ヒーローと探偵 作:タルマヨ
灰原哀を追う男
阿笠邸の地下作業場。換気扇が低く唸る室内には、ハンダの焦げる匂いと潤滑油の香りが混じり合って停滞していた。広大な作業台の上には、解体された電動モーターの真鍮製ギアや、複雑に絡み合った被覆ワイヤーが所狭しと並んでいる。阿笠博士は厚手のルーペを片目に固定し、震える手元を制御しながら、神経を使う微細な配線作業に全神経を注いでいた。
そこへ、階段を降りてきた灰原が静かに顔を出した。
「博士、根を詰めるのもほどほどにしたら? もうすぐお茶の時間よ」
博士はルーペを覗き込んだまま、眉間にシワを寄せてピンセットを動かし続けている。その集中力は、背後に誰が立ったのかを辛うじて判別できる程度の余白しか残されていなかった。
「おお、哀君か……。すまんが、今この手を離すと、これまでの苦労が水の泡になってしまうんじゃ。そうじゃ、リビングのテーブルの上に引換券があるはずじゃろ。ワシのスーツのクリーニングが仕上がっているはずじゃから、取りに行ってもらえんかね」
灰原は作業台の上を一瞥した。整理されているとは言い難い部品の山だが、接続を待つ回路の並びを見れば、博士が今日中に一区切りつけたい重要な段階に差し掛かっていることは一目瞭然だった。
「……しょうがないわね。夕飯までには戻るから、あんまり無理をしないことね」
灰原は呆れたようなため息を吐きながらも、その口元にはわずかな苦笑を浮かべて作業場を後にした。
リビングへ上がると、静まり返った部屋のテーブルの上に、乱雑に置かれた一枚の紙片が目に留まる。「阿笠」と丸みを帯びた字で記された、クリーニングの引換券だった。
その時、廊下の向こうから勢いよく水を弾く音が聞こえてきた。圭人が日課のトレーニングを終え、風呂を使っているのだろう。脱衣所の前を通ると、曇りガラス越しにシャワーの音が絶え間なく響いていた。
(星野君も、相変わらずストイックね……)
彼らの日常がいつも通りに流れていることを再確認するように、灰原は引換券を手に取った。それをエプロンのポケットへ丁寧に滑り込ませると、春の柔らかな日差しが差し込む玄関を抜け、静かにドアを閉めた。
平日の午前中。米花町の商店街は、買い物客がまばらに行き交う程度で、穏やかな静寂に包まれていた。灰原は日差しを避けるように軒下を歩き、いつものクリーニング店へと足を向けた。
店内の自動ドアが開くと、微かに洗剤の香りと蒸気の熱気が鼻をくすぐる。
カウンターには先客が一人いた。黒いスーツに身を包んだ、四十代ほどのがっしりとした体格の男だ。男は無表情にカウンターの端で何かを受け取りながら、店員と短く事務的なやりとりを交わしている。
灰原は男の少し後ろに立ち、自身の順番を待った。特段変わった様子はない、日常の一コマのはずだった。
男が会計を済ませて脇に寄ったところで、灰原が一歩前へ出て、エプロンのポケットから引換券を差し出した。カウンター越しに店員が手慣れた手つきで番号を確認し、いつもの確認事項を口にする。
「番号、承りました。お名前を確認してもよろしいでしょうか?」
「灰原哀です」
その名を口にした瞬間——隣にいた男の空気が、明らかに変わった。
男の鋭い視線が、まるで獲物を捉えるかのように灰原へと向けられた。それはほんの一瞬、瞬きをするほどの短い時間だった。しかし、男は確かに「灰原」という響きに過剰な反応を見せていた。
男の目は次に、カウンターの上に置かれた引換券の「阿笠」という名字を射抜くように凝視し、再び灰原の顔へと戻った。
灰原の背筋に、冷たい感覚が走る。
男はそれ以上視線を合わせることはせず、懐からスマートフォンを取り出すと、画面を操作する素振りを始めた。無造作な動作を装っているが、その指先には奇妙な緊張感が漂っている。
(……見られた?)
灰原は決して表情を変えなかった。動悸を抑え込み、店員から丁寧にビニール袋に包まれた博士のスーツを受け取る。
「ありがとうございました」
落ち着いた声で礼を言い、灰原は静かに店を出た。
しかし、自動ドアが背後で閉まった直後。彼女の歩調は目に見えて速くなった。腕に抱えたスーツのビニールが、彼女の焦燥を代弁するように、カサカサと乾いた音を立てていた。
デパートの正面入り口付近では、華やかな鐘の音と福引きを告げるマイクの声が響き渡っていた。会場から出てきたコナン、元太、光彦、歩美、そして美桜の5人は、それぞれの戦利品――もとい、残念賞の山を手に足を止める。
「ちっくしょー! あと、あと一回転……いや、あと数センチ右に回してりゃ、特賞の国産牛がこの手に転がり込んできたはずなのによぉ!」
元太が真っ赤な外れくじを、まるで親の仇かのように握りしめて地団駄を踏む。その手には参加賞のポケットティッシュが虚しく握られていた。
「もう、元太君。回す直前まで『肉食わせろー!』なんて言ってガラガラを揺らすからだよ。機械に嫌われちゃったんじゃない?」
歩美が苦笑しながら自分のティッシュをバッグにしまう。それに対して光彦も、眼鏡のブリッジを押し上げながら論理的に言葉を重ねた。
「そうですよ元太君。福引きの回転速度と、中の玉が排出口に収まる確率を考えれば、あんなに闇雲に回しても遠心力で外側に偏るだけです。結局は日頃の行い……いえ、運の問題なんですから」
「うるせー! 運だって実力のうちなんだよ! なあ、美桜姉ちゃんもそう思うだろ!?」
元太が助けを求めるように振り返ると、美桜は静かな微笑を湛えたまま、元太の肩へそっと手を置いた。その動作一つにも、彼女らしい徹底した礼節と穏やかさが宿っている。
「そうですねぇ…小嶋さん。ですが、特賞を目指して力強く挑まれたその気概、私はとても素晴らしいと思います。結果は伴わずとも、挑戦したという事実は消えませんから」
美桜の濁りのない瞳に見つめられ、元太は急に気恥ずかしくなったのか、鼻の下を擦りながら「ま、まあ、美桜姉ちゃんがそう言うなら……」と途端に勢いを失う。その様子を見て、コナンは(オイオイ…)と呆れ顔でポケットに手を突っ込んだ。
そんな賑やかなやり取りが途切れた、その時だった。
コナンの視界の端に、商店街の向こうから歩いてくる見慣れた人影が映った。博士のスーツが入った大きなビニール袋を抱え、少し急ぎ足でこちらへ向かってくる灰原だ。
「あ、哀ちゃ――」
歩美が手を振ろうとした瞬間、コナンの観察眼が跳ねた。
灰原の数メートル後方。通行人の波に紛れるようにして、一定の距離を保ちながら歩く黒いスーツの男。男は時折、手近な店のショーウィンドウを眺める素振りをしているが、その歩幅も、視線の落とし所も、明らかに前を歩く灰原を追尾していた。
コナンは瞬時に表情を引き締め、駆け足で灰原のもとへ向かった。
「よぉ、灰原! クリーニングの帰りか?」
意識的に明るいトーンで声を出し、自然な動作で彼女の隣に並ぶ。そのまま肩を並べて歩き出し、周囲の喧騒に紛れ込ませるように、地声より一段低い声で耳打ちした。
「……後ろの奴、店からか?」
いきなりの登場に灰原の肩が微かに震えたが、彼女はすぐにコナンの意図を察した。前を向いたまま、その瞳に冷たい緊張感を宿し、小さく、だが確実に頷く。
「……ええ。名前を聞かれた途端、ね」
二人の間に流れる張り詰めた空気を、後ろで待っていた探偵団たちも敏感に感じ取った。美桜は驚異的な観察眼でコナンの視線の先を追い、標的の男を即座に特定する。彼女は声を出さず、ただ目配せだけで「あの男性ですか?」とコナンに無言の確認を送った。
「おい、ありゃあまさか……!」
元太が事態を察して大声を上げようとしたが、その瞬間に光彦が素早く元太の袖を掴み、力任せに引き寄せた。
「しっ! 声が大きいですよ元太君! 気づかれたらどうするんですか!」
光彦の必死の制止に、元太は慌てて自分の口を両手で塞ぐ。
穏やかだったはずの商店街の景色が、逃げ場のない不穏な影に侵食され始めていた。コナンは灰原を庇うような位置取りを保ちつつ、背後の「追跡者」が次の一手をどう出るか、慎重に伺い始めた。
コナンは隣を歩く灰原の歩調に合わせながら、背後の状況を鋭く観察し続けていた。男が一定の距離を保ち、不用意に距離を詰めないのは「獲物」を見失わないことを最優先としている証拠だ。
(逃げ回るより、ボロを出させた方が早そうだな……)
コナンは後方にいる美桜と探偵団の3人へ、僅かな首の動きと視線だけで合図を送る。
その意図を瞬時に汲み取ったのは美桜だった。彼女は静かに頷くと、歩美たちの肩を優しく叩いて促す。4人は談笑するふりをしながら自然に散らばり、男の退路を断つように、あるいは死角から回り込むようにして包囲網を形成し始めた。
男は、灰原とコナンが不自然に足を緩め、前方の角で立ち止まったことに気づいた。自らの追跡が露見した可能性、あるいは背後の子供たちの動きに違和感を覚えたのか、男の眉間に一瞬だけ険しさが走る。
男はこれ以上の追尾は得策ではないと判断したのか、無造作に踵を返すと、大通りから外れた薄暗い路地へと足を踏み入れた。
「あ、逃げる気だよ!」
歩美が声を上げると同時に、元太が猛然とダッシュを開始する。
「待てよ、こらぁ! 逃がさねーぞ!」
元太と歩美は勢いよく路地へ飛び込んでいった。しかし、そこは入り組んだ米花町の裏路地だ。不規則に並ぶ室外機やゴミ箱、いくつにも分かれた分岐点が視界を遮る。
「……あれ? いねーぞ!」
「おかしいね、こっちに来たはずなのに……」
息を切らせて立ち尽くす元太たちの横を、美桜と光彦が冷静な足取りで通り抜けた。美桜は迷いのない視線で、路地の突き当たりにある古びた建物の入り口を見つめている。
「小嶋さん、歩美さん、落ち着いてください。あの男性なら、あちらの建物へ入っていきましたよ」
美桜の指差す先には、タイルの一部が剥げ落ちた三階建ての小さな雑居ビルがあった。
「はい、間違いありません。僕もあの階段を上がる男の背中を確認しました」
駆けつけた光彦が言う。
遅れて合流したコナンと灰原が、美桜たちの示すビルの入り口へと視線を向けた。
建物の入り口にある、くすんだ真鍮製の表札。そこにはいくつかの会社名に混じって、控えめなフォントでこう記されていた。
『米花調査事務所』
それを見た瞬間、コナンの口元にわずかな笑みが浮かぶ。全てのパズルが組み合わさったような、合点がいった顔だ。
「……なるほどな。そういうことかよ」
灰原もまた、同じ表札をじっと見つめていた。組織の追手という最悪の想定が頭をよぎっていた彼女の瞳から、わずかに鋭い緊張が抜け、代わりに冷ややかな呆れの色が混じり始める。
「……随分と、古典的な手段を選んだものね」
灰原はエプロンのポケットにあるクリーニングの引換券を指先でなぞりながら、目の前のビルの奥に潜む「依頼主」と「意図」を静かに推察し始めていた。
ビルの急な階段を上がり、扉を開けると、そこには使い込まれたデスクと書類棚が並ぶ「米花調査事務所」の空間が広がっていた。先ほど路地へ消えた黒スーツの男――この事務所の調査員は、コナンたちが踏み込んできても慌てる様子はなく、むしろ困ったような苦笑いを浮かべて彼らを応接室へと促した。
「……なるほど。いきなり後をつけたりして、怖がらせてしまったようで申し訳ない」
調査員の男は、パイプ椅子に深く腰掛けたコナンたちに向き直ると、淡々と事情を話し始めた。
彼が動いた理由は、組織的な陰謀などではなく、極めて地域的な「警戒心」によるものだった。クリーニング店の店員から、この事務所に一本の相談が入っていたのだという。
「店員さんが不審に思ったそうなんだ。『阿笠』という名字の常連客の高級スーツを、全く違う名字を名乗る小さな女の子が一人で受け取りに来た、とね。なりすましじゃないかと、確認の依頼だったんだよ」
男の説明を聞きながら、元太が「なんだよ、ただの勘違いかよ!」と拍子抜けした声を上げる。光彦も「防犯意識が高いのは結構ですが、紛らわしいですよ」と安堵混じりに肩を落とした。
コナンは、隣で硬い表情を崩さない灰原を一瞥してから、子供らしい表情を作って調査員に語りかけた。
「そっか……。博士はいつもこの子に用事を頼んでるから、僕たちは全然変だと思ってなかったけど、お店の人はびっくりしちゃったんだね。ごめんなさい、おじさん」
コナンのよどみない説明に、調査員は納得したように手帳をパタンと閉じた。
「そうだったのか。名字が違うという一点だけで、少々先走りすぎてしまったな。お嬢ちゃん、怖い思いをさせてすまなかった。店員さんには、こちらから事情を説明して、全くの潔白だったと伝えておくよ」
調査員の謝罪を受けながらも、灰原はその間、一言も発することはなかった。
ただ静かに、膝の上で博士のスーツを抱え、冷ややかな眼差しで床の一点を見つめている。組織の影を警戒し、死の淵を歩んできた彼女にとって、「善意の防犯」という平和すぎる理由は、安堵よりもむしろ、拭いがたい疲労感を残すものだった。
美桜はそんな灰原の横顔を、驚異的な観察眼で見つめていた。言葉には出さずとも、彼女の指先がわずかに震え、その後に力がこもったことを美桜は見逃さなかった。
「……行きましょうか、哀さん」
美桜が静かに声をかけると、灰原は短く息を吐き、ようやく顔を上げた。
誤解は解け、不審な追跡者は消えた。しかし、名乗った名前一つで平穏が脅かされる脆さを突きつけられた灰原の背中は、事務所を後にする際、どこか頑ななほど真っ直ぐに伸びていた。
夕闇が迫る阿笠邸。玄関を開けると、地下の作業場からはまだ煌々とした明かりが漏れていた。灰原がリビングへ足を進めると、そこには風呂上がりで髪を湿らせた圭人が、廊下で博士と何事か話し込んでいるところだった。
灰原は手にしたビニール袋から博士のスーツを取り出し、壁のハンガーへと丁寧に掛けた。その背後に、気配を感じて圭人が振り返る。
「あっ、おかえり、志保さん……何かあった?」
圭人の問いかけは、核心を突くように穏やかだった。彼女の僅かな肩の揺れや、瞳の奥に沈殿した微かな緊張を、彼は見逃さなかった。灰原は一瞬だけ圭人と視線を合わせたが、すぐに感情を覆い隠すように視線を外した。
そこへ、作業場から油に汚れた手で博士が顔を出した。
「おお、哀君。戻ったか。クリーニング、助かったわい。……ん? 何かあったのかね?」
博士もまた、愛娘のように接する彼女の無言の空気に違和感を覚えたようだ。灰原は小さく息を吐くと、商店街で起きた「身元確認」という名の尾行劇を、淡々とかいつまんで説明した。
話を聞き終えた博士は、途端に申し訳なさそうな、ひどくばつの悪そうな顔をした。
「……すまん、哀君。ワシが気軽に頼んだばかりに、そんな思いをさせてしまうとは……。次からはワシが自分で行くようにするわい」
博士の落胆ぶりに、灰原は逆に毒気を抜かれたように自分の頭を軽くかいた。彼女にとって脅威だったのは尾行そのものよりも、それが「善意」からくる正当な行為であったという事実の方だったのだ。
「……気にしないで。ただの思い過ごしが重なっただけだから」
そんな彼女の頑なな態度を見て、圭人が少しだけ眉を下げて冗談めかした口調で聞いた。
「……志保さん、最近俺に冷たくない?」
灰原は階段へ向かいかけた足を止めず、振り返りもせずに短く答えた。
「別に……。気の所為よ」
その素っ気ない、だが彼女らしい一言に、圭人は「相変わらずだな」と苦笑いを浮かべるしかなかった。灰原はそのまま、自身の聖域である地下の研究室へと降りていった。
静まり返ったリビングに残された圭人と博士は、階段の先をじっと見つめたまま、言葉を交わさず顔を見合わせた。やがて地下の奥深くから、完成間近のモーターが軽快な試運転音を上げ始める。
その規則的な機械音だけが、米花町の静かな夜を刻んでいた。