ヒーローと探偵   作:タルマヨ

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地質研究所の影(前編)

「よし、準備はいいかな? 今日はこれから伊豆の相模湾沿岸にある、ワシの大学時代の親友・羽生君が所長を務める相模極地地質研究所へ向かうぞい!」

阿笠邸のリビングに、博士の元気な声が響く。ソファに座っていた圭人と灰原が、それぞれの反応を見せた。

「伊豆の研究所……。博士、それって例の三千万年前の地層に関係がある場所?」

圭人が身を乗り出して尋ねると、博士は自信たっぷりに鼻を鳴らす。そこには、MDRの検閲すら受けていない、超古代の地層から出土した黒い結晶の解析データがあるという。

「……随分と物騒な場所へ行くのね。でも、あの怪人たちのルーツに関わる生の情報があるというなら、無視はできないわ。分かったわ、私も行くわ」

灰原も、手元の雑誌を閉じて静かに頷いた。三人が出発の準備を整えようとしたその時、玄関のチャイムが鳴る。扉を開けると、そこには隣の工藤邸の居候、沖矢昴が立っていた。手には丁寧に風呂敷で包まれた大きなタッパーがある。

「あぁ、皆さんお出かけですか? 実は、肉じゃがを少々作りすぎてしまいまして……。お裾分けにと思ったのですが、タイミングが悪かったでしょうか」

穏やかな笑みを浮かべる沖矢に対し、博士が事情を説明する。これから伊豆の研究所へ「超古代の遺物」の調査に行くのだと聞いた沖矢は、眼鏡の奥の瞳をわずかに細めた。

 

「ほう、それは興味深い。地質学の権威である羽生博士の研究所ですか。もしよろしければ、私もご一緒させていただいても? 長距離の運転なら、私がお手伝いすることもできますよ」

「それは助かるわい!」と歓迎する博士だったが、即座に灰原が鋭い視線を向けた。

「……必要ないわ。博士の運転で十分よ。それに、部外者が安易に立ち入るべき場所じゃないはずだわ」

拒絶に近い言葉に、場が静まり返る。そこで圭人が苦笑いしながら灰原の肩を叩いた。

「哀ちゃん。昴さんはいい人だしさ。そんなに警戒しなくても大丈夫だって」

灰原は信じられないといった様子で、ジト目になって圭人をじろりと見据える。その視線の圧力に、圭人は冷や汗をかきながら言葉を継いだ。

「いや、あ、ほら、こうやっていつも色々差し入れをくれる人に、悪い人はいないって。肉じゃがだって、絶対美味しいしさ」

「……貴方といい、江戸川君といい、あの人に肩入れしすぎていないかしら?」

呆れたように溜息をつく灰原。しかし、圭人の屈託のない言葉と博士の乗り気な様子に、これ以上反対し続けるのも難しいと判断したのか、彼女はそれ以上の反論を飲み込んだ。その様子を静かに見守っていた沖矢は、一瞬だけ口角を上げ、不敵な笑みを浮かべる。

 

 

 

 

 

 一行は阿笠博士の黄色いビートルに乗り込み、伊豆へと出発した。

運転席には博士。助手席には沖矢。後部座席は、運転席側に灰原、助手席側に圭人が座る。

市街地を抜け、海岸線へと差し掛かる頃、助手席の沖矢がバックミラー越しに後部座席へ視線を送った。

「ところで……今日はコナン君はどうしたんですか? いつもなら、今日のような面白そうな話には真っ先に食いつきそうですが」

圭人が窓の外を流れる海を眺めながら答える。

「ああ、コナンはおじさん(小五郎)の依頼について行ってるんですよ。何でも、有名な美食家からの相談だとかで、蘭や園子も一緒に出かけていったらしいです」

「なるほど、あちらもあちらで忙しいというわけですか」

沖矢は納得したように頷き、再び前方の道を見据えた。ビートルは、三千万年前の謎と「黒い結晶」が眠る相模湾の研究所を目指して、快調にひた走っていった。

 

 

 

 

 

 

 黄色いビートルが伊豆の海岸線を抜け、切り立った断崖絶壁の上に建つ石造りの建物へと滑り込んだ。看板には『相模極地地質研究所』と刻まれている。

 

【挿絵表示】

 

 

潮風が吹き荒れるエントランスに車が止まると、博士を先頭に圭人、灰原、そして沖矢の四人が車を降りた。

「本当に……随分と物騒な場所ね」

 車を降りた灰原が、吹き付ける強風に髪をなびかせながら、崖下の荒波を見下ろして呟いた。

「本当だね。これだけ人目に付かない場所なら、検閲前のデータも隠し通せるかもしれないし。……にしても、ちょっと不気味な場所だけどさ」

 圭人が周囲を警戒するように見渡し、崖の淵に立つ建物の不安定さに眉をひそめると、重厚なエントランスの扉が開き、中から白衣を纏った男が足早に現れた。

「おお、阿笠君! よく来てくれたな、待ちわびたぞ!」

 羽生慎之介所長は、博士の手を強く握りしめ、旧友との再会を心から喜んでいる様子だった。博士もまた、目尻を下げてそれに応える。

「いやあ、羽生君。無理を言って済まんのう。今日は頼もしい助っ人も連れてきたんじゃ。こっちが圭人君に、哀君。それから、隣に住んでおる昴君じゃよ」

 博士の紹介に合わせ、圭人と灰原が並んで言葉を交わした。

「「はじめまして」」

 二人の短い挨拶に対し、羽生は慈愛に満ちた笑みを浮かべて頷いた。一方で、助手席から降りていた沖矢は、静かに一歩前へ出て一礼する。

「沖矢昴と申します。大学院で工学を専攻しておりまして、地質学の権威である羽生博士の施設を拝見できること、心から感謝いたします」

「ほう、工学部の学生さんか。それは心強い。我が研究所は設備が古くてね、至らぬ点もあるだろうがゆっくりしていってくれ」

羽生はそう言って一行を館内へと誘った。

 

 

 

 高い天井にシャンデリアが灯る玄関ホールには、羽生の部下である三人の職員が、まるで審判を待つ被告人のような硬い表情で整列していた。羽生が一人ずつ紹介を始める。

「運営全般を任せている副所長の瀬戸君だ。それから、理論解析の要である満島君。そして現場のサンプル採取を一手に引き受けてくれている潮崎君だよ」

 瀬戸健太郎副所長は、丁寧な物腰ながらもその目は冷たく、博士たちが持ち込んだ機材のブランドや、圭人たちの身なりを値踏みするように眺めている。

「遠路はるばるご苦労様です。所長の研究は……ええ、極めて『独自性』が高いものですから、外部の方にどう映るか楽しみですよ」

 その言い回しには、どこか所長を揶揄するような響きが含まれていた。

 続いて紹介された満島遥主任研究員は、羽生の隣でタブレット端末を執拗に叩き続けていた。彼女は一行と目が合っても表情一つ変えず、「……よろしくお願いします」と事務的な言葉を吐くだけだった。

「どうかされましたか、満島さん。そんなに頻繁にチェックが必要なデータでも?」

 沖矢が穏やかに問いかけると、満島の指が一瞬止まった。

「……いえ。地底の気圧変化が激しいので、データの同期が不安定なだけです。お気になさらず」

 彼女は冷淡に言い捨てると、再び画面へと視線を落とした。その画面には、貯蔵庫の換気ログが不自然なほど細かく書き換えられていく様子が映し出されていた。

「さて、立ち話もなんだ。早速、地下にある三千万年前の『遺物』をお見せしよう」

 羽生に促され、一行は重厚なエレベーターに乗り込んだ。カゴが軋むような音を立てて地下深くへと沈んでいく。地下階に到着し扉が開くと、そこには岩盤を直接掘り抜いたような無骨な廊下が続いていた。

 灰原は一歩踏み出した瞬間、不快そうに鼻を寄せた。

「……随分と空調が甘いのね。地下はもっと冷え込んでいると思ったけれど」

「ああ、申し訳ない。空調の調子が悪くてね。今、満島君に調整させているところなんだ」

 羽生の言葉を聞きながら、圭人は廊下の四隅に設置された監視カメラや、非常用シャッターの駆動部を観察していた。建物の古さに反して、セキュリティだけは妙に最新のものが混在している。

「所長、ここからは私が案内を引き継ぎます。貴方は先に最深部の防潮扉を開けておいてください。標本の温度変化を防ぐためにも、一人で入った方がいい」

 不意に満島が提案した。瀬戸も「それが賢明ですね。準備ができたら呼んでください」と同調する。

 羽生は「そうだな」と頷き、一行に微笑みかけた。

「すまないが、阿笠君、皆さんはそこのラウンジで待っていてくれ。貴重な標本だからな、まずは私が一人で内部の安全を確認して、照明を落としていた最深部の棚を開けてくるよ」

「所長、あまり一人で先行されるのは危ないんじゃないでしょうか?」

 圭人の問いかけに、羽生は笑って首を振った。

「何、ここは私の庭のようなものだ。心配いらんよ、圭人君」

 羽生は一人、巨大な鋼鉄製の扉の向こう側へと姿を消した。扉が閉まるその瞬間、沖矢は静まり返った通路の奥から響く、不気味な異音を捉えた。

「キィ……キィィ……」

 それは、重い荷重に耐えかねた金属が悲鳴を上げているような、そんな音だった。

「どうかしたんですか、昴さん?」

 圭人の問いに、沖矢は指先で顎に触れながら、細められた瞳で扉の奥を見据えた。

「いえ、少し……風の音が気になっただけですよ」

 ラウンジへ案内される一行の後ろで、満島はタブレットを操作し、最後の「出力調整」を完了させた。潮崎助手が、瀬戸から無言の圧力を受けて震える拳を握りしめていることにも、誰も気づかないまま、地下の静寂は刻一刻と崩壊の瞬間へと近づいていた。

 

 

 

 

 羽生所長が扉の向こうへ消えた後、一行は瀬戸副所長と潮崎助手に促され、貯蔵庫手前にある地下ラウンジへと案内された。岩盤を直接切り出した壁に囲まれたその部屋は、地上とは対照的に窓一つなく、重苦しい静寂が支配している。置かれたソファは上質な革製だが、地下特有の湿り気を帯びて、肌に冷たくまとわりついた。

「まあ、こちらでお茶でも。所長が戻るまで、そう時間はかかりませんから」

 瀬戸は懃懃にそう告げ、銀盆に載ったカップを並べていく。しかし、その視線は会話に向けられることなく、絶えず自身の腕に巻かれたスイス製の高級時計へと注がれていた。その隣で、潮崎は何かを堪えるように俯き、出された茶器に触れることさえせずに、指先を細かく震わせていた。

「……随分と立派な時計ですね。地質学の研究所というのは、そんなに羽振りがいいものなんですか?」

 圭人が探るように問いかけると、瀬戸は一瞬だけ不快そうに目を細め、すぐに貼り付けたような笑みに戻った。

「まさか。これは昔、仕事で大きな成果を上げた際の自分への褒美ですよ。……潮崎君、君も少しは落ち着きたまえ。客人の前で見苦しいぞ」

「……あ、す、すみません。ちょっと、ここの空気が薄い気がして……」

 潮崎の声は上ずっており、その額には季節外れの汗が滲んでいる。

「……ねえ、星野君。やっぱりおかしいわ」

 灰原が隣に座る圭人に、聞き取れるかどうかの小声で囁いた。

「おかしいって?」

「このラウンジの吸気口から入ってくる風。さっきよりまた一段と温度が上がっているわ。精密な岩石標本を保管する場所で、こんなに頻繁に設定を変えるなんて、研究者としては失格よ」

 灰原の懸念を裏付けるように、壁際の通気孔からは「ボォ……」という低い唸りを伴った温風が吹き出している。その異様な熱気は、閉ざされた地下空間の酸素をじわじわと奪っていくかのようだった。

 圭人はその視線を、部屋の隅で静かに佇む沖矢へと向けた。沖矢は吸気口の近くに立ち、まるで壁の振動を読み取るかのように、細長い指先をコンクリートに這わせていた。その眼鏡の奥の瞳は、普段の穏やかさとはかけ離れた、鋭利な光を宿している。

(……風の音に混じって、別の音が聞こえるな)

 圭人は五感を研ぎ澄ませた。それは、遠くで何かが激しく軋み、破断寸前の限界を叫んでいるような、不吉な摩擦音だった。

 その頃、研究所のどこか――。

 薄暗い室内で、端末のモニターの光が何者かの口元を青白く照らしていた。無機質な操作音が響き、最終コマンドが入力される。画面上の貯蔵庫内部の温度グラフが、一箇所だけ異常な赤色に染まった。局所的な熱膨張。それは、巨大な移動式標本棚の支柱を密かに締め付けていた、特殊合金製の細いワイヤーに決定的な負荷をかけていく。

 ――瞬間。

 地下全体を揺るがすような「地響き」が一行を襲った。

「な、なんじゃ!? 地震か!?」

 博士が驚いて立ち上がると同時に、貯蔵庫の方向から「パァン!」という、暴力的で鋭い破裂音が連続して響き渡る。支えを失った数トンの質量が、重力に従って傾斜を始める合図だった。

「……まずい、地下の奥だ!」

 圭人が叫ぶより早く、沖矢の体が弾かれたように動き出していた。

「昴さん!」

 圭人も即座にその後を追い、ラウンジの扉を蹴るようにして飛び出した。複雑に入り組んだ地下通路に、金属が捻じ切れる凄まじい轟音が反響する。二人はそれを振り切って、土煙の舞う貯蔵庫の最深部へと駆け抜けた。

 

 辿り着いたそこには、悪夢のような光景が広がっていた。天井近くまでそびえ立っていたはずの巨大な移動式標本棚が、ドミノ倒しのように重なり合い、唯一の通路を完全に塞いでいる。崩れ落ちた標本石の破片が辺り一面に散乱し、充満する石粉で視界は最悪だった。

「……羽生所長! 所長、返事をしてください!」

 圭人が喉が枯れるほどの声で叫ぶが、返ってくるのは不気味に唸る空調の音だけだった。遅れて到着した博士たちが絶句する中、圭人は崩れた棚の隙間に、一筋の赤い液体が流れ出しているのを見つけた。

「……嘘だろ」

 折り重なった鋼鉄の棚の下。そこには、三千万年前の「黒い結晶」を抱えたまま、無残に押し潰された羽生慎之介の姿があった。

「そんな……羽生君! 羽生君!!」

 博士の悲痛な叫びが、閉鎖された地下空間に虚しく響き渡る。

「ど、どうしてこんなことに……。メンテナンスは完璧だったはずなのに!」

 駆けつけた瀬戸が狼狽した声を上げるが、その視線は所長ではなく、彼が抱えていた「黒い結晶」に注がれているように見えた。

 騒然となる現場の傍らで、沖矢は静かに膝をつき、棚の支柱に残された「切断面」を凝視していた。その瞳には、偶然の事故を否定する確信が、冷徹に宿っていた。

「哀ちゃん、救急車と念の為に警察にも連絡して!」

 圭人の鋭い指示に、灰原は即座に端末を取り出した。しかし、圏外を示す液晶画面を一瞥すると、迷うことなく踵を返す。

「え、えぇ!」

 短く応じると、灰原は通信を確保するためにエレベーターホールへと走り出した。感情を押し殺したその背中が、パニックに陥りかけた瀬戸や潮崎の目に、異様なまでの冷静さを焼き付ける。

 伊豆の断崖に建つ孤絶した研究所。

 三千万年前の時間が眠る場所で、現代の殺意がその産声を上げた瞬間だった。

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