ヒーローと名探偵 作:タルマヨ
潜影
ドイツ・フランクフルト。
欧州の金融を担うこの都市の夜は、冷たい雨に濡れていた。
マイン川に架かるアルテ・ブリュッケ(旧橋)の上を、一人の女性が必死の形相で走っていた。ユーロポール防犯ネットワークセンターの捜査官、ニーナである。
彼女の背後、数メートルの位置には、センター内での銃撃戦で負傷した同僚たちの血を浴びた、黒ずくめの男たちが追っていた。
「ハァ……ハァ……ッ!」
ニーナは絶望的な状況下で、ポケットからスマートフォンを取り出し、震える指で短縮ダイヤルを押した。
数回のコールの後、相手が出た。
『……ニーナ?』
「ジョディ……ジョディ・スターリング……ッ! 助けて……!」
ニーナの声は、恐怖と雨音にかき消されそうだった。
『ニーナ!? どうしたの、一体……!』
「奴らが……『組織』が、センターに……ッ! システムが、ああっ!」
ニーナが橋の中ほどまで差し掛かった時、前方から一人の女が歩み寄ってきた。
黒いライダースジャケットに身を包み、冷徹な瞳でニーナを見据える女――キール。
彼女の手には、サイレンサー付きの拳銃が握られていた。
「……そこまでよ、ニーナ」
キールはニーナに銃口を向け、ゆっくりと距離を詰める。
ニーナは足を止め、後退りした。背後は欄干。下は暗く冷たいマイン川だ。
「……観念しなさい。貴女に逃げ場はないわ」
キールは冷酷な言葉を口にしながらも、その指は引き金にかかったまま動かなかった。
彼女は、ニーナを射殺するふりをして威嚇射撃を行い、彼女を川へ飛び込ませて逃がす機会を伺っていた。組織の手前、仕留めたように見せかけるための、キールなりの苦肉の策だった。
(……ごめんなさい、ニーナ。でも、こうするしか……)
キールが心を決めた、その瞬間だった。
――パァン!
警告も、前触れも、一切なかった。
キールの背後、わずか数センチの至近距離を、一発の弾丸が音速で切り裂いた。
その弾丸は、驚愕に目を見開いたキールの左肩の肉を掠め、その直線上、欄干を背に立ち尽くしていたニーナの眉間を正確に貫いた。
「あ……」
ニーナは短い呻き声を上げ、その場に崩れ落ちる間もなく、力の抜けた体は欄干を越えて暗闇へと真っ逆さまに落ちていった。
ドボン、という重い水音が、雨音に混じって響く。
アスファルトに転がったスマートフォンからは、ジョディの悲痛な叫びが空しく漏れ聞こえていた。
「……ッ!」
キールは、左肩に走る激痛と、目の前で起きたあまりに一瞬の出来事に、言葉を失った。
彼女がゆっくりと振り返ると、そこには、銀色の長髪を雨に濡らした男が、冷ややかな笑みを浮かべて立っていた。
ジン。
彼は愛銃のベレッタを、構えた姿勢のまま微動だにせず、硝煙をくゆらせていた。その瞳には、ネズミを仕留めた満足感すらなく、ただ無機質な冷徹さだけが宿っている。
ジンはゆっくりと銃口を下げ、ベレッタを懐に収めると、肩を押さえて呻くキールを冷酷に見下ろした。
「……フン、相変わらず手温いな、キール」
「……っ……、ジン……貴方……!」
キールは苦痛に顔を歪めながら、ジンを睨みつけた。
ジンは彼女の視線を冷笑で受け流し、さらに言葉を続ける。
「……モタモタしてんじゃねぇ。鼠に余計な時間を与えるな」
「………………」
キールは何も言い返せなかった。溢れ出す鮮血を右手で押さえ、ジンの圧倒的な威圧感の前に、ただ唇を噛みしめる。
ジンは一歩、キールの方へ歩み寄ると、耳元で呪詛のように言葉を吐き捨てた。
「次にもたつけば、その穴を空けるのは肩じゃ済まさねぇぞ……キール」
ジンはそれ以上一瞥もくれず、背を向けて漆黒のポルシェへと歩き出した。
キールは、去りゆくジンの背中と、ニーナが消えた暗い川面を交互に見つめ、冷たい雨の中でただ独り立ち尽くすしかなかった。肩に刻まれた激痛は、彼女の失策への罰であり、ジンの狂気そのものだった。
◆
ドイツでの惨劇から数日。舞台は夜の静寂に包まれた都内へと移る。
人気のない埠頭のパーキングエリアに、一台の白いマツダ・RX-7が滑り込んだ。エンジンを止め、スモールライトを消すと、車内は深い闇とメーター類の淡い光だけに包まれる。
運転席に座る安室透――黒の組織におけるバーボンは、バックミラーを一度確認してから、助手席へと視線を流した。
そこには、夜の闇に紛れるような黒いドレスを纏った女、ベルモットが妖艶な笑みを浮かべて座っていた。
「……フフ、相変わらずいい音をさせるわね、この車。貴方の運転技術にはいつも見惚れるわ」
「お褒めに預かり光栄です、ベルモット。それで……ドイツの一件、耳に入っていますよ。随分と派手な幕開けだったようですね」
安室がハンドルを握ったまま問いかけると、ベルモットは窓の外を見つめながら、細い指先で自身の顎をなぞった。
「ええ、ジンがネズミを一匹、マイン川の底へ沈めたわ。少しばかり荒っぽいやり方だったけれど、ユーロポールの防犯ネットワークへの侵入は成功……。例の『計画』は予定通り、次のフェーズへ移行したわ」
「予定通り、ですか。八丈島に建設されたあの施設……『パシフィック・ブイ』ですね」
安室の瞳に、鋭い探知の光が宿る。世界中の警察が持つ防犯カメラを繋ぐという巨大施設。それが組織の手に落ちれば、情報の均衡は一気に崩れることになる。
「ええ……。ラムも直々に動いているわ。今度の獲物は、組織にとって長年の懸案事項を解消する鍵になるかもしれない……」
ベルモットはそう言うと、謎めいた笑みを浮かべて車外へと目を向けた。二人の密会は、計画の進捗を確認し合う儀式に過ぎない。だが、その裏側で蠢く思惑は一つではなかった。
時を同じくして。都内、高層ビルの最上階にある会員制バー。
薄暗い照明が照らし出すカウンターの隅に、一人の女性が佇んでいた。
アマレット。
170cmという恵まれた長身に、中性的な印象を与える短い黒髪。タイトなパンツスーツを着こなす彼女の胸元には、複雑な意匠を凝らした銀色のブローチが、重厚な輝きを放っている。
彼女は琥珀色の液体が入ったグラスをゆっくりと回しながら、手元の端末に流れる文字列を静かに追っていた。画面に映し出されているのは、組織の内部サーバーから吸い上げた極秘のログデータだ。
(……ジンもラムも、目先の獲物に躍起になっているようね。滑稽なほどに)
アマレットの瞳には、組織への忠誠心など微塵も存在しない。
彼女にとって、この組織は守るべき場所ではなく、自らの野望を達成するために「乗っ取るべき」巨大な城に過ぎなかった。
内部の情報を着実に収集し、主要メンバーの動向を把握する。
誰が裏切り、誰が私欲で動き、誰が組織の根幹を揺るがす火種を持っているのか。
「……パシフィック・ブイ。利用価値は十分にあるわ」
アマレットはグラスを傾け、最後の一口を飲み干した。
組織の内部から食い破り、頂点へと至るための反逆のシナリオ。彼女はその計画を、氷のような冷静さで着実に、そして静かに進めていた。
夜の闇は深く、都内の喧騒が遠くで鳴り響いている。
表の顔、裏の顔。それぞれの目的を抱えた潜入者たちの思惑が、運命の地・八丈島へと集束していく。
◆
週末の昼下がり、米花デパートの特設会場は、多くの家族連れや買い物客でごった返していた。その一角にある抽選会場では、少年探偵団の元気な声が響き渡っている。
「次こそ特賞だ! いくぜっ!」
元太が鼻息荒くガラポン抽選機のハンドルを回した。カランカランと虚しい音を立てて転がり出たのは、無情にも真っ白な玉だった。
「あーあ、またスカだよ。これで全員ハズレかよ」
「そんなに上手くはいきませんね。ハワイ旅行や高級和牛なんて、そう簡単には当たりませんよ」
「でも、ティッシュばっかり増えても困っちゃうよね……」
落胆する元太、冷静に分析する光彦、そして困り顔の歩美。傍らで苦笑いする阿笠博士も、手元のポケットティッシュの山を見て肩をすくめた。
「まあまあ、そう気を落とさんでも。福引というのはそういうもんじゃよ」
一方、そんな喧騒から少し離れたデパート内の特設ブース。そこには、静かに列に並ぶ灰原の姿があった。
彼女の目的は、憧れのブランド「フサエ・キャンベル」の新作、限定銀杏ブローチ。落ち着いた色合いの中に気品が漂うそのデザインに、灰原は密かに心を奪われていた。
「……よかった。間に合ったわね」
灰原の順番が来たとき、店員から渡されたのは、最後の一枚となる購入整理券だった。それを手にした瞬間、彼女の瞳にわずかな満足感が宿る。
だがその時、灰原のすぐ後ろで、小さく溜息をつく声が聞こえた。
「あら……残念。あと一歩、間に合わなかったようね。……孫がずっと欲しがっていたのだけれど、縁がなかったのかしら」
振り返ると、そこには上品だがどこか寂しげな表情を浮かべた年配の女性が立っていた。
灰原はその女性の様子をじっと見つめる。そして、手元の整理券を二度見つめ直した後、迷いのない足取りで彼女に歩み寄った。
「これ、どうぞ。私はまた次の機会でいいですから」
「えっ? でも、お嬢ちゃんがせっかく手に入れたものでしょう?」
「いいの。……大切にしてくれる人の手に渡る方が、ブローチも喜ぶと思うわ」
灰原は年配の女性の手に整理券をそっと乗せると、微笑む女性を背に、少し照れくさそうにその場を後にした。
「……あーあ。いいのかよ、灰原。あんなに欲しがってたのに」
柱の陰からその様子を見ていたコナンが、呆れたように声をかける。隣には、圭人、蘭、そして園子も並んでいた。
「別に。……ただの気まぐれよ。それより、あの子たちのところに戻りましょう」
灰原は素っ気なく答えて歩き出すが、その潔い振る舞いを見ていた蘭と園子は、感心したように顔を見合わせた。
「哀ちゃん、偉いね……。自分だって欲しかったはずなのに」
「ホント! アンタ、見た目は子供だけど中身はすっかり出来た大人じゃない! 感動しちゃったわよ!」
園子はそう言うと、何かを思いついたようにポンと手を打った。
「決めたわ! 哀ちゃんのその男気に免じて……というか、今のを見てたらアタシも何かしたくなっちゃった! ちょうど来週、パパが八丈島に新しくオープンするリゾートホテルの視察に行く予定があるのよ」
「八丈島?」
圭人が聞き返すと、園子は自信満々に親指を立てた。
「そう! 鈴木財閥が八丈島に作った超豪華ホテル! ちょうどクジも外れてがっかりしてたみたいだし、圭人君にガキンチョ共、それに蘭に博士もまとめて招待してあげるわよ! そこでホエールウォッチングでもして、パァーッと楽しみなさいよ!」
「本当!? 園子、いいの?」
「もちろん! 鈴木園子お嬢様からの、さっきの親切へのご褒美よ!」
その言葉を聞きつけた探偵団の三人が、「八丈島!」「ホエールウォッチング!」と飛び跳ねて喜ぶ。
博士も「ガッハッハ、これは棚からぼた餅じゃな」と目尻を下げ、コナンも「まあ、彼奴等にはそれでもいいか」と小さく笑った。
賑やかな一行がデパートを去っていく。
整理券を譲り受けた老婦人は、その賑やかな背中を、ただ静かに見送っていた。
眼鏡の奥の瞳には、感謝とはまた別の、底知れない知性が宿っている。彼女は手に持った整理券を一度だけ見つめると、それを大切そうにバッグへと仕舞い込み、人混みの中へと消えていった。
その足取りに、先ほどまでの年老いた弱々しさは微塵も感じられなかった。