ヒーローと探偵 作:タルマヨ
必死な依頼人(前編)
毛利探偵事務所の午後は、いつもとは違う奇妙な静けさに包まれていた。
三階の居住スペースからは、時折苦しそうな咳き込みが聞こえてくる。小五郎がひどい発熱で寝込んでしまい、蘭がつきっきりで看病にあたっていた。
二階の事務室では、圭人とコナンが所在なげに過ごしていた。
「……おじさん、大丈夫? かなりうなされてたみたいだけど」
圭人が階段の方を気にかけながら呟くと、コナンは手元の本から目を離さずに応えた。
「風邪じゃねぇか?蘭が氷枕を替えてたけど、おっちゃん、当分は動けそうにないな」
そこへ、階段を下りてきた蘭が、手にしたタブレットの画面を見つめながら困惑した表情を浮かべていた。
「ねえ、困ったわ……。事務所のホームページに一通のメールが届いてるんだけど、『どうしても今日中に会って話を聞いてほしい』って切実な内容なの。部下の女性を探してほしいみたいなんだけど……」
「でも、おじさんがあの状態じゃ無理だよね。断るしかないんじゃない?」
圭人の問いに、蘭は溜息をついて頷いた。
「そうなんだけど……。でも、なんだか放っておけない文面なのよね。詳しいことは会って話したいって」
そこでコナンが、わざとらしく小首を傾げて圭人の顔を覗き込んだ。
「ねえねえ、圭人兄ちゃん。代わりに受けてあげたら? 圭人兄ちゃんなら、小五郎のおじさんの代わりが立派に務まると思うし、僕も手伝うからさ!」
「……え? 俺が? いやいや、俺は探偵じゃないし。ちょっと荷が重いよ」
「いいじゃない! 蘭姉ちゃんもおじさんの看病で離れられないんだし、このまま放っておいたら可哀想だよ!」
無邪気な子供を装ったコナンの提案に、蘭も期待を込めた眼差しを圭人に向けた。
「お願い、圭人! もちろん無理には言わないけど、もし話を聞いてくれるだけでも助かるわ。お父さんの弟子みたいなものなんだし、ね?」
「……うーん、しょうがないな。やるか。蘭にそこまで言われたら断れないよ」
圭人は苦笑いしながら頭を掻き、観念したように立ち上がった。
「ありがとう、圭人! 助かるわ。場所は杯戸町の喫茶店で、依頼人は橋下さんという方よ。コナン君、圭人のことしっかり手伝ってあげてね」
「うん、任せて!」
それから三十分後。
圭人とコナンは、指定された杯戸町の喫茶店『カフェ・ド・シアン』の奥まったボックス席に座っていた。
向かいに座るのは、スーツを几帳面に着こなした中年男性、橋下冬彦。彼は憔悴しきった様子で、何度もハンカチで額の汗を拭っている。
「……毛利先生が急病だとは伺いましたが、まさかこれほどお若い方が代わりに来てくださるとは」
「ええ。毛利探偵の下で学ばせてもらってる星野です。こっちのコナンも、毛利探偵の右腕……みたいなものですから。事情を聞かせてもらえますか、橋下さん」
圭人が椅子に深く腰掛け、丁寧な口調で促すと、橋下は震える手で一枚の写真とメモを差し出した。
「私の部下の麻美理沙が、会社を辞めて行方不明になったんです。彼女……実はストーカー被害に遭っていましてね。その恐怖で、誰にも行き先を告げずに姿を消してしまった。家族も親戚も、誰も居場所を知らないんです」
「ストーカー、ですか……」
圭人が写真を手に取る。写っているのは、明るい笑顔を見せる若い女性だった。
「ええ。警察に言えば、余計に犯人を刺激して彼女の身に危険が及ぶかもしれない。だから、大事にしたくないんです。どうか、彼女を見つけ出して守ってやってください。これは手付金としての報酬です」
橋下がテーブルに置いた封筒の中身は、およそ八十万円。そして、麻美の携帯電話番号とメールアドレスが記されたメモ。
「連絡はしてみたんですか?」
「ええ、何度も。ですが一切出ないし、メールも帰ってこないんです。完全に心を閉ざしてしまっている……。星野さん、お願いします。可愛い部下なんだ。彼女を助けられるのは、もうあなた方しかいない」
橋下の必死な、そしてどこか執着を感じさせるほどの訴えに、圭人とコナンは顔を見合わせた。
「……分かりました。調査を引き受けます」
数分後、深々と頭を下げて去っていく橋下を見送った二人は、店を出て人通りの少ない路地裏へと移動した。
「……さて。どうする、イチ?」
圭人は周囲を警戒しながら、メモをポケットにしまい込んだ。
「ああ。まずは居場所を特定しないとな。この情報だけじゃ、雲を掴むような話だ」
喫茶店を出た圭人とコナンは、人通りの少ない裏路地へ移動した。圭人は周囲を一度見回してから、左腕のアストロウォッチを操作して博士へ通信をつなぐ。
「あ、博士? ちょっと今、大丈夫かな」
圭人の呼びかけに、スピーカーから聞き慣れたのんびりとした声が返ってきた。
『おお、圭人君か。どうしたんじゃ?』
「博士、ちょっと頼みたいことがあるんだ」
圭人の腕に向かって、コナンが顔を近づけて事情を説明する。
「博士、この番号かメールアドレスから、持ち主の居場所を特定できないかな? 急いでるんだ、頼むぜ」
情報を端末経由で受け取った阿笠は、困惑したように声を上げた。
『な、新一君! できないことはないが、いくらなんでもそんなことしていいのかのう? 勝手に位置を探るなんて、まるっきりハッカーの所業じゃぞ。ワシは科学者であって、そんな……』
「わかってるよ、博士。でも、ストーカーに狙われて行方不明になった人を救うためなんだ。一刻を争うかもしれないんだよ。頼む!」
コナンの強引な懇願に、阿笠は観念したように溜息をついた。
『……やれやれ、君等は相変わらず人使いが荒いのう。今回だけじゃぞ?』
数十分後、博士から調査完了の連絡が入った。麻美理沙が現在、杯戸町にあるコンビニ『サンセブン』でレジ店員として働いているという。
二人はすぐさま現場のコンビニへと急行した。店に入り、レジカウンターに立つ女性店員へ目を向ける。橋下から見せられた写真の人物、麻美理沙だった。
「……失礼ですが、麻美理沙さんですよね?」
圭人が穏やかに、かつ丁寧な口調で声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らし、警戒した視線を向けた。
「な、なんですか……? 私に何か……」
「驚かせてすみません。俺は毛利探偵事務所の者です。君を探してほしいという依頼を受けて参りました」
圭人が事情を説明すると、麻美は少しずつ肩の力を抜き、事情を話し始めた。
「ストーカー被害がひどくて、会社を辞めたんです。今は、ここで静かに働いているんですけど……」
「そうだったんですね。でも、電話もメールも通じないと聞いていたので心配しましたよ」
圭人の言葉に、麻美は申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません……。あのストーカー、執着が凄くて。だから、新しい番号とアドレスは家族と親友にしか教えていないんです。橋下課長に報告するのは、すっかり忘れていました」
「なるほど。どこから漏れるか分かりませんからね、お気持ちは分かります」
圭人は納得したように頷いた。
「あの……課長、怒ってませんでしたか?」
麻美が不安そうに尋ねると、今度はコナンが応えた。
「怒るどころか、凄く心配してたよ! 心配しすぎなくらいにね」
「そうですか……」
麻美はどこか複雑そうな表情を浮かべて俯いた。
圭人は、彼女の居場所を突き止めたことを橋下に報告してよいか尋ねると、麻美は了承した。
店を出た二人は、少し離れた場所で足を止めた。圭人はアストロウォッチではなく、自分のスマホを取り出し、橋下へ連絡を入れる。コナンにも内容が聞こえるよう、スピーカー設定にした。
「あ、橋下さん。麻美さんの居場所が分かりました。……はい、杯戸町のコンビニです」
『おお! 本当ですか! ありがとうございます!』
電話越しに、橋下の弾んだ声が響く。しかし、それに続いた言葉に、二人は顔を見合わせた。
『いやあ、良かった……。彼女が無事なら、一度くらい連絡をくれてもいいのに。何度かけても留守電なんですよ。本当に、心配させないでほしいなあ……』
電話を切った後、路地裏に沈黙が流れる。
「……イチ。今の聞いたよね?」
「ああ。麻美さんは『番号を変えた』と言っていた。なのに橋下さんは『何度かけても留守電になる』と言ってたな……」
「……繋がらないはずの古い番号に、執拗にかけてるってことだよね」
二人は橋下の歓喜の声に混じった、わずかな歪みに気づいていた。
「……今のまま報告を完了するのは、やめておいた方が良さそうだね」
「ああ。あの依頼人の裏、もう一度洗ってみる必要がありそうだな」
圭人とコナンは橋下の待つカフェへ戻る足を緩め、その違和感の正体を探るべく、視線を交わした。
圭人とコナンは再びコンビニの店内へと戻り、レジの麻美に声をかけた。
「麻美さん、すみません。もう一度だけ確認させてください」
圭人の改まった様子に、麻美は不思議そうに小首を傾げた。
「はい、何でしょうか」
「新しい番号とアドレス、本当に橋下さんには教えてないんですよね?」
「ええ、お伝えしていません。家族と親友だけです」
確信を持って頷く麻美を見て、コナンが懐から一枚のメモを取り出した。
「だとしたらおかしいよ、お姉さん。あの人、お姉さんの今の番号とアドレスを知ってたもん」
「え……?」
麻美が驚愕に目を見開く。コナンが差し出したのは、最初の面会で橋下からもらったメモだ。そこに記された文字列を確認した麻美は、顔から血の気が引いていくのがわかった。
「これ……私の、今の番号です。どうして……」
「橋下さんから、直接連絡はなかったんですか?」
圭人が問うと、麻美は震える指先で自分のスマートフォンを取り出した。
「課長からは……ありません。でも、今日だけで知らない番号から何度も着信があって……。課長の番号は登録してありますから、別の人だと思って出なかったんですけど……」
圭人とコナンは顔を見合わせ、声を潜めて状況を整理した。
「……イチ、これってつまり……」
「ああ。橋下と名乗ったあの男、麻美さんの新しい連絡先を知っていながら、繋がらないフリをして俺たちに居場所を特定させたんだ。自分の手は汚さずに、確実な現在地を……」
その時、圭人のスマホが震えた。画面には表示されない未知の番号。
「……はい、星野です」
電話に出た圭人の表情が、瞬時に険しくなる。
『あ、失礼。毛利探偵事務所の方からこの番号を伺いまして。私、橋下冬彦と申します。人探しをお願いしたくお電話したのですが……』