ヒーローと名探偵 作:タルマヨ
海洋施設 パシフィック・ブイ
コナンたちが施設を後にした直後、メインルームには開発者の直美・アルジェントが一人残っていた。静寂の中、端末に向かう彼女の背後に、二人の清掃員が音もなく近づく。
「……? 清掃の時間にはまだ早いはずだけど」
直美が怪訝そうに振り返った瞬間、視界が歪んだ。清掃員に変装したベルモットが、無造作にスタンガンを押し当てたのだ。崩れ落ちる直美をバーボンが支える。二人は手際よく直美を拉致し、海中の緊急脱出口から、待機していたウォッカとキールの潜水艇へと消えた。
潜水艇の冷たい隔壁に囲まれた室内。
意識を取り戻した直美を待っていたのは、ウォッカの冷酷な威圧感だった。
「さて、直美・アルジェント。協力次第では、その命……少しは永らえさせてやる」
「……何が目的よ」
「決まっている。貴様が作った『老若認証』で、組織の痕跡をすべて消去してもらう」
ウォッカは直美の胸元から、ネックレス型のUSBを力任せに引きちぎった。
「やめて! それは……!」
「ほう、そんなに大事なもんか」
ウォッカが端末にUSBを繋ぐ。そこに映し出されたのは、直美が私的に進めていた検索ログだった。幼少期に宮野志保に助けられた記憶。その恩人を捜し出すためにシステムを走らせた結果――画面には、宮野志保の幼少期のデータと、現在の「灰原哀」の姿が「同一人物」として高い適合率で表示されていた。
「……シェリーだと?」
潜水艇内に凍りつくような沈黙が流れた。
「……馬鹿な。あいつはあのミステリートレインで、確実に消したはずよ」
ベルモットが表情を消して吐き捨てた。ウォッカは即座にジンへ通信を繋ぐ。
「兄貴、信じられねぇ事態です。死んだはずのシェリーが、ガキの姿で生きてやがります。このシステムの判定に間違いはありません」
通信機越しに響いたのは、低く忌々しげなジンの声だった。
「……ガキの姿だと? 反吐が出るような冗談だ……」
ジンにとって、幼児化の理屈など興味はない。死んだはずのネズミが生きているという事実だけが、彼の殺意を昂ぶらせた。
「……生かしておけ。傷一つ付けずに捕らえ、俺の前に引きずり出せ。そのネズミの息の根を、今度こそ確実に止めてやる……」
「了解です、兄貴。すぐに拉致に移ります」
「待ちなさい。計画にない拉致はリスクが大きすぎるわ。今は施設の掌握に専念すべきよ」
キールが食い下がるが、ウォッカは一蹴する。
「黙ってろキール。兄貴が自ら片をつけるととお決めになったんだ。……野郎ども、進路を八丈島へ向けろ!」
一方、組織の別の場所では、アマレットがこのやり取りを傍受していた。
「……シェリー、ね。あの裏切り者の生死に興味はないけれど……」
アマレットは薄暗い室内で、組織の動向を冷徹に分析する。
「パシフィック・ブイの制圧という任務の最中に、勝手な行動を始めるなんて……。ジンも相変わらずね。でも、この情報の揺らぎは利用価値があるわね」
アマレットは不敵な笑みを浮かべ、闇に消えた。
その頃、ホテルのテラス。
夕闇が海を飲み込み、穏やかな波音が聞こえる中、圭人と灰原は二人で潮風に吹かれていた。
「星野君、そろそろ中に入らない? 皆が待ってるわよ」
「あ、ああ、そうだね。行こうか」
圭人も柔らかい表情で応じた。だが、灰原が部屋に戻ろうとした、その瞬間だった。
「……っ」
彼女の足が、凍りついたように止まった。
瞳が恐怖で収縮し、呼吸が止まる。全身を襲う、あの氷のように冷たい「死の匂い」。
「星野君……なんだか、胸騒ぎがするの。冷たい、氷のような視線を感じる……」
絞り出すような灰原の声に、圭人は彼女の異変を即座に察知し、その肩を支えるように一歩前に出た。
「大丈夫だよ。何があっても、俺が必ず守るから」
圭人は柔らかい口調で告げたが、その瞳には鋭い光が宿り、沖合を射抜いていた。
八丈島の夜。ホテルのレストランでは、圭人、コナン、灰原、博士、そして元太、光彦、歩美が円卓を囲み、島自慢の豪華な海の幸を堪能していた。
「うおーっ! この刺身、脂がのってて最高にうめぇな!」
元太が勢いよく刺身を頬張る。
「本当ですね。このキンメダイの煮付けも、タレが絶妙でご飯が進みます!」
光彦も負けじと箸を動かし、歩美も「あ、このお吸い物もすごく美味しいよ!」と笑顔を見せていた。
賑やかな食卓が一段落し、温かいお茶が運ばれてきた頃、博士が待ってましたと言わんばかりに満足げに頷き、人差し指をピンと立てた。
「ガッハッハ!みんな。お腹がいっぱいになったところで、恒例のクイズの時間じゃ!」
「げっ、またかよ……」
元太が露骨に嫌そうな顔をする。
「博士、今はせっかくのディナーの余韻を楽しんでいるところなんですから、少しは空気を読んでくださいよ……」
光彦の正論に、歩美も「あはは……」と苦笑いするしかない。だが、博士は全く気にする様子もなく、意気揚々と問題を読み上げた。
「いいか、問題じゃ! ここ八丈島といえばクジラが見られることもあるが……クジラが怒っているかどうかは、クジラのどこを見ればわかるかな? 選択肢は4つじゃ!」
「1、耳」
「2、鼻」
「3、口」
「4、目」
「博士、ヒントちょうだい!」
歩美の言葉に、博士はニヤリと笑った。
「ヒントは『慣用句』じゃ!」
「かんようく……? なんだよそれ、新しい魚の名前か?」
元太が首を傾げると、隣に座る圭人が箸を置いて、優しく教えるように口を開いた。
「慣用句っていうのはね、二つ以上の言葉が組み合わさって、全く別の、特別な意味を持つようになった言い回しのことだよ。例えば『腹が立つ』とかね」
「へー! 圭人兄ちゃん、物知りだな!」
「圭人さんの言う通りです。……うーん、クジラにまつわる慣用句ですか……」
光彦が顎に手を当てて考え込む。
「クジラといえば鼻から潮を吹きますから、怒ると鼻息が荒くなる……。2番の鼻ですかね?」
「俺は3番の口だと思うぜ! 怒って吠えるだろ、ガオーッて!」
「元太君、クジラは吠えないわよ。歩美はね、『耳をそばだてる』って言うから、1番の耳かなぁ」
探偵団の三人がそれぞれ頭を捻り、コナンが内心で(おいおい……)と呆れ顔を見せている中、灰原が紅茶のカップを静かに置き、冷ややかな、だが確信に満ちた声で口を開いた。
「答えは4番の『目』よ」
「おっ、正解じゃ! さすが哀君、早いのう!」
「……どういうことだよ、灰原」
元太が納得いかない様子で尋ねると、灰原は淡々と解説を付け加えた。
「『目くじらを立てる』。他人の欠点を探して、目角を立てて怒るという意味の比喩表現。この『くじら』は、目の隅を指す『目串(めぐし)』が転じたものだけど、博士はそれを動物の鯨とかけて、得意のダジャレ問題にしたんでしょ?」
「……。……。……」
コナンと探偵団の三人は、何とも言えない微妙な沈黙を返した。
「……なんか、いつも以上に強引じゃねーか?」
「理屈はわかりますけど、ちょっと……寒気がしてきました」
「ガッハッハ! まあまあ、正解者が出たから良しとしようじゃないか!」
微妙な空気の中、博士だけが上機嫌に笑っていた。
夕食後。子供たちがそれぞれの部屋に戻り、静まり返ったテラスの隅で、コナンは圭人と博士を呼び出した。
「……間違いない。あの施設には『老若認証』なんてとんでもないシステムがある。そして、組織の連中がその周辺で動いている」
「な、なんじゃとぉーっ!?」
博士が思わず大声を上げると、圭人が即座にその肩を叩いて制した。
「声が大きいよ、博士。誰が聞いてるかわからないだろ」
「す、すまん……。しかし、もし奴らがそのシステムを手に入れれば、哀君が……」
コナンは苦い表情で頷いた。
「ああ。灰原が子供の姿で生きてることがバレれば、一巻の終わりだ……」
深刻な会話が続く中、圭人はふっと視線をテラスの入り口、暗がりに続く柱の陰へと向けた。
「……隠れてたって見つかるよ。出ておいで、志保さん」
圭人の静かな呼びかけに、コナンと博士が息を呑む。
廊下の影から、震える肩を抱きしめた灰原がゆっくりと姿を現した。その瞳には、自分に迫る絶望を悟った色が深く刻まれている。
「……星野君に見つかった時点で、隠れる意味はなかったわね」
「うん。イチの話、全部聞いてたでしょ?」
圭人が静かに答えると、コナンは灰原の前に立ち、真っ直ぐに彼女を見据えた。
「灰原、明日になったら元太たちと一緒に島を離れろ。博士と一緒に帰るんだ」
「志保さん、イチの言う通りだ。子供たちを巻き込まないためにも、一度この場を離れた方がいい。……いいな?」
圭人の柔らかいが拒絶を許さない声に、灰原は僅かに唇を噛んだ。
「……そう。貴方たちがそう言うなら、従うわ。どうせ、私は守られるだけのお荷物ですもの」
灰原は皮肉を吐いたが、コナンはその言葉を遮るように、ポケットから予備の追跡メガネを取り出した。
「ほら、これを持っとけ。万が一の時に役に立つ」
コナンから手渡されたメガネを、灰原は黙って受け取った。そして、自嘲気味な笑みを浮かべてそれを顔に当てる。
「……似合わないかしら?」
「いや、バッチリだ。賢そうに見えるぜ」
「……お世辞なら結構よ、江戸川君」
灰原は冷ややかに返しながらも、その口元には僅かに、安心したような笑みが漏れた。その様子を見て、圭人は苦笑いを浮かべた。
コナンは真剣な眼差しで圭人に向き直った。
「圭人。悪いけど、ホテルで灰原たちを守ってくれ」
「うん、当然だ。あとのことは任せてくれ」
圭人は短く答え、ジャケットの内側に忍ばせたスパークレンスに指先で触れた。さらに左腕のアストロウォッチの表示を確認し、エネルギーの充填状況を把握して万が一の事態に備える。
(……来るなら来い。この島に、闇は落させない)
圭人の瞳に、守護者としての静かな、だが熾烈な闘志が宿る。コナンは小さく頷き、闇に沈むパシフィック・ブイの灯りを睨みつけた。
決戦の準備は、刻一刻と整いつつあった。