ヒーローと探偵   作:タルマヨ

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黒と銀の包囲網(完)

 降り注ぐ水飛沫と白煙。視界を奪われたウォッカが激しく毒づく中、ティガの輪郭は光の粒子となって完全に解けた。

 その光の渦から、肩で息をする圭人が姿を現す。目の前には、激しい動悸と骨が軋むような苦痛に耐え、再び子供の姿へと戻った二人が倒れ込んでいた。圭人は一言も発さず、ただ迅速に、二人を左右の腕でしっかりと抱え上げた。

(……無茶しやがって、イチ……志保さん)

 心の中でだけそう呟き、圭人は博士に目配せを送る。博士は震える足取りながらも頷き、噴き出す水に濡れながら圭人の後を追った。

 白煙の向こうでは、ウォッカが視界を確保しようと闇雲に周囲を警戒している。圭人は資材の隙間を縫い、気配を完全に消してその場を離脱した。スプリンクラーの作動による大パニック、そして外周で始まったFBIの強行突入がもたらした情報の混乱。それらすべてを盾に、一行は組織の目を潜り抜け、最短ルートで地下駐車場へと滑り込んだ。

 待機していた博士のビートルに、ぐったりとした二人を押し込む。圭人が助手席へ飛び乗ると同時に、博士は震える手でエンジンをかけ、タイヤを鳴らして闇夜へと車を走らせた。

 

 

 

 

 

 一方、蹴り飛ばされたジンは、建設途中の鉄骨に背中を叩きつけられながらも、着地していた。口端から一筋の血を流しながら、殺意を孕んだ瞳で頭上のフロアを見上げる。

「……野郎……」

 そこへ、白煙の中から這い出してきたウォッカが合流した。

「アニキ! 大丈夫ですかい!?」

「……追いかけるぞ、ウォッカ。あの理不尽な光の影に、シェリーが紛れていたはずだ」

 だが、その追撃を阻むように、赤井の「銀の弾丸」が再び夜空を切り裂き、彼らの足元のアスファルトを弾いた。ジンは忌々しげにチッと舌打ちをし、夜の闇へと姿を消した。

 

 

 

 

 

 屋上には、静寂が戻りつつあった。

 ゾルブという異分子が消滅した跡には、意識を失った給仕係の男が一人、倒れ込んでいた。

 そこへ、混乱に乗じて現場の状況を確認しに来たFBIのキャメルが駆け寄る。

「……生存者か。おい、しっかりしろ!」

 キャメルは男の無事を確認すると、その体を抱え上げた。警察がすでに撤収し、組織の目が外周のFBIに向けられている今、この男を放置すればさらなる火の粉が降りかかる。キャメルは男を担ぎ、速やかにホテルの裏口へと向かった。

 

 

 

 ホテル内部、混乱が続くパーティー会場付近――。

 激しい振動と火災報知器の音の中、小五郎たちは避難の渦中にいた。警察がいない現場で、ホテルの警備員たちが必死に誘導を行っている。

「おい、蘭! 園子!美桜ちゃん! 離れるんじゃねえぞ!」

 小五郎が二人を庇うように腕を広げる。蘭は不安げに周囲を見渡し、何度も携帯の画面を確認していた。

「お父さん、新一は!? 新一と圭人がまだ見当たらないのよ!」

 コナンと灰原は、具合が悪くなったために博士が先に連れて帰ったと聞かされているが、様子がおかしかった新一とその新一と一緒に出ていった圭人の行方が掴めない。

「新一君なら、あのまままたどっかの事件に首突っ込んでるんじゃないの!? 圭人君まで巻き込まれてなきゃいいけど……!」

 園子がドレスの裾を握りしめ、苛立ちを隠せない様子で叫ぶ。その隣で、美桜は静かに、しかし鋭い眼光で周囲の観察を続けていた。

「……蘭さん、園子さん。落ち着いてください。星野さんも……工藤さんも、きっとご無事です。今は安全な場所へ移動しましょう」

 美桜の絶対的な静謐さを湛えた言葉に、蘭たちはわずかに冷静さを取り戻す。

 ホテルの外ではFBIが組織の動向を封じ込めるべく暗躍し、ベルウッドホテルの夜は、未だ癒えぬ謎を抱えたまま、深い闇に包まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リビングに置かれたテレビの画面内では、外壁が崩落したベルウッドホテルの無惨な姿が繰り返し映し出されている。世間にとっても、そして組織にとっても、あの夜の出来事は「原因不明のテロ未遂」と「未解決の殺人事件」でしかない。

「……ニュース、こればっかりね。あの給仕係の人、命に別状はなかったみたいだけど、やっぱり何も覚えてないって。ゾルブに器として利用された反動でしょうね……。彼にとっては、その方が幸せかもしれないけれど」

 灰原は、冷めた紅茶を啜りながら、どこか遠くを見るような瞳で呟いた。隣では、博士が安堵したようにキッチンで立ち働いている。あの日、圭人が抱え、博士の車で間一髪脱出した灰原とコナンは、丸一日以上の高熱を乗り越え、ようやく日常の空気を取り戻していた。

「悪いね、博士。いろいろと後始末まで頼んじゃって……」

 窓の外の様子を伺っていた圭人が、振り返りながら声をかける。

「気にするな、圭人君。それより、あやつ(新一君)の様子はどうじゃ?」

「……さっきまで寝てたけど、そろそろ起きる頃じゃないかな。バーロォなんて威勢のいい声が出るには、もう少しかかりそうだけど」

 その言葉に応じるように、隣の部屋の扉が静かに開いた。

「…起きてるよ」

 パジャマ姿のコナンが、少しふらつきながらもリビングに姿を現した。メガネの奥の瞳には、眠気よりも先に新一としての鋭い知性が宿っている。

「新一君! 無茶しちゃダメじゃ、まだ寝ておらんと」

「大丈夫だよ、博士。寝すぎて腰が痛いくらいだからさ……。それより、圭人。……ジンたちの動きは?」

コナンは灰原の隣に座り、真っ直ぐに圭人を見上げた。

「FBIからの連絡だと、奴らは完全に沈黙したみたいだ。キャンティとコルンは赤井さんにライフルを壊されて撤退。ジンもウォッカも、あの混乱に乗じて姿を消したよ。……俺が外まで蹴り飛ばしたあいつが、このまま大人しく引き下がるとは思えないけどね」

「だろうな。……けど、奴らも困惑してるはずだぜ。突然天井を突き破って現れた『赤い化け物』が、自分たちの計画を台無しにしたんだからな。組織にとっちゃ、計算外の塊だろ」

コナンは不敵な笑を浮かべる。物理法則を無視した存在の介入。組織がそれをどう解釈しようと、現時点では「説明のつかない脅威」として処理するしかない。

「ゾルブのことも……奴らは何も知らない。辿り着けるはずがないさ。……そうだよな、圭人」

窓の外の青空に視線を戻し、圭人は静かに頷いた。

(……ああ。辿り着けるはずがない。……でも、俺の中には、まだ残ってる)

 

 圭人の脳裏に、あの日、ゾルブを撃破した瞬間の記憶が蘇る。デラシウム光流を放つ直前、全身を駆け抜けたあの異質な脈動。

 禍々しい闇のオーラを纏い、超古代の戦場に立つ「闇の戦士」としてのティガの姿。

(!!?な、何だ今の?)

 あの瞬間の驚愕と、魂の奥底から這い出るような冷たい闇の感覚。それは、ゾルブが消滅した後も、圭人の心に昏い影を落としていた。俺の中に、あれほど禍々しい闇が眠っているというのか。

 

「そうだね。……でも、俺たちにとっては違う。ゾルブは言ってた。 俺がいることで、この世界の未来は本来の軌道を外れ、枝分かれを始めてるって。……俺がこの世界にいること自体が、因果のバグなんだってさ」

圭人は雑念を振り払い、コナンたちへと向き直った。闇の記憶は、今はまだ誰にも話すべきではない。

「運命だの因果だの、そんな不確かなものに怯えて、あそこで私たちを見捨てるようなあなたじゃないでしょ? ……私は、あなたがいてくれたから、今こうして紅茶を飲めてる。それ以上に正しい軌道なんて、どこにもないわ」

 

沈黙を破ったのは、灰原だった。

「……志保さん。手厳しいね」

圭人は苦笑し、ソファへと歩み寄る。

「そうだね。剪定だろうがリセットだろうが、勝手にやってろって話だよね。俺はこの手で掴めるものしか守らない。……だろ?」

「バーロ……。当たり前だろ」

コナンは鼻を啜り、新一としての力強い笑みを浮かべた。

やがて、手元の携帯が激しく震え始める。画面に表示されたのは蘭の名前。コナンは慣れた手つきで蝶ネクタイ型変声機を工藤新一の声に調整し、受話器に向き合った。

「……あぁ、蘭か? 悪い、ちょっと厄介な事件の証拠を追っててさ……あぁ、大丈夫だって、怪我なんてしてねーよ。園子と美桜さんには、もう連絡済みだろ? 圭人も無事だったって……おいおい、泣くなって。……悪い、心配させたな。……あぁ、わかってる。事件が一段落したら、ちゃんと顔見せるから。……ああ、じゃあな」

電話を切り、大きく溜息をつく。蘭の震える声に応じるのは、何度繰り返しても胸が痛むようだ。

「……蘭、だいぶ怒ってたろ」

「わかってるよ……。けど、こうするしかねーだろ」

コナンは苦笑いしながら、いつもの子供の顔で圭人を見上げた。そこには、あの凄惨な夜を共に潜り抜けた者同士にしか分からない、強固な信頼があった。

 

 組織は闇に潜み、ゾルブを送り込んだ存在の影も消えたわけではない。

 圭人の中に眠る「闇」の記憶も、未だ謎に包まれたままだ。

 しかし、圭人の胸に宿る光は、あの日よりも強く、確かなものになっていた。

(……剪定だろうが何だろうが、俺たちの明日は、俺たちが決める)

 因果を塗り替え、運命を捻じ曲げ、そして己の中の闇と向き合うことになろうとも。この静かな日常が続く限り、圭人は何度でも光となって、理不尽な世界の断罪を退け続けるだろう。

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