ヒーローと探偵 作:タルマヨ
美術館に渦巻く陰(前編)
春の柔らかな陽光が、東都美術館の巨大なガラスカーテンウォールを透過し、大理石のロビーに幾何学的な影を落としていた。
平日の午前中ということもあり、館内は静まり返っている。天井の高いロビーには、時折、来館者の靴音がコツコツと反響するだけで、それがかえって芸術の殿堂らしい厳かな雰囲気を演出していた。
だが、その静寂を真っ向から切り裂くような声が、エントランスに響き渡る。
「――なあ、まだ着かへんのか? さっきから似たような絵ぇばっかり並んでて、俺はもうお腹いっぱいやで」
平次は後頭部で両手を組み、首を左右に鳴らしながら退屈そうに大きな欠伸を噛み殺した。その視線の先には、まるで宝の地図でも見ているかのように熱心にパンフレットを読み耽る和葉がいる。
「もう、平次は分かってへんなぁ! 今日は浮世絵の特別展なんやで? 普段は蔵の中に眠ってるような、江戸時代の鮮やかな色彩がそのまま残った貴重な版画が来てるんやから。しっかり目に焼き付けとき」
「版画ぁ? 学校の授業で彫刻刀持って指切りそうになりながら彫ったアレか? そんなんやったら、俺は近所の道場で行われてる稽古を見とる方がよっぽど有意義やわ。竹刀のぶつかる音の方が、この静まり返った場所よりよっぽど落ち着くしな」
「なっ……! せっかく蘭ちゃんたちが誘ってくれたのに、何ちゅう言い草や! 圭人君もそう思うやろ?」
和葉に話を振られた圭人は、困ったように眉を下げ、苦笑いしながら二人の間に割って入った。
「ま、まぁ…和葉さん。平次もきっと、こういう静かな場所より体を動かしている方が性に合ってるんだろうね。でも、この美術館の建物自体も有名なんだよ。光の取り入れ方とか、歩いているだけで少し心が穏やかになる気がしない?」
圭人は穏やかな口調で和葉を宥めつつ、隣で所在なげに周囲を観察していた少年に視線を送った。コナンは大人たちの会話を聞き流しながら、無意識のうちに館内の監視カメラの位置や、防火扉の配置、さらには避難経路の図面を確認していた。探偵としての習性が、平和な美術館ですら彼を休ませてはくれない。
圭人の視線に気づいたコナンは、慌てて「あはは……」と子供らしい無邪気な笑顔を作り、声を弾ませた。
「そうだよ、平次兄ちゃん! この後の特別展、もしかしたら教科書にも載ってないような、面白い仕掛けがあるかもしれないよ?」
「仕掛けぇ? ボウズ、お前それ、……なんか事件の匂いでもするって言いたいんか?」
平次は屈み込み、コナンの耳元でニヤリと不敵な笑みを浮かべた。その瞳には、退屈を紛らわせるためのスリルを期待する、危険な光が宿っている。
「んなわけねーだろ。滅多なこと言うなよな……」
コナンは半目になり、声を潜めて返した。この西の探偵は、隙があればすぐに自分を「工藤」と呼びそうになるから油断できない。すぐ隣に蘭や和葉が並んで歩いているこの状況では、一つの言い間違いが致命傷になりかねないのだ。
幸いなことに、同じく正体を知っている圭人が「まあまあ」と間に入ってくれているおかげで、今のところ蘭たちに怪しまれる様子はない。圭人は、平次の不用意な発言を未然に防ぐクッションの役割を果たしながら、さりげなく蘭たちの意識を展示物の方へ向けさせ、探偵二人が密談できる隙間を作ってくれていた。
「もう、服部君ったらすぐそうやってコナン君をからかうんだから」
蘭が呆れたようにため息をつき、コナンの頭を優しく撫でた。
「和葉ちゃん、気にしなくていいよ。服部君は照れ隠しで言ってるだけだと思うし。……ね、圭人?」
「うん、そうだね。平次はああ見えて、和葉さんが楽しそうにしているのを見るのは嫌いじゃないはずだよ。口では文句を言いながらも、ちゃんと最後まで付き合うのが彼なりの優しさなんじゃないかな」
「な、ななな……! 星野、お前余計なこと言うなや!」
図星を突かれたのか、平次の顔がわずかに赤らむ。だが和葉は「また圭人君は平次を買い被りすぎやわ!」とプイッと横を向いてしまい、その表情の変化には気づかない。
一行は賑やかな――というよりは、平次と和葉の漫才のようなやり取りを背景に、展示室へと続く長い廊下を進んでいった。壁には現代アートの巨匠たちの作品が並んでいるが、和葉の目的はあくまでその先にある『浮世絵特別展』が開催されている第二展示室だ。
だが、目的の展示室の入り口が見えてきたとき、一行の歩調は自然と緩まり、やがて完全に停止した。そこには、美術館の静謐な空気とは明らかに異質な、どす黒く停滞した緊張感が漂っていたからだ。
展示室の重厚な扉の前で、一人の女性が立ち尽くしている。30代半ばほど、知的な眼鏡をかけたその女性――久保田奈緒は、学芸員の制服の襟元を掴むようにして震えていた。その顔は、まるで血の気が一滴も残っていないかのように蒼白で、唇は小刻みに震えている。
「……ええ、そうです。至急、館長と警備室に連絡を……。それから、警察にも……! 一刻を争います、早く……!」
彼女の手にある無線機からは、ノイズ混じりの焦燥した声が漏れ聞こえていた。その言葉の端々に含まれる「警察」という単語に、現場にいた二人の探偵のセンサーが鋭く反応する。
「おい、どないしたんや。何かあったんか?」
平次が鋭い目つきで久保田に歩み寄る。その動きに呼応するように、コナンもまた子供のフリをかなぐり捨てて彼女の傍らに立った。
「あ、あの……お客様、ここは現在……立ち入りを制限させて……」
久保田は驚き、必死に二人を遠ざけようとしたが、平次の放つ圧倒的な威圧感と、開いた扉の隙間から漂ってくる「死の気配」に気圧され、言葉を失った。
「ええから! 中で何が起きてるんや!」
平次が強引に扉を押し開ける。その瞬間、展示室内の高度に管理された冷ややかな空気が、一気に廊下へと流れ出した。部屋の中央。江戸時代の名品たちが壁を彩るその空間で、一人の男が不自然な形で床に転がっていた。
「ひっ……!」
和葉が短い悲鳴を上げて蘭に抱きつき、蘭もまた息を呑んでその光景を凝視する。倒れていたのは、この美術館の上席学芸員、田端誠一だった。50代半ばの、普段は厳格な面持ちで知られていたであろうその顔は、今は見る影もなく歪んでいる。見開かれた瞳は天井の一点を見つめたまま固まり、そこにはもはや何の知性も宿っていない。
「……死んでる」
コナンが真っ先に遺体に駆け寄り、膝をついた。迷いのない手つきで首筋の頸動脈に指を触れる。指先に伝わるのは、脈動ではなく、石のように冷たい無機質な感触だった。瞳孔の状態、四肢の硬直具合――。短時間で、コナンはその遺体がすでに「物体」と化していることを悟った。
「コナン君! ダメよ勝手に入っちゃ!」
蘭が慌てて声をかけるが、コナンはその制止を無視し、遺体の周囲に視線を走らせた。
「蘭姉ちゃん、警察に連絡して! それと、誰もこの部屋に入れないで!」
子供とは思えぬ鋭い指示に、蘭は一瞬気圧されたが、すぐに頷いて携帯電話を取り出した。平次もまた、コナンの隣に立ち、部屋の隅々までを鷹のような目で見渡した。
「……工藤、これ見てみぃ。扉は電子ロックに加えて、この手動の補助錠までかかってた。久保田さんがスペアキーで開けるまで、内側からも外側からも密閉されとったはずや」
平次が示したのは、扉の重厚なボルト部分だった。外部からの侵入はもちろん、内部からの脱出もまた、高度な認証がなければ不可能な構造。
「ああ……。完全な密室だ」
コナンが低く応じる。浮世絵の傑作たちに囲まれた贅沢な展示室は、今や逃げ場のない冷酷な檻へと変貌していた。圭人は、入り口付近で騒然とするスタッフたちを落ち着かせながら、ふと展示室の奥に視線を向けた。なぜだろうか。遺体があるからというだけではない、この空間全体から放たれる、ねっとりとした「禍々しさ」を、肌を刺すような感覚で覚えていた。
「(……この感じ…なんだ?)」
圭人は独り言ち、無意識に左腕をさすった。やがて、遠くからサイレンの音が近づいてくる。東都美術館の静かな朝は、終わりを告げた。
「……また君たちかね」
数十分後、現場に到着した目暮警部は、遺体の傍らで既に床を這いつくばるように観察していたコナンと平次を見下ろし、深い溜息をついた。その隣では、高木刑事が手帳を片手に苦笑いを浮かべ、佐藤刑事が鋭い視線で現場の保存状態を確認している。
「あ、警部はん」
平次は帽子をくるりと回して被り直し、悪びれる様子もなく片手を挙げた。
「服部君、君はまた大阪からわざわざ事件を呼び寄せにきたのかね? 毛利君がいないと思えば、今度は君か……。東都美術館が泣いているよ」
「そんな言い方せんといてくれや。俺らも被害者なんやから。和葉が楽しみにしてた特別展を見に来たら、これやからなぁ。それに、東京におるんはちょっとした用事があっただけで……」
「警部さん、お久しぶりです」
一歩引いたところで状況を見守っていた圭人が、丁寧な礼と共に目暮警部に挨拶をする。
「おお、星野君も一緒だったか。……まあ、君がいてくれるなら少しは安心だが、現場を荒らさないように彼らを見張っておいてくれよ」
目暮警部はそう言いながらも、平次の探偵としての腕は重々承知している。東京の管轄外とはいえ、高校生にして数々の難事件を解決してきた彼を追い出すことはせず、事実上の捜査同行を黙認する形となった。
「ま、警部はん! 期待に応えて、さっさと犯人を挙げてみせますわ」
平次が不敵に笑う。その隣で、コナンは既に高木刑事の背後に回り込み、鑑識が撮影している写真や、遺体の状況を盗み見ていた。
「高木刑事、被害者の田端さんって、いつからここにいたかわかる?」
「え、あ、コナン君。……まだ詳しいことは調査中だけど、学芸員の久保田さんの証言だと、昨日の閉館準備の時にはまだ生存が確認されていたみたいだよ。今朝、彼女が展示室の最終チェックに来た時に発見されたんだ」
高木刑事は、いつものようにコナンの質問に自然と答えてしまう。佐藤刑事がそれに気づき、腰に手を当てて口を開いた。
「高木君、あまり外部の人に情報を漏らしちゃダメよ? ……まあ、この子たちに関しては今更かもしれないけど」
佐藤刑事は少し呆れたような、それでいてどこか信頼を寄せているような表情でコナンと圭人を見た。
「さあ、まずは関係者の事情聴取から始めるわよ。目暮警部、容疑者候補を別室に集めてあります」
佐藤刑事の声に促され、現場には重苦しい静寂と、これから始まる「嘘の暴き合い」への緊張感が満ちていった。