ヒーローと探偵   作:タルマヨ

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東都現像所の秘密(後編)

 眩いばかりのリビングの光の下で、古村徳宏の遺体は静かに、しかし強烈な違和感を放って横たわっていた。

「……そんな……」

「さ、殺人ですか!?」

歩美が短く悲鳴を上げ、光彦が驚く。寝室から出てきた子供たちがその光景に立ちすくむ。圭人は咄嗟に、視界を遮るように歩美たちの前に立った。

「みんな、見ちゃダメだ。部屋の隅に固まってるんだ」

その声は低く、落ち着いていたが、事態の深刻さを子供たちの心に刻み込んでいた。

コナンは既に遺体の傍らに跪き、鋭い視線で周囲を観察している。

「圭人、オメーはどう思う?この部屋は……」

コナンの言葉に、圭人も視線を巡らせた。

足の踏み場もないほどに散らかった床。空き缶や古い雑誌、機材のコードが網の目のように張り巡らされている。

「うん…電気を消せば一寸先も見えない暗闇だ。これだけ物が散乱してれば、普通に歩くだけで何かを倒したり、音を立てたりするはずなのに……」

コナンは声を潜め、圭人にだけ聞こえるトーンで言葉を継いだ。

「そうなんだよな。隣の部屋にいたけど、犯人が逃げる音なんて一度も聞こえなかった。それに……」

視線の先には、テーブルの上に固定されたビデオカメラがある。

「このカメラ、ずっと回ってたんだ。もしこれにも逃走音が残ってないとしたら、犯人はこの状況で『音を立てずに犯行を終えて逃げた』ことになる。……そんなの、俺には不可能に思えるぜ」

「同感だ。イチ……このゴミの山そのものが、犯人を守る障壁になってる」

二人は一瞬だけ視線を交わし、この「音の消えた密室」の謎を共有した。

 

ほどなくして、通報を受けた警視庁捜査一課の一行が到着した。

「やれやれ、また君たちかね……」

重々しい足取りで現れた目暮警部は、現場にいる圭人とコナンの姿を見て深いため息をついた。その横では高木刑事が手帳を広げ、神妙な面持ちで現場検証の指示を出している。

「目暮警部、被害者は古村徳宏さん。死因は鋭利な刃物による刺創です。争った形跡はほとんどありませんが、不可解な点が多くて……」

高木刑事が報告する間も、鑑識員たちが散らかった部屋に苦労しながら足場を確保し、証拠を採取し続けていた。

事情聴取のため、マンションにいた3人のスタッフがリビングに集められた。

部屋の主である穂島朗、タイミングマンの唐田敬善、そして現像マンの根上慶彦。

「いいですか皆さん、この状況で犯行が可能だったのは、ここにいたあなた方しかいないんです」

目暮警部が鋭い視線を向ける。特に唐田は予備の合鍵を持っており、根上も仕事の関係で自由に出入りできる立場にあった。

「そんな、馬鹿な! 俺たちが古村を殺すわけないでしょう!」

根上が声を荒らげたが、高木刑事がそれを遮るように一歩前に出た。

「ですが、皆さんには動機があるはずです。……先日完結した映画『親バカ日記』。そのフィルムチェックの際、古村さんが致命的な傷を見逃したせいで、大事なシーンが台無しになったと聞きました」

その言葉が出た瞬間、3人の顔色が明らかに変わった。

「……あの傷のせいで、俺たちのこれまでの苦労が全部水の泡になったんだ」

穂島が、絞り出すような声で呟いた。

「フィルムを焼き付ける俺も、色を調整する唐田も、現像する根上も……全員が心血を注いだ作品だった。それをあいつは、たった一度の不注意で、しかも悪びれもせずに……!」

「あいつは『たかが映画だろ』って笑ったんだ!」

唐田が拳を握りしめ、ソファーに横たわる遺体を睨みつける。

「俺たちの職人としてのプライドを、あいつは踏みにじったんだよ……」

3人の古村に対する恨みは、警察の想像以上に深いものだった。

「動機は十分。そして現場は、外部からの侵入が極めて困難な状況……」

目暮警部は腕を組み、唸るように言った。

「しかし、このゴミの山の中で音も立てずに移動し、犯行に及ぶなどということが、果たして人間に可能なのか……?」

コナンは壁に寄りかかり、3人の容疑者の表情を観察していた。

(誰もが殺したいほどの憎しみを持っていた。だけど、この『音の壁』をどうやって越えたんだ?…何か、見落としてるんだ。この部屋の散らかり方、それ自体に意味があるのか、それとも……)

現場に漂う重苦しい沈黙。

その中で、古村が回し続けていたビデオカメラのタイマーだけが、静かに、そして残酷に時を刻み続けていた。

 

 

深夜の静寂に包まれたリビングで、コナンは一人、遺体の周囲を這うようにして観察を続けていた。警察や他の大人たちが動機や合鍵の有無に気を取られる中、その目はわずかな物理的矛盾を捉えていた。

(……おかしい。古村さんのシャツの第3ボタンが外れてる。寝ている間に外れたにしては不自然だ)

コナンは目を細めた。さらに、現場検証の合間に確認したマンションの防犯カメラの記録。そこには、数分の、だが決定的な時間のズレが生じていた。

(犯人は分かった……。あのゴミの山を音を立てずに移動し、犯行を終えて戻る唯一の方法。だけど、今のままじゃあの人を追い詰める決定的な証拠が足りねぇ……)

コナンは密かに携帯電話を取り出し、阿笠博士へ連絡を入れた。

 

 

 

 

数十分後。マンション下の駐車場に、見慣れた黄色いフォルクスワーゲン・ビートルが滑り込んできた。

現場での一時的な聴取を終えた圭人と灰原、そして眠い目をこする探偵団の3人は、一旦博士の車まで降りてきていた。

「ふわぁ……。もう眠くて限界だぞ……」

元太が大きなあくびをしながら後部座席に倒れ込む。光彦と歩美もそれに続くようにして、座席に体を預けた。深夜1時を回った静寂の中、子供たちはビートルの柔らかなシートに包まれると、瞬く間に再び深い眠りへと落ちていった。

「……お疲れ様。星野君、相当疲れているみたいね」

後部座席から、静かな声が届いた。助手席に深く腰掛けた圭人がバックミラー越しに目を向けると、そこには眠る歩美たちの隣で、一人静かにこちらを見つめる灰原の姿があった。

「うん……。一昨日の戦いが、思ったより体にきてるみたいだ。……悪い、今回は全てイチに任せることにして、俺は少しここで身体を休ませてもらうよ」

圭人はシートに身を預け、ゆっくりと目を閉じた。助手席の窓の外では、街灯が寒々しく駐車場を照らしている。

 

車内には、子供たちの規則正しい寝息だけが響いていた。しばらくの沈黙の後、圭人がふと思い出したように、極めて低い、後ろの灰原にしか聞こえない声で口を開いた。

「……なぁ、志保さん」

「……何かしら?」

「そろそろ……俺のことも、下の名前で呼んでくれない?」

圭人の唐突な、しかしどこか切実な提案に、灰原は表情を変えず、窓の外を見つめたまま答えた。

「お断りするわ」

「えっ……!?」

予想外の即答に、圭人は驚いて目を見開き、座席越しに後ろを振り返った。

「な、なんで?。もう結構長い付き合いだし、俺は君のことをこうして呼んでるのに……」

「まだ、ハッキリとは貴方の気持ちを聞かせてもらってないからよ」

灰原の琥珀色の瞳が、真っ直ぐに圭人を射抜いた。その冷徹なまでの冷静さの裏にある熱量に、圭人は完全に気圧される。

「それは……その……。二人きりになるタイミングがないというか、なんていうか……」

キョドりながら視線を泳がせる圭人に、灰原はふっと小さく溜息をついた。

「……じゃあ、無理ね」

「う……」

言葉に詰まった圭人は、ハンドルを握る博士がいない車内で、ただただ沈黙するしかなかった。

 

 

 

 その頃、マンションの穂島の部屋では、到着した博士が目暮警部たちの前で、ゆっくりと言葉を紡いでいた。

「目暮警部、ワシなりにコナン君から聞いた話を整理してみたんじゃが……」

博士は散らかった室内を見渡し、確信を持った口調で続けた。

「何度考えても、これだけ物が溢れた場所で、暗闇の中を物音一つ立てずに移動できるのは、普段からここで生活しておる穂島さん以外には考えられんのじゃよ」

「なんですと、阿笠さん!? 確かに、この惨状では初見の者が音を立てずに動くのは至難の業ですが……」

目暮警部は唸るように顎に手を当てた。

「そうじゃ。配置を完璧に把握しておる主ならば、可能かもしれん。……となると、やはり疑わしいのは彼という事になるかのう」

博士の推理を聞いた目暮警部は、決断を下したように高木刑事へ向き直った。

「……よし、高木君。穂島さんを署まで同行させてくれ。もう少し詳しく、当時の状況を聴く必要がある」

「は、はい! 穂島さん、申し訳ありませんが、ご同行願えますか?」

「待ってください! 俺はやってない、本当に知らないんだ!」

焦燥に駆られた穂島が叫ぶが、警察の包囲網は彼を逃がさなかった。

「……やれやれ、決着がついたようですね」

唐田と根上が安堵の息を漏らす中、部屋にいた全員が穂島を追うようにして、次々と部屋を後にしていった。

静まり返った殺害現場の部屋。

主を失った散らかり放題のリビングに、ただ一つ、古村のビデオカメラだけが、無機質なレンズで誰もいない空間を見つめ続けていた。

 

 

 

 

 

穂島が連行され、静寂が戻ったはずの暗いリビング。

そのわずかな隙間から、何者かが忍び寄る気配が漂った。

カサッ……ガチャン!

暗闇の中、忍び込んだ人影が焦ったように足元の物を蹴り飛ばす音が響く。

「……っ!? な、なんだ、配置が変わって……」

人影が狼狽した声を上げたその瞬間、カチリと乾いた音がして、部屋の照明が一斉に灯された。

〈……やはり、あんたじゃったか〉

光の中に浮かび上がったのは、厳しい表情で立つ阿笠博士、そして目暮警部と高木刑事の姿だった。光をつけた高木刑事が、鋭い視線を入り口へ向ける。

そこに立ち尽くしていたのは、現像マンの根上慶彦だった。その手には、古村の遺体から失われていたはずの第3ボタンが握られている。

「な、なぜここに……。穂島さんは連行されたんじゃ……」

「それはこちらの台詞ですよ、根上さん」

高木刑事が一歩踏み出す。根上は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。

博士が静かに口を開く。だが、その背後ではコナンが身を潜め、蝶ネクタイ型変声機を博士の声に調整していた。

〈根上さん、あんたがここへ来たのは、遺体のシャツからむしり取ってしまった第3ボタンを、こっそり戻すため……。そうじゃな?〉

「な、何を言って……! 俺はただ……」

〈言い逃れはできんわい。あんたは事前にこの部屋の要所に、小さな蛍光テープを貼っておった。暗闇の中でも自分だけが道標として使えるようにな。だが、ワシらが事前にわざと物の配置を少しずつ動かしておいたおかげで、あんたの計算は狂った……。先ほど立てた物音が、その証拠じゃよ〉

目暮警部と高木刑事が驚きの声を上げ、部屋の隅々を確認する。

「あ、阿笠さん、本当だ! コードの影や棚の角に、微かなテープの跡が……!」

〈さらにその上には、黒いビニールテープが重ねて貼ってある。こうして光を極限まで抑えんと、暗室で作業する際にフィルムが感光してしまうからのう。あんたらしい、職人ゆえの工夫というわけじゃ〉

博士(コナン)の推理は止まらない。

〈あんたは古村さんの第3ボタンに蛍光塗料を塗っておき、彼が眠っている隙にその光を目印にして胸を一突きにした。逃走の際も、自分にしか見えぬ光の道筋を辿ったからこそ、物音一つ立てずに隣室の者たちを欺くことができた。ビデオカメラに逃走音が残らなかったのも、当然のことじゃな〉

「……っ!」

根上は力なく膝をついた。手から零れ落ちた第3ボタンが、フローリングに虚しい音を立てて転がる。

「……あいつが……あいつの不注意が、俺たちの『親バカ日記』を……一生に一度の傑作を台無しにしたんだ。あいつはヘラヘラ笑って……俺たちのプライドを、踏みにじったんだよ……!」

復讐の念に駆られた男の慟哭が、散らかった室内に虚しく響き渡った。

「根上慶彦さん……署までご同行願います」

目暮警部の沈痛な声と共に、根上には手錠がかけられた。

 

 

 

 

 

未明。

事件が解決し、ようやく解放された一行を乗せて、博士のビートルが夜の街を走り出した。

車内には、重苦しい空気が流れていた。

後部座席では、ようやく深い眠りから覚めきらない様子の元太、光彦、歩美が体を寄せ合っている。

「……星野君、大丈夫?」

灰原が、助手席で窓の外をじっと見つめている圭人に声をかけた。圭人は少し肩を震わせ、力なく答える。

「ああ……。ちょっと、考え事してただけだよ」

圭人の声はどこか余所余所しく、視線を合わせようとはしない。

そんな二人の様子をバックミラー越しに見ていたコナンが、怪訝そうに口を開いた。

「……なぁ灰原。オメーら、なんかあったのか?」

「別に……」

灰原はそっけなく窓の外へ顔を背けた。

「俺も……別に何でもない」

圭人もまた、反対側の景色を見つめたまま、それ以上言葉を発することはなかった。

真実を追い求める名探偵でも、目の前の二人の間に流れる微妙な「気まずさ」の正体までは、解き明かせないようだった。

ビートルは、静かな夜の闇を切り裂きながら、それぞれの家へと向かって走り去っていった。

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