任せましょう」
静謐ながらも絶対的な確信を込めた美桜の言葉に、蘭は呪縛が解けたように指の力を緩めた。美桜がそっと蘭を支え、園子がその反対側の腕をしっかりと掴む。
「……お願い、圭人。新一を……新一を助けて」
「ああ、約束する」
圭人は短く応じると、意識が朦朧とし始めた新一の腕を肩に回し、パニックに陥った群衆の逆を突いてバックヤードへと走り出した。
バックヤードの通路。その狂乱のただ中で、新一は懐のスマートフォンの震動を捉えた。
ジャケットの内側から取り出した端末。バックライトの青白い光が、暗闇の中で新一の険しい表情を浮かび上がらせる。液晶画面に表示されていたのは――『沖矢昴』の文字だった。
(……!!赤井さんか…)
新一の脳裏に、最悪のシナリオが組み上がっていく。
この停電、システムダウン、そして姿を消した給仕係。すべてを繋ぐ唯一の答えが、今、手の中の端末を通じて突きつけられようとしていた。
隣で同じく殺気を感じ取っていた圭人と視線を交わし、新一は覚悟を決めた指先で通話ボタンをスライドさせた。
『……ボウヤ、聞こえるか?』
スピーカーから漏れたのは、低く冷静な沖矢の声。新一は意識を繋ぎ止め、蝶ネクタイ型変声機を使い、コナンの声と口調で応答した。
「……う、うん、聞こえてるよ。何かあったの?」
『悪い予感が当たったようだ。組織がホテル全体を完全に包囲した。屋上にはヘリ、周辺のビルには狙撃手が配置されている……。さらに、ジンが鳳凰の間のバックヤード付近に狙いを定めて内部へ踏み込んだ』
「え…ジンが!?」
『奴は何かを確信している……ボウヤ、君の側に“彼女”はいるか?』
新一の奥歯が鳴る。赤井はまだ、志保が中にいることを確信してはいない。だが、ジンの動きは確実に彼女の潜伏先を捉えようとしていた。
「……わかった。ありがとう、昴さん。こっちの状況はかなり厳しいけど、ボクたちが何とかするから……外のことは任せたよ……!」
同じ頃、通路の隅。一台の給仕用ワゴンを引いた給仕係――ゾルブが、無機質にスマートフォンを操作していた。その容姿は、ホテルの制服こそ着ているものの、爬虫類を思わせる冷たく平坦な顔立ちをしており、その瞳には一切の感情が宿っていない。
(……ノイズだ。この閉鎖空間は、私の観測を阻害する)
ゾルブにとって、組織が全館に張り巡らせたセキュリティや電子ロックは、自身の「観測」を邪魔する不純物でしかなかった。彼の指先が、端末の画面上で人間離れした速度で滑る。次の瞬間、組織が誇る最高機密レベルのプロテクトが、まるでもろい玩具のように弾け飛んでいく。
バックヤード一帯の監視カメラ映像が激しいノイズに呑まれ、本来閉じているはずの防火シャッターや配管ダクトへの隔壁が、あり得ない挙動で次々と強制開放された。
管理制御室。ウォッカが悲鳴に近い声を上げた。
「アニキ! システムが……! 誰かに強制的に上書きされてやがる! シェリーの奴、更衣室付近にいたはずが……ノイズで追えねぇ!」
ジンの瞳が、怒りと冷酷な愉悦に燃え上がる。
「……フン。どこのどいつかは知らねぇが小賢しい真似を……」
ジンは吸いかけの煙草を床に捨て、踏みつける。システムが使えぬのなら、自らの手で引きずり出すまで。彼は愛銃のボルトを引き、漆黒のコートを翻して制御室を後にした。
一方、バックヤードの分岐路。新一と圭人が走り込んだ先にいたのは、半べそをかいてキョロキョロと辺りを見回す博士だった。
「博士! なんで一人でこんなところに……! 志保さんはどうしたんだ!?」
「お、新一君、圭人君! それが、更衣室の外で待っておったんじゃが、哀君に巻かれてしもうたんじゃ……! 探しに行こうにも、この広さじゃし、新一君たちとも連絡がつかんし……」
「えっ!?ほんとに!?……博士、とにかくここは危ないから俺たちと一緒に来てくれ」
圭人が博士を促し、さらに奥の配管ダクト付近へと急ぐ。そこには、一人で闇に潜み、脱出の機会を窺っていた志保がいた。
「……星野君……工藤君……博士まで……! なぜ戻ってきたの、早く逃げなさいと言ったはずよ!」
「何を言ってんだよ。……志保さん、すぐここを出よう。博士も一緒だ」
圭人が志保の肩を抱き寄せ、新一を支える。博士がすでに「二人を連れて帰った」という名目は周囲に浸透しているが、実態は四人での決死の脱出劇だ。
「行くぞ……。何者かがロックを外してくれた。今のうちに配管ダクトから地下へ抜ける!」
圭人が志保と博士を導き、激痛に耐える新一を支えながら、開かれたダクトの闇へと飛び込んだ。
「くっ……あ、が……っ! はぁ、はぁ……!」
壁に手をつき、新一が激しく喘ぐ。ラムケーキに含まれていたアルコールが引き金となり、その肉体は内側から作り変えられるような凄まじい熱に焼かれていた。志保が咄嗟にその肩を支え、博士も狼狽しながらその様子を窺う。
その時、圭人が弾かれたように天井を仰ぎ見た。屋上の方角から降り注ぐ、肌を刺すような異質な圧力。物理法則を静かに侵食し、すべてを「確定」させようとするゾルブの観測波だ。
「……来たか。思ったより早いな」
圭人の瞳から温度が消える。彼は即座に博士に向き直ると、短く、拒絶を許さないトーンで告げた。
「博士、イチと志保さんを頼む。この先に配管ダクトへ通じるハッチがある。そこから地下駐車場へ抜けて」
「圭人君! お前さんは……」
「屋上に『招かれざる客』が来てる。……ここは俺が食い止める。二人のことは頼んだ、博士」
圭人は迷いなくハッチを力任せに開放した。博士は覚悟を決めたように頷くと、苦悶に顔を歪める新一――イチを抱え、志保を促して狭いダクトの中へと滑り込む。
三人の気配が闇の奥へと消えるのを見届け、圭人は背後の窓を蹴り破った。迷いはない。外壁の僅かな突起を足場に、重力を無視するかのような跳躍で、最短距離――垂直に屋上へと躍り出た。
暗く湿ったダクト内。志保は這いつくばりながら、前を進む博士と、隣で意識を失いかけているイチを必死に追っていた。
「はぁ、はぁ……工藤君、止まらないで……! もう少しだから……!」
新一の身体はラムケーキのアルコールに反応し、異常なまでの熱を帯びている。志保は自分の震える手で彼の背を押し、闇の中を必死に進む。だが、その時――。
コツ、コツ、と。
ダクトの鉄板越しに、階下の通路を歩く「誰か」の足音が響いてきた。
志保の全身から血の気が引く。冷徹で、寸分の狂いもない一定の歩調。
銀髪の死神――ジンが、すぐそこにまで迫っていた。