ヒーローと探偵 作:タルマヨ
垂直な外壁を重力無視の跳躍で駆け上がり、圭人が屋上の縁に手をかけた。そのまま音もなく、無機質なコンクリートの床面へと躍り出る。
地上数百メートルの虚空に突き出したこの場所は、林立する巨大な排気ダクトが怪物の肋骨のように夜の闇を突き刺し、巨大な貯水タンクの銀色の肌が月光を浴びて鈍く光る、静寂の祭壇だった。
吹き荒れる夜風が、圭人の前髪を激しく乱す。地上の喧騒は遠い底鳴りのようなハミングへと変わり、ただ風の唸りだけが耳元で鳴り響いていた。
その中央。ヘリポートのHマークの上に、そいつはいた。
全身を覆うのは、流動的な液体金属と、血管のように複雑に絡み合う無数の繊維状の構造体。マルチタイプのティガがそのままメタリックな液体に溶けたような、あるいは神経系だけがむき出しになったような、薄気味悪いシルエット。
給仕係の制服など、そこにはない。ただ、全身を構成するメタリックな細胞が、鼓動のように不気味に蠢き、所々から光の粒子が、まるで傷口から漏れ出すエネルギーのように、夜空へと霧散している。
その、人型の中心。本来なら顔があるべき場所には、ただ一つの、異様に巨大で無機質な瞳が、圭人を捉えていた。その瞳は、情動を完全に欠いた機械的な輝きを放ち、周囲の空間を粘りつくようなプレッシャーで歪ませている。
これがゾルブ。因果を操作する、恐怖の「観測者」だ。
「遅かったな。観測対象」
ゾルブの声は、風に掻き消されることなく、直接脳内に響いた。音波ではなく、因果そのものを震わせて届けられるような、不快なノイズ。
「……待たせて悪かったな。仲間を逃がすための時間は、これで稼げた」
圭人は短く吐き捨てると、右手を懐へと忍ばせた。指先が、冷たく、だが確かな熱を秘めたスパークレンスの質感に触れる。
だが、身体が動かない。
ゾルブが見つめるだけで、圭人の全身は目に見えない鋼の糸で縛り付けられたかのように硬直していた。これがゾルブの放つ「観測」の波動。この世界を物理法則という檻に閉じ込め、すべての「可能性」を一つに固定しようとする、絶対的な意志の力だ。
一歩踏み出せば、その瞬間に心臓が止まるのではないか。あるいは、存在そのものが霧散するのではないか。かつて数多の修羅場を潜り抜けてきた圭人の本能が、最大級の警鐘を鳴らしていた。
「無駄だ。逃走経路、生存確率、すべての事象はすでに『確定』している。私が観測した瞬間に、お前の未来は閉ざされた」
「……人の未来を勝手に決めてんじゃねえよ」
圭人はその呪縛を、魂の咆哮で無理やり引き剥がした。
指先に力を込め、スパークレンスを夜空へと掲げる。
刹那、眩い光が屋上の闇を白一色に塗り替えた。
月光すらも、眼下の夜景すらも霞む、圧倒的な光の奔流。その光の中で、圭人の肉体は細胞の一つ一つが再構成され、巨大な光の器へと膨張していく。
光が収束したとき、コンクリートの床を強く踏みしめたのは、赤、紫、銀のラインを持つ神秘の姿――ティガだ。
その瞳は、ゾルブを射抜くように鋭く輝いている。
《……イチたちには、指一本触れさせない》
ティガの重厚な声が、ホテルの構造材を伝わって建物全体に響き渡る。だが、ゾルブの巨大な瞳は、水面のように平坦なままだった。
「エネルギー密度、波形……未知のデータだ。だが、問題はない。私の眼差しが届く範囲において、お前はただの、確定した死へと向かう物質に過ぎない」
ゾルブは無造作に一歩を踏み出した。その瞬間、ティガの視界が歪む。
回避行動を取る暇さえなかった。ゾルブの全身を構成する液体金属が鞭のように伸び、ティガの巨大な胸板を正確に撃ち抜いたのだ。
ドォォォォン……!
衝撃波が屋上の空気を引き裂いた。ティガの巨体が後方へと吹き飛び、数基の排気ダクトをなぎ倒して床面を滑走する。
《ぐ、あ……っ!》
信じられない衝撃だった。ただの物理的な打撃ではない。打撃が当たるという結果が、振るわれる前から「確定」していたかのような、回避不能の暴力。
ティガは即座に身を起こし、反撃に転じた。マルチタイプのバランスを活かし、右拳に光のエネルギーを収束させ、ゾルブへ向けて連射する。一発一発が岩盤を容易く砕く、超高密度の光の矢だ。
だが、ゾルブは歩みを止めない。
光の弾丸がゾルブの瞳へと突き刺さる……その一瞬前。
因果が捻じ曲げられた。
光の弾道は、まるで見えない磁場に弾かれたかのように不自然な放物線を描き、ゾルブを避けて背後の貯水タンクへと吸い込まれた。
ドォォォォン……!
凄まじい爆発が屋上を揺らす。タンクが粉砕され、数トンの水が豪雨のように夜空へと舞い上がった。
「エネルギー弾。波形、速度、すべてが私の観測により『外れる』事象へと確定した。私に当たる確率は、今この瞬間にゼロへと固定された」
《ふざけるなッ!》
ティガは猛然とダッシュし、至近距離での格闘戦を挑んだ。手刀、回し蹴り、膝蹴り。光の戦士が繰り出す圧倒的な質量の猛攻。しかし、そのすべてが「当たる直前」に、空気を斬る音へと変わる。
ゾルブは最小限の動きで、まるで未来を知っているかのようにティガの攻撃をいなしていく。いや、未来を知っているのではない。ティガの攻撃が「空振りに終わる」という結果を、観測によって強制的に現実へと定着させているのだ。
逆に、ゾルブの全身から伸びる液体金属の鞭が、ティガにとっては大質量兵器の直撃に等しい衝撃となってその身を削る。
《……マルチタイプでは、捉えきれない……か》
コンクリートの破片を散らしながら、ティガは一度距離を取った。
パワーもスピードも、この男の前では意味を成さない。観測される前に動く。観測そのものを振り切るほどの、極限の速度。それ以外に、この理不尽な因果の檻を突破する手段はない。
ティガは重心を低く構え、額にあるクリスタルに全神経を集中させた。
内側から湧き上がる光が、白から鋭い紫へと色を変え、一気に溢れ出す。
《……当たる確率がゼロなら、その確率そのものを、俺が塗り替える!》
咆哮と共に、紫の閃光が全身を駆け抜けた。
マルチタイプの赤のラインが、まるで侵食されるように深い紫色へと染まっていく。銀のラインと共鳴し、その肉体はより細く、より鋭利な、風そのもののようなシルエットへと変貌を遂げた。
スカイタイプだ。
スピードの極限。物理法則の限界に挑む、光の最速形態。
直後、屋上の空気が爆ぜた。
ティガの姿が、完全に視界から消え去る。
超高速移動。ヘリポートから貯水タンクの残骸、排気ダクトの影、屋上の端から端まで。ティガは一瞬にして数百の軌跡を描き、屋上全域を埋め尽くすほどの「残像」を生み出した。
全方位から同時に。観測の焦点を絞らせないほどの、狂気的なまでの加速。
残像の一体一体が、本物と遜色ない殺気を放ちながら、ゾルブへと殺到する。
だが。
「……速度か。浅はかだな。速度とは、位置の不確定要素に過ぎない」
ゾルブは動かない。ただ、その無機質な巨大な瞳の焦点を、虚空の「一点」――何もないはずの空間に合わせた。
次の瞬間、鏡が割れるような鋭い音が屋上に響いた。
無数に展開していたティガの残像が、一斉に霧のように霧散する。そして、ただ一つの「実体」が、まるで巨大な重力に捕らえられたかのように、ゾルブが突き出した液体金属の拳の先へと強制的に引き戻された。
ドォォォォン……!
回避不能の衝撃が、スカイタイプの薄い腹部を貫く。
ティガの肉体はくの字に折れ曲がり、屋上の床面を激しく火花を散らしながら滑走した。そのままコンクリートの縁に叩きつけられ、屋上全体が大きく揺らぐ。
《が……っ、はあぁッ……!》
悶絶し、膝をつく。全身の細胞が、ゾルブの一撃によって刻み込まれた「破壊の事象」に悲鳴を上げていた。内部のエネルギーが傷口から光の粒子となって漏れ出す。
《何だ……こいつのこの強さ……?》
震える声が、エコーを伴って夜空に溶ける。
今まで数多の強敵と戦ってきた。だが、目の前の存在は「強い」のではない。この世界の「理(ことわり)」そのものが、ゾルブという個体を勝たせるために再構築されているのだ。
「お前がどれほどの速度を出そうと、私が『ここに止まっている』と観測すれば、お前の運動エネルギーはゼロへと確定する。この世界において、私の眼差しから逃れられる因果など存在しない」
ゾルブは機械的な歩調で、倒れ伏すティガへと歩み寄る。
ドォォォォン……!
ドォォォォン……!
その一歩一歩が放つ理不尽な重圧は、そのまま物理的な震動となって階下へと伝わっていく。
コンクリートの床に這いつくばったまま、ティガは必死に顔を上げた。視界が点滅し、意識が遠のきかける。胸のカラータイマーは、もはや警告の域を超え、死を告げる断末魔のような速さで赤く点滅していた。
《……お前……答えろ……。一体、何のために……このホテルに現れた……! 何をしに来たんだ……!》
掠れた声で、ティガは問うた。血を吐き出すような、執念の問いだ。
ゾルブは足を止め、無機質な巨大な瞳を静かに見下ろしてきた。
「目的か。……剪定だ」
《剪定……だと……?》
「この世界は、あるべき一つの因果へと収束されるべきだ。だが、お前なような異分子が現れ、本来なら死すべき運命にあった個体を生かし続けている。その結果、この世界の未来は無数の不要な枝分かれを起こし、観測の制御を離れつつある」
ゾルブの言葉には、敵意も悪意もない。ただ、事務的に不要物を処理するかのような、絶対的な冷徹さがあった。
「私の目的は、この『ベルウッドホテル』という座標において、乱れた因果をリセットすること。お前が守ろうとしている者たちを消去し、世界を再び、我々が管理する『正しい軌道』へと戻すことだ。彼らが生きていること自体が、この宇宙にとっての不具合なのだよ」
《勝手なことを……! 誰が……誰がそんな勝手な決めつけを、受け入れるか……ッ!》
ティガは震える腕に力を込め、立ち上がろうと足掻く。しかし、ゾルブが静かに右手を掲げた瞬間、その周囲の空気が重く沈み込んだ。
その掌に、周囲の光と熱が吸い込まれ、真っ黒な「虚無」の球体が形成されていく。それは、そこに存在する物質の確率を強制的にゼロへと上書きする、消去の波動だ。
ティガはなおも立ち上がろうとするが、スカイタイプの肉体はもはや限界を迎え、指先一つ動かすことさえままならない。
その時、屋上の振動は、直下のダクト内へと最悪の形で伝播していた。
メキ、メキメキッ……!
凄まじい衝撃に耐えきれず、志保たちが逃げ込んでいた配管ダクトの一部が歪み、天井のコンクリートが剥落する。
「……ッ!?」
志保は息を呑んだ。
真下の通路。埃が舞う暗がりの向こう側に、揺らめく銀髪が見えた。
ジンだ。
静寂を切り裂く、一定の、そして冷酷な足音。
「……フン。上の騒ぎのおかげで、ネズミの足音を消したつもりか」
ジンの、氷のように冷たい声がすぐ近くで響く。
「(あれは……ジンッ!?)」
志保の心臓が、喉元まで跳ね上がった。この声、この凍りつくような殺気。間違いなく、組織の死神がそこにいる。
「兄貴、間違いねぇ。シェリーはこの奥に追い詰められてるはずですぜ」
ウォッカが無骨な手でベレッタを構え直し、ジンの斜め後ろに控える。彼らの目的は、組織を裏切ったシェリーの処刑。その傍らに、正体不明の「男」が潜んでいることなど、まだ夢にも思っていない。
ジンの漆黒のコートの裾が、木箱の角から一瞬だけ見えた。
「……出てきたらどうだ、シェリー。その震える喉笛を、俺の弾丸で貫いてやる前に……」
ジンの銃口が、ゆっくりと志保たちの潜む影へと向けられる。
博士はガタガタと震え、新一は薄れゆく意識の中で、必死に自分の胸元を掴んでいた。
屋上では、ボロボロになったティガがゾルブの「剪定」という宣告に立ち尽くしている。
そしてこの暗がりでは、ジンの指が引き金にかかろうとしていた。
因果の檻は、今まさに彼らを飲み込もうとしていた。
ドォォォォン……!
屋上のコンクリートが再び悲鳴を上げる。
スカイタイプの肉体をボロボロに破壊され、ティガは屋上の縁で膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。胸のカラータイマーは、もはや警告の域を超え、死を告げる断末魔のような速さで赤く点滅していた。紫のラインが、漏れ出す光の粒子と共に脆く剥がれ落ちようとしていた。
その眼前。ゾルブが無機質な巨大な瞳を静かに見下ろし、掌に虚無の球体を形成する。
《……勝手なことを……。誰が……そんな決めつけを、受け入れるかよ……ッ!》
ティガは咆哮と共に、全神経を額のクリスタルに集中させた。白から鋭い赤へと変わる光が全身を駆け抜ける。
次の瞬間、紫のラインが消え、筋骨隆々とした紅の戦士――パワータイプへと変貌を遂げた。
「無駄だ。形態を変えたところで、私が『お前は無力だ』と観測すれば……」
ゾルブの言葉を遮り、ティガはただ一歩を強く踏み出した。足跡を中心にコンクリートが砕け散り、屋上が激しく震動する。
ドォォォォン……!
ゾルブの「観測」という理不尽な重圧を、純粋な「力」のみで押し返す。
ティガは突進し、渾身の力を込めた右拳をゾルブの胸元へと叩き込んだ。衝撃波が屋上の空気を引き裂き、貯水タンクから溢れ出した水が豪雨のように舞い上がる。
ドゴォォォォン……!
間髪入れず、完璧な軸を保った回し蹴りがゾルブの胴体に決まった。ゾルブは弾かれたように吹き飛び、巨大な排気ダクトをなぎ倒して仰向けに倒れ伏す。
その直後。
(!!?な、何だ今の?)
ティガの脳内に、禍々しいオーラを纏った古代の闇の戦士としての自らの姿が強烈にフラッシュバックした。圭人はその異質な記憶に一瞬驚愕する。
しかし、立ち上がろうとするゾルブを前に、雑念を振り払った。
両腕を斜め下へ大きく広げ、掌から赤いエネルギーを放つ。そのまま腕を上へ回し、胸の前で左右の掌を向かい合わせた。凝縮された赤い光球を左右から掴む形になり、大きく振りかぶった右手をゾルブへまっすぐ伸ばす。
放たれた光熱の奔流――デラシウム光流が、ゾルブを包み込んだ。
「……観測……不能……!」
ゾルブの液体金属の体は砕け散り、その存在は完全に消滅した。爆煙が晴れた跡には、置換されていた本体の給仕係の男が意識を失って倒れ込んでいた。
その頃。階下の資材置き場の隅。
志保は、熱に浮かされる新一の口を必死に塞ぎ、博士と共に木箱の影で息を殺していた。
コツ、コツ、と。
ジンの冷酷な足音と、ウォッカの足音が木箱の角を回る。
「……出てきたらどうだ、シェリー」
ジンのベレッタが、志保たちの潜む影へと向けられた、その瞬間。
メキ、メキメキッ……! ボガァァァン!
志保が覚悟を決めて目を閉じたその瞬間、頭上の天井が爆散した。
降り注ぐコンクリートの礫と凄まじい風圧と共に、巨大な紅の影が資材置き場の中心へと轟音を立てて降臨する。
「な、何だぁっ!?」
ウォッカが喉を震わせ、上ずった声を上げた。サングラスの奥の瞳が、突如現れた筋骨隆々とした異形――パワータイプのティガを捉えて凍りつく。
ジンは、崩落の粉塵の中でコートをなびかせながら、眼前の巨躯を射抜くように凝視した。銃口を向けたまま、その口元が不敵に、かつ忌々しげに歪む。
「……何者だ?」
ジンが引き金に指をかけようとした、その刹那。
赤灯のカラータイマーを激しく点滅させたティガが、残された全出力を右脚に集中させた。
《……》
重戦車のような踏み込みと共に、ティガの回し蹴りが空気を切り裂く。
驚愕と殺気が交差するコンマ数秒の間に、超重量の蹴撃がジンの胴体を正確に捉えた。
ドゴォォォォン……!
ジンは防戦の暇もなく弾き飛ばされ、資材の山をなぎ倒しながらフロアの外、建設途中の虚空へと蹴り飛ばされた。
「ア、アニキ!」
ウォッカが絶叫し、ジンの飛ばされた闇の向こうへ駆け寄ろうとする。
だが、ティガは止まらない。右腕を水平に振り抜き、鋭い手刀から光の刃――ティガスライサーを放った。刃は天井を走るスプリンクラーの配管を正確に切断する。
プシュゥゥゥゥッ!
切断部から猛烈な勢いで水飛沫が噴き出し、作動した消火システムの白煙が瞬く間にフロアを埋め尽くした。
「クッ…クソッ、前が見えねぇ!」
白煙と水飛沫のカーテンに遮られ、ウォッカの視界は完全に奪われた。
それを見届け、限界を迎えたティガの体は、光の粒子となって静かに霧散し始める。
その頃、ホテルの外周――。
屋上の異変と、建物内部からの激しい衝撃音をスコープ越しに捉えていた男が動いた。
「……狩りの時間だ」
ベルウッドホテルから遠く離れたビルの一角。
沖矢――赤井秀一は、ライフルの接眼レンズに冷徹な瞳を密着させていた。
屋上付近の衝撃に、組織のスナイパーであるキャンティとコルンが一瞬だけ気を取られる。そのわずかな隙を、赤井は逃さなかった。
乾いた発砲音が夜の静寂を切り裂く。
超長距離から放たれた「銀」の弾丸は、正確無比にキャンティのライフルのスコープを粉砕した。
「あ、アタイのスコープが……ッ! どこからだよ!?」
キャンティの悲鳴が無線に響くのとほぼ同時に、もう一発。コルンの銃身が火花を散らして跳ね上がった。