ヒーローと探偵 作:タルマヨ
東都現像所の秘密(前編)
「……えっ!? おばさん……?」
「か……母さんっ!?」
阿笠邸の重厚な門扉の前、月明かりに照らされた石畳の上で、圭人とコナンは文字通り石のように固まった。目の前には、つい先ほどまでロサンゼルスにいるはずだった女性――工藤有希子が、夜風にさらりと髪をなびかせ、映画のワンシーンのような完璧な笑顔で立っていた。
「あらあら、二人ともそんなに驚いちゃって。サプライズは大成功みたいね!」
有希子は弾んだ声で笑うと、呆然とする二人の背中を小気味よく叩き、なかば強引に邸内へと促した。
玄関を抜け、発明品の試作品が所狭しと並ぶ廊下を通ってリビングへ入ると、そこにはいつもの穏やかな光景があった。部屋の中央に置かれた大きな円形テーブル。その右側にある使い込まれたシングルソファには、灰原が腰を下ろし、厚手の専門書に目を落としている。その対面、散乱した配線コードの隙間に座っていた博士が、来客の気配に顔を上げた。
「おやおや、有希子さん。連絡もなしに一体どうしたんじゃ」
「こんばんは、博士! それに哀ちゃんも。夜遅くにごめんなさいね」
有希子は、この場にいる全員が「江戸川コナン」の正体を知っている身内であることを承知の上で、親愛を込めて挨拶を交わす。灰原は「相変わらず、嵐みたいな人ね……」と小さく吐息を漏らしながらも、栞を挟んで本を閉じ、丁寧に会釈を返した。
「有希子さん、本当になんでいきなり……。あ、すぐにお茶を淹れますね」
圭人が慌ててキッチンへ向かおうとすると、有希子はそれを制して、灰原の隣にある空いたソファに優雅な動作で腰を下ろした。
「いいのよ圭ちゃん、気にしないで。それより新ちゃん、ちょっとこっちに来て?」
「…たくっ…あんだよ?」
有希子はソファに座ったまま、傍らに立っていたコナンを手招きする。彼女はリビングの隅、灰原や圭人から少し離れた窓際へコナンを連れて行くと、周囲を気にしつつも、母親としての砕けた小声で話し始めた。
「ねえ新ちゃん。実は隣の工藤邸にいる『彼』……そう、赤井さんの変装チェックとメンテナンスを頼まれちゃってね。定期的な点検が必要でしょ? ついでに新ちゃんの顔も見に来たってわけ」
極秘の来日理由を聞かされたコナンは、納得しつつも眉をひそめた。
「なるほどな、昴さんの変装か。それなら納得だけど、だったら先に連絡しろよ。心臓に悪いだろ」
「もう、冷たいわねぇ。それでね……」
有希子はさらに声を潜め、甘えたような響きを混ぜて続けた。
「今夜は久しぶりに新ちゃんと水入らずで工藤邸で過ごしたいなーって思って。ママ、新ちゃん不足なのよ」
「はあ!? 何言ってんだよ、母さん!」
思わず素の声が漏れたコナンを、有希子は人差し指を唇に当てて制する。
「しーっ、声が大きいわよ! いいじゃない、たまには母親孝行してくれたって。蘭ちゃんには、博士の家に泊まるって電話一本入れれば済む話でしょ? ね? 新ちゃんお願い!」
往年の名女優による全力の「おねだり」を至近距離で浴びせられ、コナンは引き攣った顔で後退りした。
「……わーった、わーったよ。今夜だけだぞ。蘭には後で連絡しておくから」
「ふふ、決まり! さすが新ちゃん、大好きよ!」
有希子は満足げに立ち上がると、リビングの中央に戻り、博士と圭人に向かって宣言した。
「というわけで博士、新ちゃんは一晩借りていくわね! 圭ちゃんも、また明日ゆっくりお話ししましょう?」
嵐のような気配を纏ったまま、有希子はコナンの手を引いて、夜の帳が下りた阿笠邸を後にした。
芝生を横切り、隣接する工藤邸へと続く庭の小道を歩きながら、有希子は繋いだコナンの手を少し強めに引いて、弾んだ声で語りかけた。
「ねえ新ちゃん、さっきの圭ちゃん見た? 哀ちゃんを見る目が、もう完全にトクベツな感じだったわよねぇ。あんなに分かりやすいなんて、見てるこっちが照れちゃうわ」
有希子のニヤニヤとした視線に対し、コナンは心底呆れたようなジト目を向けた。
「……なんだよ、今更気づいたのか? 圭人の
「あら、新ちゃんも知ってたのね。でもあの哀ちゃんも、なかなか一筋縄ではいかなそうな子……。ふふ、面白いわねぇ」
有希子は、息子の呆れ顔などどこ吹く風で、明日にでもあのミステリアスな少女から色々聞き出してみようと心の中で密かな計画を立て、暗い玄関ホールで不敵に微笑んでいた。
一方、二人が去った後の阿笠邸では、リビングに穏やかで温かな夜の余韻が漂っていた。圭人は空になった入り口を見つめたまま、ソファに座る灰原の様子を伺う。灰原は再び本を手に取ろうとしたが、ふっと口角を上げた。
「……あの強引なところ、誰かさんにそっくりだわ。血は争えないわね、星野君」
その皮肉混じりの指摘に、圭人は思わず苦笑いを漏らした。
「確かに、あの自信に満ちた行動力はイチそっくりだ。有希子さんの息子だって、改めて納得しちゃうな」
「有希子さんは昔からああなんじゃよ」
博士が茶柱の立った湯呑みをすすりながら、懐かしそうに目を細めた。
「一度言い出したら聞かんところも、困った時の甘え上手なところもな。新一君が振り回されるのも無理はないわい」
有希子の来訪が、翌日どのような騒動を巻き起こすか、残された三人はまだ知る由もなかった。
翌日。
鮮やかな赤いボディを五月の陽光に輝かせ、アルファロメオ・ジュリエッタが都心の喧騒を縫うように疾走していた。
車内は、定員いっぱいの大人二人と子供五人の熱気で溢れかえっている。助手席に座る圭人は、山道を攻めるような有希子のドライビングテクニックに若干の冷や汗を流しながらも、時折バックミラー越しに見える後部座席の様子を気に掛けていた。
後部座席は、まさに「すし詰め」状態だ。運転席の真後ろに灰原、その隣に歩美、中央にコナン、さらに光彦、そして一番右側に元太という布陣である。
「いい、みんな! 今日観るのはね、関係者しか立ち入れない『仮面ヤイバー・ザ・ムービーⅡ』の初号試写よ! 感謝しなさいよね!」
ハンドルを握る有希子は、興奮気味に喋り倒していた。往年の名女優のオーラを隠しきれない彼女の横顔に、隣に座る歩美が感心したように声を弾ませる。
「ねえコナン君、コナン君のお母さんって、とっても綺麗で面白い人だね!」
歩美の無邪気な言葉に、中央にいたコナンが「げっ」という顔で身を乗り出した。
「……! だ、だから、お母さんじゃなくて、親戚のおばさんだって言ってるだろ……」
コナンの言葉が最後まで終わらぬうちに、バックミラーに映る有希子の両目が、スッと冷たく細められた。それはまさに「鬼の形相」と呼ぶに相応しい、静かながらも絶大な圧力を伴った視線。
「……じゃなくて、親戚の、お姉さん……だよ、ハハハ……」
引き攣った笑いで訂正するコナン。その様子を助手席から見ていた圭人が、苦笑いを浮かべてとりなすように口を開いた。
「有希子さん、あんまりいじめないであげてください。彼はただ、照れくさいだけですから」
「もう、圭ちゃんは優しいわねぇ。誰かさんも少しは見習ったらどうかしら?」
圭人の柔らかい声に、有希子の表情はようやく春の陽だまりのように和らいだ。
その圭人の立ち振る舞いを、後部座席の端で腕を組んでいた灰原が、冷徹なまでの観察眼でじっと見つめていた。助手席で有希子を巧みにいなす圭人の横顔。その静かな視線に気づいた有希子は、何も言わずに表情を微かに変え、バックミラー越しに意味深な笑みを浮かべてから前方へ視線を戻した。
やがてアルファロメオは、目的地である東都現像所の敷地内へと滑り込んだ。
車を降りた一行を迎えたのは、独特の薬品の匂いと、慌ただしく立ち働くスタッフたちだった。
「申し訳ありません、有希子さん。実は急なトラブルで作業が大幅に立て込んでいまして……。試写の開始は、かなり遅くなりそうです」
焼き付け担当の穂島朗が、申し訳なさそうに頭を下げた。横に立つ現像マンの根上慶彦も、抱えたフィルム缶の重みに耐えながら苦笑いを浮かべている。
「あら、そうなの? せっかくこの子たちを連れてきたのに残念だわ」
有希子は残念そうに肩をすくめたが、すぐに名案を思いついたように指を立てた。
「じゃあ、試写が始まるまでこの子たちに現像所の中を見学させてあげて。ね? お願いできるかしら」
有希子の頼みを快諾した穂島と根上に連れられ、少年探偵団の面々は巨大な現像機や複雑に絡み合うフィルムの山が並ぶ現像所内を見て回ることになった。
暗室の赤い光や、巨大なドラムが回転する音。子供たちは初めて見る映画の裏側に目を輝かせ、光彦などは熱心にスタッフへ質問を投げかけている。しかし、見学を一通り終えても、上映の気配は一向になかった。
結局、最終的なスケジュールが判明したのは、日が完全に応じた頃だった。本格的な試写が始まるのは、なんと夜の11時を過ぎるという。
「夜の11時って……それじゃ終わる頃には日付が変わっちゃうじゃねーか」
元太が大きなあくびを漏らしながら不満を口にする。
「明日は日曜日ですし、皆さんにも自慢できるでしょう。宜しければ、私のマンションで一泊していきませんか?」
穂島が申し訳なさそうに、しかし好意的に提案した。
「現像所のすぐ近くですし、試写が終わったら私が車で責任を持って送りますよ」
有希子はその提案に、「助かるわぁ、じゃあ甘えちゃおうかしら」と二つ返事で承諾した。彼女自身、今夜のうちに空港へ向かい、ロサンゼルスへ戻らなければならない時間が迫っていたのだ。有希子は空港への出発時間が刻一刻と迫っていることを腕時計で確認すると、アルファロメオの運転席から「ちょっと、二人とも!」と手招きをして、コナンと圭人だけを窓際に呼び寄せた。
「圭ちゃん、いい? 恋っていうのはね、押して引いて、最後にガツンと行くものよ。あのミステリアスな哀ちゃん、意外と隙があるかもしれないわよ?」
有希子が身を乗り出して耳打ちすると、圭人は一瞬で顔を赤くし、困ったように視線を泳がせた。
「……えっ!? いや、有希子さん、何の話ですか……」
「あら、トボけちゃって。あんなに熱い視線をもらっておきながら、気づかないフリは罪作りなんだから」
クスクスと悪戯っぽく笑う有希子に対し、圭人はタジタジになりながらも、「そんなんじゃないですから」と小声で返すのが精一杯だった。
有希子は満足げに頷くと、今度は隣に立つコナンへと視線を移した。子供たちの耳に入らないよう、細心の注意を払いながら声を落とす。
「いいわね? みんなのこと、ちゃんと頼んだわよ。……それと、あんまりヤキモチ焼かないこと!」
「バーロ、早く行かねーと飛行機に間に合わねーぞ。さっさと行けよ」
呆れた顔で追い払うような仕草を見せるコナン。有希子はそのぶっきらぼうな返事に「はいはい」と軽く手を振ると、軽快なエンジン音を響かせた。
「じゃあね、みんな! 良い子にしてるのよー!」
赤いスポーツカーは鮮やかな排気音を夜の空気に残し、一人で現像所を後にして空港へと走り去っていった。
有希子を見送った後、圭人と少年探偵団は穂島に導かれて、彼の自宅マンションへと移動した。
「ここですよ。さあ、遠慮しないで入ってください。まあ、独り身の男の部屋ですから、少しばかり散らかっていますが……」
穂島が玄関の鍵を開けて一行を招き入れたが、その瞬間に全員が玄関先で硬直した。
「……うわぁ、足の踏み場もねーな」
元太が顔をしかめて零した通り、リビングは資料、フィルム、食べかけの容器、そして用途の不明な機材が所狭しと散乱しており、お世辞にも片付いているとは言い難い惨状だった。
室内には、既に営業担当の古村徳宏と、タイミングマンの唐田敬善も合流していた。
「おいおい、そんなに驚くなよ。これは俺の生きた証、日常の記録なんだからな」
古村はそう言ってニヤリと笑うと、片手に持った家庭用ビデオカメラを子供たちに向けた。どうやら日記代わりに四六時中、周囲の様子を回し続けているらしい。
あまりの散らかり様に困惑しつつも、深夜ということもあり、一同は早々に就寝の準備を整えた。
リビングのソファーでは、主人の穂島と古村がそのまま横になり、寝室の大きなベッドには歩美、灰原、コナン、光彦、元太の五人が川の字になって潜り込んだ。
圭人はベッド横のわずかなスペースに、押し入れから出された古い布団を敷き、床で眠ることにした。
「圭人兄ちゃん、そこ狭くねぇか?」
「大丈夫だよ。これくらいなら慣れてるからね。元太、お前らこそしっかり寝るんだぞ」
圭人は子供たちに柔らかく微笑むと、壁のスイッチへ手を伸ばした。
「じゃあ、おやすみ。みんな」
「おやすみなさい、圭人さん!」
光彦の丁寧な挨拶を最後に、部屋の明かりが落ちた。
古村はビデオカメラを回したまま、テーブルの上にレンズを固定して眠りについた。ファインダーの小さな光だけが、暗いリビングで静かに点滅している。
深夜。
静寂が支配するマンションの室内に、突如としてリビングの方から何かが押し殺されたような、重苦しい断末魔が響き渡った。
「ぐぁっ……!」
「な……何だっ!?」
真っ先に跳ね起きたのはコナンだった。その鋭い動きに呼応するように、床で眠っていた圭人も即座に身を起こす。
二人は暗闇の中で一瞬だけ目配せを交わすと、まだ眠っている他の子供たちを起こさぬよう、音を立てずに寝室を抜け出し、リビングへと駆け込んだ。
コナンが壁のスイッチを叩くように入れる。
眩い光がリビングを照らし出した瞬間、二人の視界に飛び込んできたのは、あまりにも凄惨な「死」の光景だった。
ソファーの上で、古村徳宏が胸に包丁を深く突き立てられた状態で仰向けに倒れている。
先ほどまで不敵に笑っていたその顔は、今や苦痛に歪み、既に生気の欠片も失われていた。