ヒーローと探偵   作:タルマヨ

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美術館に渦巻く陰(後編)

 東都美術館の会議室は、臨時の取調室へと変貌していた。

窓から見える春の穏やかな景色とは裏腹に、室内には張り詰めた空気が漂っている。目暮警部を中心に、高木刑事、佐藤刑事が容疑者たちの証言を精査していく中、平次、コナン、そして圭人もまた、その言葉の裏に潜む綻びを探っていた。

まず口を開いたのは、第一発見者でもある学芸員の久保田奈緒だった。

「……昨日は、特別展の最終チェックを終えて、定時の18時には退勤しました。その後は自宅に戻り、ずっと一人で……。田端さんには大変お世話になっていたのに、まさかあんなことになるなんて……」

眼鏡を指で押し上げながら、彼女は力なく首を振った。続いて、警備員の三沢隆が、がっしりとした体を縮こまらせて証言する。

「自分は閉館後の20時に全館の最終巡回を行いました。遺体があった展示室はもちろん、その隣の準備室もルートに含まれていましたが、その時は異常ありませんでした。扉の施錠も、ライトでの確認も怠っていません」

「20時の巡回で異常なし、か……」

目暮警部が手帳に書き留める。その隣で、画廊オーナーの桐島雅人が、不快そうに腕を組んで付け加えた。

「私は閉館の少し前、17時半頃まで田端さんと打ち合わせをしていました。話し合いが終わった後は、そのまま館を出て馴染みの店で食事をしていましたよ。学芸員の方なら、私が出ていくのを見ているはずだ」

久保田が小さく頷き、桐島のアリバイを補完する。最後に残されたのは、どこかの高校の制服を着た海江田弦と西村朋子の二人だった。

「俺たちは今朝、開館と同時に入ったんだ。特別展を楽しみにしてたからさ……。でも、展示室に入ろうとしたらあの学芸員さんが青い顔して震えてて……」

「そうなんです。中を見る前に騒ぎになっちゃって……。警察の方、私たちもう帰ってもいいんでしょうか?」

不安げな様子の高校生たちに、目暮警部は「もう少しだけ協力してくれ」と宥めた。

一通りの聴取を終え、廊下に出た探偵たちは、手に入れたパズルのピースを脳内で並べ替えていた。

「おい工藤、どない思う? 全員それらしいことは言うとるが……」

平次がコナンの耳元で低く囁く。周囲に警察や和葉たちがいないことを確認し、コナンは眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。その口調からは、先ほどまでの子供っぽさは完全に消え去っている。

「……まだ足りねーな。特に、あの完璧すぎる密室の謎が解けねー限り、誰が犯人でもおかしくねーよ」

 

 

 

二人は目暮警部達、警察の隙を見て、再び現場である展示室へと足を踏み入れた。圭人もまた、静かにその後に続く。鑑識の作業が一段落した室内は、依然として冷ややかな空調の音が一定のリズムで響いていた。

平次はまず、遺体が横たわっていた周辺の床に這いつくばった。

「(……ん? なんや、この傷……)」

細心の注意を払いながら、床面にライトを当てる。滑らかなフローリングの表面に、肉眼では見落としてしまいそうなほど微細な擦り傷が、数本並行に走っていた。

「なあ工藤、この傷……遺体を引きずった跡とちゃうか」

平次の呼びかけに、コナンはその傷を凝視して頷いた。

「ああ。引きずられた後に、不自然な力が加わった跡だ。それに服部、靴の向きを見てみろ。仰向けに倒れたんなら、つま先はもっと自然に外を向くはずだ。それがまるで何かに引っ張られたみてーに揃ってる……。これ、死体を動かした後にポーズを整えた跡じゃねーな」

「確信犯やな。だが、もっと妙なことがあるで。この部屋の室温や」

「ああ、そいつは俺も気になってた。この展示室、美術品保護のために空調がかなり低く設定されてるよな?」

コナンは遺体の首筋や手首の状態を改めて確認し、確信を得たように言葉を続けた。

「……死後硬直の進み方がおかしい。この室温なら、もっとゆっくり進むはずなんだ。なのに、今の被害者の状態は……もっと気温が高い環境で死んでいた場合の進み方と一致してる」

「っちゅうことは、何や。田端さんはこの寒い展示室やのうて、別の温かい場所で殺されたってことか?」

「ああ、まず間違いねーよ。犯人は別の場所で殺害した後、わざわざこの密室の展示室まで遺体を運び込んだんだ」

二人の視線が、自然と壁一枚隔てた「隣の部屋」へと向けられる。展示室に隣接し、空調の設定が一般エリアと同じになっている場所。

「……準備室、か」

圭人が二人の思考を先読みするように呟いた。コナンと平次は力強く頷き、次なる目的地へと足を進めた。

 

 

展示室に隣接する準備室。そこは、新たな展示品の梱包を解いたり、輸送用のケースを一時的に保管しておくための、窓のない無機質な空間だった。一見すれば整然としたその部屋に足を踏み入れた瞬間、コナンの鼻腔が微かな「違和感」を捉える。

「……服部、感じるか?」

コナンが足を止め、低く囁いた。平次もまた、鼻をひくつかせて周囲の空気を探る。

「ああ。……微かに洗剤の匂いが残っとる。それも、家庭用やない、業者か何かが使う強力な塩素系のやつやな」

コナンは眼鏡のブリッジを押し上げ、四つん這いに近い姿勢で床を睨みつけた。大型の作業机の下、光の反射がそこだけ僅かに歪んでいる。ワックスをかけたばかりのような不自然な光沢が、机の脚の付け根付近に集中していた。

「見ろよ。……何かを強引に拭き取った跡だ。モップをかけたにしては、力が入りすぎてワックスの層が周囲より薄くなってる。おそらく、拭き取りきれなかったルミノール反応が出るはずの代物だな」

「へっ、掃除が行き届いとる部屋やと思ったら、逆にそこだけ不自然っちゅうわけか。犯人、よっぽど焦っとったんやろな」

平次はコナンの見つけたポイントから視線を外し、今度は部屋の隅、積み上げられた輸送ケースの背後にライトの光を差し込んだ。埃が溜まりやすいはずの巾木(はばき)の僅かな隙間に、肉眼では見落としてしまいそうな「異物」が挟まっている。

「工藤、こっちや。……何かが挟まっとるぞ」

平次がピンセットで慎重に摘み上げたのは、極めて細く、鈍い光を放つ銀色の繊維――金属の微細なくずだった。

「これ……ワイヤーの表面が擦れて剥がれたカスや。それも普通の梱包用やない、特殊な細工が施された強化ワイヤーのもんやな」

「……決まりだな。犯人はこの準備室に被害者を呼び出し、背後からこのワイヤーで……。そのあと、展示室のあの床の傷を作りながら遺体を移動させたんだ。硬直の進み方の違いも、この部屋が一般エリアと同じ空調設定だから説明がつく」

二人の推論が、冷徹な論理(ロジック)を伴って積み上がっていく。そこへ、警察側と接触していた圭人が、静かな足取りで戻ってきた。

「……二人とも、手掛かりが見つかったみたいだね。俺も高木刑事に頼んで、面白いものを見せてもらったよ」

圭人が手元で見せたのは、警備室のサーバーから出力されたばかりの電子ロックの開閉ログだった。

「これを見て。昨日の閉館後、最後にこの準備室を『内側から』解錠して外に出た人物の記録が残っているんだ。学芸員の久保田さんが帰った後の時間にね」

その名を見た瞬間、コナンの瞳が獲物を捉えた猛禽のように鋭く細められた。

「なるほどな。高木刑事経由でこれを出してくるとは、相変わらず手際ええやんけ、星野」

「俺はお手伝いをしただけだよ。でも、これで『容疑者』は一人に絞られたね」

圭人は柔らかく微笑んだが、その視線は再び展示室とを隔てる重厚な扉へと向けられていた。

コナンは再び展示室の扉の前に立ち、物理的な「補助錠」のサムターン部分を凝視する。ライトを当て、僅かな角度の違いで浮かび上がる不自然な「磨耗」を見逃さなかった。

「……服部、こいつを見てみろ。この軸の溝、最近削られた跡がある」

平次が横から覗き込み、短く息を呑む。

「……そうか、そういうことか! こいつに極細の糸かワイヤーを巻き付けて、扉の外まで通しておけば……!」

「ああ。密室は最初から作られてたんじゃねー。死体を運び込んだ後に、犯人が『外から』扉を閉める勢いを利用して完成させたんだ。閉まった瞬間に糸を引き抜けば、内側の錠は勝手にかかる仕掛けだ」

二人の探偵の視線が交差する。もはや言葉を交わす必要はなかった。その瞳には、霧が晴れた後のような明晰な確信と、犯人の逃げ場を完全に塞ぐ冷徹な決意が宿っていた。

「よし。役者は揃ったな、工藤」

「ああ。……犯人化けの皮、ここで剥いでやるよ」

二人は確信に満ちた足取りで、容疑者たちが待つ会議室へと向かった。

圭人はその背中を追いながら、ふと、先ほどからずっと俺を苛んでいる、あの澱んだ空気のような「圧」の正体を探るように、美術館の深淵を見つめていた。その「圧」は、眼前の事件の解決だけでは拭い去れない、もっと別の何かを含んでいるような気がしてならなかった。

 

 

 

 

 

再び東都美術館の会議室。窓の外には春の穏やかな夕刻が訪れようとしていたが、室内には刺すような緊張感が漂っていた。パイプ椅子に腰を下ろした容疑者たちは、それぞれが疑心暗鬼の表情で互いを牽制し合っている。

目暮警部が重々しく口を開いた。

「さて……。被害者の田端誠一さんの遺体は、完全に施錠された展示室の中で発見された。学芸員の久保田さんが今朝、自身の持つスペアキーで解錠するまで、文字通り誰も出入りできない『密室』だったわけだが……」

目暮警部は手元の資料に目を落とし、傍らに立つ高木刑事と佐藤刑事に視線を送る。

「三沢さんの証言通り、昨夜の巡回でも異常はなかった。となると、やはりこれは外部の人間が入り込む余地のない不可能犯罪……」

「いいや警部さん。不可能なんてことはあらへん。この密室は、ある人物が必死こいて作り上げた、ただのまやかしやからな」

壁に背を預けていた平次が、ゆっくりと顔を上げた。帽子のつばを指で弾き上げ、不敵な笑みを浮かべる。

「服部君、それはどういう意味かしら? 鑑識も入り口の鍵には異常がないと言っているわよ」

佐藤刑事が凛とした声で問いかける。

「鍵そのものに細工はあらへん。せやけど、あんた達に大きな勘違いを解いてもらわなあかんのは、田端さんが殺された場所や。あんな冷え切った展示室やのうて、その隣の……『準備室』や。なあ、ボウズ?」

平次が視線を送ると、コナンが要所で補足を入れるように口を開いた。

「うん! 展示室はすごく寒かったけど、田端さんの体の状態は、もっと暖かい場所にいた時の進み方だったんだ。準備室の空調なら、ぴったり辻褄が合うんだよ。……それに、展示室の床には引きずられたような微細な擦り傷があったしね」

「な、何だと……!? 準備室が殺害現場だと言うのかね!」

目暮警部が驚愕して身を乗り出す。その横で高木刑事が慌ててタブレットを提示した。

「け、警部! 星野君の指摘で準備室を調べたところ、作業机の下から拭き取りきれなかったルミノール反応が出ました! さらに、部屋の隅からはワイヤーが擦れた時に出る微細な繊維くずも発見されています!」

室内が凍り付いた。容疑者の一人、久保田奈緒が青ざめて口元を押さえる。

「そんな……準備室で……」

「馬鹿な、私の巡回では異常はなかったはずだ!」

警備員の三沢も狼狽し、高校生の海江田弦と西村朋子は恐怖で身を寄せ合った。

「そして……その準備室から遺体を運び込んだ後、犯人は悠々と『外』へ出て、内側の補助錠をかける仕掛けを施したんや」

平次の言葉に、画廊オーナーの桐島雅人が鼻で笑った。

「フン……。外から内側の鍵をかけるだと? 手品じゃあるまいし、そんなことが……」

「手品やない、ただの工作や。事前に補助錠の軸に細工をして、扉を外から強く引いて閉めれば自動でかかる仕掛けが施されとった。……なあ、桐島さん。あんたの画廊で使われとる特殊な強化ワイヤーの成分……準備室の繊維くずと一致したそうやで」

その瞬間、桐島雅人の顔から血の気が引いた。だが、彼はすぐに顔を真っ赤にして食ってかかった。

「……っ、ふざけるな! 証拠を出せ! そんな繊維、誰かが持ち込んだのかもしれないだろう! ログだって、私が最後だったからといって犯人だという根拠にはならないはずだ!」

「いいや、往生際が悪いで。桐島さん」

平次が鋭い眼光で桐島を射抜く。

「あんたがワイヤーを引き抜いた瞬間、扉のセンサーが異常を検知してエラーを一度吐いとる。それが決定的な証拠や!」

「……っ、あ、あ……!」

桐島は何かを言い返そうと口をパクパクさせたが、佐藤刑事が厳然たる態度で資料を突きつけた。

「それに桐島さん。本庁の捜査二課から連絡があったわ。あなたと田端さんの間で、贋作の横流しを巡る深刻な対立があったそうね。田端さんがその罪をあなた一人に着せようとしていた形跡も見つかったわよ」

「……あ、あいつが……あいつが悪いんだ!!」

逃げ場を失った桐島が、突然獣のような声を上げて叫んだ。

「全部俺のせいにして、自分だけ高みの見物を決め込もうとしやがって! 俺がどれだけ尽くしてきたと思ってるんだ!!」

桐島はその場に崩れ落ち、醜く泣き叫んだ。高木刑事が静かに近づき、その手首に手錠をかける。

「桐島雅人。殺人容疑で同行願います」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事件が解決し、警察車両の赤い灯火が次々と美術館を去っていく。夕闇が濃くなり、建物の巨大な輪郭が暗く沈んでいく中、エントランスにはようやく安堵の空気が流れていた。

「……結局、せっかく来たんやから、展示だけでも見たかったなぁ」

和葉が入り口の階段に腰を下ろし、深い溜息をついた。

「アホ。事件が起きた現場でゆっくり絵ぇなんか見てられるか。ほら和葉、さっさと帰るで」

平次が帽子を被り直し、ぶっきらぼうに和葉を促す。

「和葉ちゃん、元気出して。また今度、私が絶対誘うから。次はゆっくり見ようね」

蘭が和葉の背中を優しく撫で、微笑みかける。

そんな賑やかな一連の様子を、圭人は少し離れた場所で、独り静かに見つめていた。その視線は、もはや誰もいない美術館の奥、深い暗がりに沈んだ回廊へと向けられている。

蘭たちが少し先へ歩き出したのを確認し、コナンが圭人の隣に並んだ。

「……圭人、どうしたんだ?」

二人きりの距離で、コナンが本来の口調で問いかける。圭人は視線を動かさず、静かに応じた。

「……いや、大したことじゃないけど、ただ……あの美術館に居るとき、ずっと変な感じがしてたんだ。肌を刺すような、禍々しい『圧』っていうかさ」

「圧……?」

「うん。それが誰から発せられてて、何なのかはわからないんだけど……。ただ、あの中に、まだ何か救いようのない感情が取り残されているような気がしてね」

圭人の言葉に、コナンは返す言葉が見つからず、ただ複雑な、なんとも言えない表情を浮かべて隣の青年を見上げた。

ただの論理では解明できない、人間の情念の深淵。圭人が感じ取ったその「圧」の正体が何であれ、それはまだ、この夕闇の中に潜んでいるような気がしてならなかった。

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