ヒーローと名探偵 作:タルマヨ
深夜。八丈島のホテルは深い静寂に包まれていた。
灰原は、同じ部屋で深く眠りについた歩美の規則正しい寝息を聞きながら、一人ベッドの上で身を起こしていた。昼間に感じた組織の気配、そして圭人たちの緊張感……。得体の知れない胸騒ぎが彼女を眠りから遠ざけていた。
その時、静まり返った外から、微かに「バフッ」という車のドアが閉まる音が響いた。
(……!)
本能的な恐怖が灰原を突き動かす。誰かに知らせようと部屋を飛び出そうとした、その瞬間だった。
「……あ、あぁ……」
ドアが外側から音もなく開かれ、そこには冷酷な笑みを浮かべたウォッカと、鋭い眼光を放つピンガが立っていた。
「見つけたぜ、シェリー……」
抗う間もなく、灰原の小さな体は屈強な男たちの腕の中に消えた。
「……ッ!? 灰原!」
異変を察知し、廊下へ飛び出したコナンが目にしたのは、非常階段へと駆け降りていく黒い影だった。
隣の部屋から飛び出してきた蘭が、事態を瞬時に把握する。
「待ちなさい!! 哀ちゃんを返しなさい!!」
蘭は迷うことなく、自室の窓から数メートル下の地上へと飛び降りた。着地と同時に加速し、灰原を車に押し込もうとするピンガの首筋に、鋭い回し蹴りを叩き込む。
「ぐっ……!? この女……!」
ピンガが毒づき、格闘戦が始まる。ピンガの実力は蘭と互角。拳と蹴りが火花を散らすような速さで繰り出される中、ウォッカが灰原を乗せた車を急発進させた。
「待って! 哀ちゃん!!」
蘭がピンガを振り切り、走り去る車を追いかけようとした、その時。
遠くの森の暗がりから、冷たい銃口が蘭の背中を狙っていた。キャンティだ。
「……チッ、ちょこまかと邪魔な女だい! 消えちまいな!!」
「蘭!伏せろぉっ!!」
後を追ってきたコナンが、キック力増強シューズでサッカーボールを蹴り飛ばす。電光石火の弾丸が弾道を遮り、銃弾は蘭の髪をかすめて背後の壁を砕いた。
「キャッ……!」
凄まじい衝撃音と火花に、蘭はその場に膝をついた。
コナンは煙を上げるシューズを構えたまま、脱兎の如く蘭の元へ駆け寄る。
「蘭っ……姉ちゃん! 大丈夫!? 怪我はない!?」
「……っ、コナン君……。私は平気、それより哀ちゃんが……!」
蘭は荒い呼吸のまま、頬にかすった弾丸の熱を指先で拭った。彼女の瞳には、目の前で幼い少女を救えなかったことへの悔しさと、今起きた「死」への恐怖が入り混じっていた。
「ああ、クソッ……!」
コナンが顔を上げた時には、車はすでに夜の闇へと消え去り、テールランプの光すら見えなくなっていた。
コナンは震える手で探偵バッジを握りしめ、即座に博士と圭人に連絡を入れた。
「博士、圭人! 灰原が奴らに連れ去られた! 俺はスケボーで追う!お前もすぐに来てくれ!」
『な、なんじゃとぉ!?』
博士の驚愕の声が響く中、圭人は普段の砕けた口調が乱れるほど焦っていた。
『う……嘘だろ! クソッ!今すぐ行く!』
圭人はスパークレンスを懐に入れ、部屋を飛び出した。
だが、エレベーターホールへと続く廊下の中央で、一人の女が静かに立ちはだかっていた。
「……そこをどけ!」
圭人は速度を落さず怒鳴りつけた。だが、女は無言のまま、鉄壁の構えで道を塞ぐ。
「どけって言ってんだろ!!」
圭人が強引に突破しようと肩からぶつかる。だが、女はその勢いを利用し、圭人の腕を掴んで鮮やかに投げ飛ばした。
「……っ!?」
壁際で体勢を立て直す圭人。焦燥が思考を曇らせる。
「どけよ……一刻を争うんだよ!」
圭人が渾身の右拳を放つ。だが、女はそれを最小限の動きで受け流し、逆に圭人の手首を掴んで捻り上げた。
「ぐっ……!?」
「焦りは精度を欠く。アンタでは、私を抜くことはできない」
女の声は冷徹だった。圭人は強引に腕を引き抜き、渾身の回し蹴りを放つ。だが、女はそれを垂直に跳んで回避し、着地と同時に圭人の懐へ潜り込んだ。
掌底が圭人の胸元を打つ。衝撃でたじろぐ圭人に、女は容赦のない追撃を叩き込んだ。目にも留らぬ速さの連撃が、圭人の防御を強引にこじ開けていく。
「しまっ……!」
一瞬の隙。今度は女の強烈な回し蹴りが、圭人の脇腹を深々と抉った。
「あ、が……っ……!!」
肺の空気を全て絞り出されるような衝撃。圭人の身体は紙屑のように吹き飛ばされ、廊下の壁に激しく叩きつけられた。
意識が急速に遠のいていく。霞む視界の中で、女が冷徹な瞳で見下ろしているのが見えた。
「……志保……さん……」
最後にその名を思い浮かべながら、圭人の意識は暗転した。
その一瞬の隙を突き、女は圭人が動かなくなったのを確認すると、音もなく闇の中へ消えていった。
◆
数十分後。ホテルのロビーには、重苦しい空気が停滞していた。
ソファに座るコナンと博士の元へ、頭を押さえ、ふらついた足取りで圭人がやってきた。その顔は蒼白で、唇を噛み切り血が滲んでいる。
「……し、志保さんは?」
圭人の声は低く、かすれていた。
「……潜水艦だ。奴ら、灰原を連れて海に潜りやがった。追跡メガネの反応も……消えたよ」
コナンの言葉を聞いた瞬間、圭人の全身から「柔らかな雰囲気」が完全に消失した。
「せ……潜水艦だと……?」
あの女に足止めされていなければ。自分が、あんな場所で不覚を取らなければ。
後悔と、自分自身への激しい怒りが、圭人の胸の中で黒く渦巻いていた。
そこへ駆けつけた目暮警部、高木刑事、佐藤刑事。
「本当だ! 灰原は巨大な潜水艦に連れ込まれたんだ!」
コナンの訴えに、目暮たちは困惑する。
「しかしコナン君、そんなものが近海に……。夜だし、見間違いじゃないのかね?」
「見間違いじゃねぇ! 俺はこの目で見たんだ! 確かに巨大な潜水艦だったんだ!!」
普段の冷静さをかなぐり捨て、目暮に掴みかからんばかりの勢いで叫ぶコナン。博士が慌てて後ろからその肩を抱えた。
「コナン君、落ち着くんじゃ!」
圭人は震える手で探偵バッジを手に取り、警察の目を意識しながら、必死に呼びかけ続けた。
「哀ちゃん! 応答してくれ! 哀ちゃん!! 哀ちゃん!!!」
返ってくるのは、無慈悲な砂嵐の音だけ。
「ダメじゃ、圭人君……。海中じゃ、電波は届かん……」
「……ああっ、クソッ!!!」
圭人は咆哮と共に、目の前の大理石のテーブルを、力任せに殴りつけた。
「……ッ!!」
凄まじい衝撃音がロビーに響き渡り、テーブルに亀裂が走る。
目暮たちはその激しさに言葉を失い、一歩後ずさった。いつも温和な圭人の、修羅のような形相に圧倒されたのだ。
その様子を見た目暮警部が、地図を広げてコナンに潜水艦の目撃地点を尋ねた、その瞬間だった。
(……!?)
圭人の脳裏に、激しいノイズと共に黒いティガの残像が走った。
それは光の守護者としての記憶ではない。超古代、闇の戦士として大地を蹂躙し、絶望を振り撒いていた頃の、おぞましくも強力な力の断片。
光を失い、闇を纏った漆黒の戦士が、一瞬だけ鮮明に浮かび上がり、彼の意識を焼き尽くすように消えた。
(……また、これか……)
怒りが極限に達した時にだけ現れる、呪われた記憶。
それが何を意味するのか、今の圭人にはわからなかった。ただ、あの闇が自分の中に確かに眠っていることだけは、嫌というほど感じていた。
◆
悪夢のような一夜が明け、八丈島のホテルには重苦しい朝が訪れた。
ロビーでは、阿笠博士が園子や少年探偵団の面々を前に、必死に平静を装っていた。
「いやぁ、哀君なら急に体調を崩しての。ワシの車で一足先に東京へ帰したんじゃよ」
「ええっ!? 哀ちゃん、大丈夫なの!?」
歩美が心配そうに身を乗り出すと、元太も不満げに顔を歪めた。
「なんだよ、せっかくクジラ見に行くって楽しみにしてたのによ……。灰原のやつ、そんなに具合悪いのか?」
「そうですよ、博士。僕たちに一言あっても良かったじゃないですか」
光彦も寂しそうに肩を落とす。博士は「すまんの、急なことじゃったから……」と、胸を締め付けられる思いで繰り返すしかなかった。
その横で、蘭は一言も発さず、ただ悲しげな瞳を伏せていた。
「蘭……大丈夫? 昨夜からあんまり眠れてないんでしょ」
園子が心配そうに蘭の肩に手を置く。親友のただならぬ様子に、園子もまた胸を痛めていた。
「……うん。園子、ごめんね。私は大丈夫だから……」
蘭は絞り出すように答えたが、その表情には深い影が落ちていた。
一方、コナンは夜明けとともにパシフィック・ブイへと戻っていた。その隣には、沈痛な面持ちの圭人が同行している。
「……圭人、昨夜は何があったんだ? 俺が連絡した後、すぐに追跡したはずだろ」
二人きりになった通路で、コナンが低く問いかけた。
圭人は小さく息を吐き、穏やかながらも悔しさを滲ませた口調で答えた。
「……悪い。廊下でさ、見たことない女に足止めされちゃってさ。……完敗だよ。手も足も出なかったんだ」
「圭人が、女に完敗……?」
コナンの目に驚愕が走る。
「うん。当然俺も抵抗はしたんだけど……あんな動き、人間業じゃない。あいつを抜こうとした瞬間にさ、一撃で意識飛ばされちゃって。……情けないよなぁ、本当」
二人はメインルームに到着し、黒田や牧野が見守る中、昨夜の防犯カメラの映像をチェックした。しかし、モニターに映し出された映像を見たコナンの表情が険しくなる。
「……改竄されてる」
そこに映っているのは、静まり返った道路と海だけだった。博士の車も、灰原を連れ去ったウォッカたちの車も、ましてや海面に浮上したはずの潜水艦も、影も形もない。
「牧野局長、解析はどうなっていますか」
黒田の問いに、責任者の牧野洋輔は脂汗を浮かべながらキーボードを叩いた。
「……ダメです。システムにバックドアを仕掛けられたためか、特定の位置にあるカメラが完全に制御されています。直美さんを拉致した犯人の正体も、この映像からは特定できません」
コナンと圭人は顔を見合わせた。内部に潜伏している「ピンガ」の工作。その手際の良さが、救出への道を阻んでいた。
同時刻。漆黒の深海を突き進む潜水艦内。
冷たい金属の壁に囲まれた独房の中で、予備の追跡メガネを着用した灰原は、同じく監禁されていた直美・アルジェントと対峙していた。
直美は、隣に座る灰原の顔をじっと見つめていた。
「……あなた、どこかで。……宮野、志保?」
その名が出た瞬間、灰原の背筋に冷たいものが走った。彼女は反射的に視線を逸らし、警戒心を強める。
「……人違いじゃないかしら」
「でも、その目……。私のアメリカ時代に知り合った彼女に、とてもよく似ているわ」
直美の言葉に、灰原は努めて冷静に返した。
「そんなことより……彼等の目的は何? 何のためにあなたを、私を連れてきたの?」
灰原が口にした「彼等」という代名詞。モニター越しに監視していたウォッカが、ふと口角を上げた。
「……ほう。ガキのくせに、組織を『彼等』と呼びやがったか。あのシェリーと同じ呼び方だ……」
直美の「老若認証」の結果と灰原の言動が、ウォッカの中で一つの線に繋がろうとしていた。
直美はぽつりぽつりと過去を語り始めた。
「私はアメリカで生活していた頃、酷い人種差別を受けていたの。それを助けてくれたのが志保だったわ。……この老若認証も、本当はそんな差別をなくすために開発したものなのよ。……なのに」
その時、独房のスピーカーから冷酷な声が響いた。
「美談はそこまでよ」
扉が開き、キールが姿を現す。
「直美、協力しなさい。さもなければ……」
通信用モニターに映し出されたのは、EU議会議員である直美の父、マリオ・アルジェントの姿だった。
「お父さん!?」
「今まさに、コルンの照準がお前の父親を捉えているわ」
画面の中では、車から降りるマリオと、彼を狙うコルンの銃口が映る。
「やめて! お願い、何でもするから!」
直美が悲鳴を上げるが、非情にもカウントダウンは進む。FBIの救助は間に合わず、一発の乾いた音がモニター越しに響いた。
画面の中のマリオが崩れ落ちる光景が、無慈悲に映し出された。
「……嘘。私のせいで、私が拒否したせいで……!」
直美はその場に泣き崩れた。
灰原は、震える手で直美の肩に触れた。
「……泣かないで。子どもの言葉や行動一つで、誰かの人生が大きく変わることもある。……あなたを助けた彼女も、きっと今のあなたを責めたりしないわ」
灰原の瞳には、かつての自分と重なる直美への深い共感が宿っていた。
「行きましょう。ここで立ち止まっていても、奴らの思う壺よ。一緒に、ここから脱出するの」
その力強い言葉を、キールは背後で静かに聞いていた。
キールが独房の外へ出ると、そこには一人の女が立っていた。潜水艦に戻っていたアマレットだ。
「……何をしているの、キール」
「……ただの脅しよ。直美の戦意を喪失させていただけ。あなたこそ、戻っていたのね」
「ええ。少し外で……余興を楽しんできたところよ」
アマレットは挑発的に微笑むと、悠然と去っていった。キールは独房の扉を見つめ、静かに拳を握りしめた。