ヒーローと名探偵 作:タルマヨ
漆黒の深海を突き進む、鋼鉄の怪物――組織の潜水艦。その独房の一角で、灰原哀は隣に座る直美・アルジェントの手を固く握りしめていた。絶望に震える直美の耳元で、灰原は静かに、だが断固とした声で囁く。
「……いい、直美さん。チャンスは一度きり。私が合図をしたら、迷わず走って」
灰原は密かに、キールの襟元に仕込んだ盗聴器の感度を最大に上げていた。一方、コントロールルームでは、ウォッカがキールを伴い、ジンの到着に備えた最終チェックを行っていた。
「おい、キール。ハッチの開閉準備はいいか?」
「ええ、問題ないわ。……でもウォッカ、もし緊急事態が起きた場合、この独房エリアから直接海へ抜けるルートはあるの? ジンが来る前に把握しておきたいのだけど」
キールは灰原が盗聴していることを確信しながら、あえてウォッカから情報を引き出すよう誘導した。ウォッカは鼻で笑い、無造作に計器の並ぶモニターを指さす。
「緊急脱出用の
盗聴器越しにその情報を得た灰原は、直美に鋭い目配せをした。
「……聞いたわね。行くわよ」
ジンの乗るヘリが潜水艦の上部に着艦し、艦内が合流の喧騒に包まれた一瞬の隙。灰原と直美は監視の目を掻い潜り、独房を抜け出して前室へと滑り込んだ。だが、重厚なハッチの操作盤に手をかけた瞬間、艦内に異常を知らせる赤い警告灯が回り、アラームが鳴り響く。
「……何ッ? 鼠が逃げ出しただと!?」
艦橋に降り立ったジンが、冷酷な瞳を細め、口角を歪めた。彼は迷うことなく、コントロールパネルにある巨大なレバーに手をかける。
「ふん……。前室に閉じ込めたまま、一気に空気圧縮をかけて潰してやれば、海の藻屑になる手間も省けるというものだ。……死に場所としてはお似合いだな、シェリー」
「待ちなさい、ジン!」
キールが割って入った。
「ここで二人を殺せば、シェリーの持っているかもしれない『組織の秘密』まで闇の中よ。ラムにどう報告するつもり?」
「……。どけ、キール。あの方の不利益になる種は、今のうちに摘み取っておくのが俺のやり方だ」
ジンは氷のような視線でキールを射抜くが、彼女は必死に食い下がり、論理的な反論をぶつけてジンの指先をレオンから数秒間だけ逸らさせた。
そのわずかな「数秒」。
灰原は死に物狂いで操作盤を叩き、前室の注水を完了させ、外側のハッチを強引に開放した。
「……直美さん、息を止めて!」
激しい水圧と共に、二人の体は夜の海へと投げ出された。暗く、凍えるような深淵。意識が遠のきそうになる中、上層から強烈な光の筋が差し込んだ。
「……哀ちゃん! 俺に掴まれ!!」
海中を切り裂くような速度で現れたのは、阿笠博士が開発した特製電動モーターを装備した圭人だった。彼は潜水服を纏い、二人の腰を抱き寄せると、モーターの出力を最大に上げた。
「……星野、君……」
灰原が安堵から意識を失いかける中、圭人は彼女を背中に、直美を腕に抱え、潜水艦の追撃が届かない浅瀬へと一気に浮上した。
数時間後。パシフィック・ブイ内の医務室。
窓の外では雨が上がり、静かな夜が戻っていた。直美は温かいスープを口にし、ようやく生きた心地を取り戻したように吐息を漏らした。
「助かったのね……。信じられない……」
「……ええ。彼らが、無茶をしてくれたおかげよ」
灰原もまた、肩にかけられた厚手のブランケットを握りしめ、治療を終えたばかりの圭人と、隣のベッドで休むコナンを見つめた。
「圭人君、直美さん。……本当によかった。無事で」
駆けつけた阿笠博士が、眼鏡を曇らせて涙ぐむ。圭人は少し照れくさそうに笑いながら、丸みのある口調で答えた。
「うん、間に合ってよかったよ。……でもコナン、これで終わりじゃないんだよね。あいつらはまだ、この近くにいるんだ」
「ああ……」
コナンは脇腹の痛みに顔をしかめながらも、険しい表情のまま窓の外を見つめていた。灰原を救い出した安堵。しかし、自分の正体がピンガに知られたという最悪の爆弾を抱えたまま、事態はさらに深刻な局面へと突き進もうとしていた。
「それに…まだあの女も…」
◆
潜水艦の最深部、冷徹な空気が支配する司令室。ラムからの通信が途絶えた後、ジンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。ラムはこの「パシフィック・ブイ」が持つ世界中の監視カメラを繋ぐ網を利用し、長年行方を眩ませている「あの方」の居場所を特定しようと目論んでいた。だが、その野心に冷や水を浴びせる事態が発生する。
「……ジン、これを見て」
リモート画面に映るベルモットが手元の端末を操作し、老若認証システムの結果をメインモニターに映し出した。そこには、世界各地の監視カメラが捉えた「シェリー」の姿が次々と表示されている。しかし、そのどれもがベルモットが変装して仕掛けた偽物だった。
「システムが、世界中にいる私をすべて『同一人物の成長した姿』だと誤認したわ。……つまり、このシステムは欠陥品。あの子がシェリーだという保証も、どこにもないということになるわね」
ベルモットは単独でボスと連絡を取り、このシステムの脆弱性を直接報告していた。ボスの下した決断は迅速かつ冷酷なものだった。――「組織の不利益になるシステムは、この世から消し去れ」。
「……。チッ、どいつもこいつも、このクソシステムに踊らされてやがったのか!!」
ジンは激昂し、傍らの鉄壁を拳で激しく殴りつけた。鈍い衝撃音が響き渡り、独房から逃げ出したシェリーを追う価値すら失われたことに、彼の怒りは頂点に達する。
「ウォッカ! 浮上して魚雷の準備をしろ。こんなガラクタ共々、パシフィック・ブイを海の底へ沈めてやる!!」
ジンの命により、潜水艦は攻撃態勢へと移行した。これにより、システムが弾き出した「灰原哀=シェリー」という唯一の真実は、膨大な誤情報の波に飲み込まれ、組織の関心から完全に切り離された。
一方、潜水艦の片隅で、アマレットはこの一連の狂乱を冷めた眼差しで静観していた。彼女にとって、組織の政治的な駆け引きやシステムの成否などは、枝葉末節に過ぎない。
(……老若認証は消える。私が手を下すまでもなくなったわね)
だが、彼女の意識は別の方向へ向いていた。パシフィック・ブイの方向に視線を向けた瞬間、彼女の瞳に不気味な光が宿る。それは人間が持つ直感を超えた、高次元の「察知」だった。
(……間違いなく、あそこにいる。あの小僧……星野圭人。彼の中に眠る、忌まわしき『光』の胎動を感じるわ……)
アマレットにとって、ティガの光を継ぐ者は、自らの「闇」を完成させるために排除すべき絶対的な障壁だった。組織が施設を破壊しようとしている今、混乱に乗じて標的を仕留める絶好の機会だと判断する。
「……キール、ウォッカ。私は少し、後片付けをしてくるわ」
「後片付け……? おい、アマレット! どこへ行くんだ!」
ウォッカの制止を無視し、アマレットは音もなく潜水艇へと乗り込んだ。彼女の目的は、もはやシェリーではない。パシフィック・ブイの崩壊という阿鼻叫喚の渦中で、光の担い手である圭人を永遠に葬り去ること。
深海から放たれる魚雷のカウントダウンが始まる中、もう一つの「闇」が、圭人の命を狙って動き出した。
「魚雷接近! 距離三〇〇〇!」
パシフィック・ブイのコントロールルームに、オペレーターの悲鳴が響き渡った。モニターには、深海の闇を切り裂き、施設へと肉薄する複数の光点が映し出されている。
「デコイ射出! 早くしろ!」
牧野の鋭い号令とともに、施設から複数のデコイが放たれた。水中爆鳴音が幾度も響き、一度は魚雷を逸らすことに成功する。だが、その安堵は一瞬で打ち砕かれた。
「……バカな! デコイのシステムがロックされた!? 制御不能です!」
フィリピンに潜伏するベルモットが、遠隔操作で施設のメインシステムを完全掌握。次弾を防ぐ術を奪われたパシフィック・ブイは、もはや巨大な標的に過ぎなかった。
「総員退避! 施設はもう持たん、全員脱出を急げ!!」
黒田管理官の怒号が室内に響き渡る。騒然とする中、推理ショーを終えて隅で眠りこけていた小五郎が、警報音と激しい振動にガバッと飛び起きた。
「うおぉっ!? な、なんだ!? 敵襲か、それとも地震か!?」
「何をしとるんだ毛利君! さっさと逃げんか!!」
駆け寄った目暮警部に襟首を力任せに掴まれ、状況が飲み込めない小五郎は「ひえぇ〜! 待ってください警部殿っー!」と情けない声を上げながら、避難の列へと押し込まれていった。
一方、その混乱の最中、コナンは独り、パシフィック・ブイのデッキに立っていた。耳には二つのインカム、手には二台のスマホを握りしめている。
「赤井さん、安室さん、聞こえる!?」
潜水艦内部の
「(パシフィック・ブイが沈めば、ピンガにデータを持ち去られる。……その前に、あの潜水艦を叩く!)」
コナンは阿笠博士の発明した電動モーターを装着し、荒れ狂う海中へと飛び込んだ。冷たい水圧に抗いながら、潜水艦の正確な位置を特定するために深く潜る。
『あぁ、聞こえてるよコナン君。……潜水艦、浮上を開始した。位置を送る』
インカム越しにバーボンの低く落ち着いた声が届く。
「……準備はいいか、ボウヤ」
赤井秀一が、ヘリのドアを開け放ち、ロケットランチャーを肩に担いで照準を絞る。
「ああ、今だ!!」
コナンの合図とともに、海中から巨大な光の玉が射出された。花火ボールが海面を突き破り、夜空高くで鮮烈に弾ける。それが、深海に潜む怪物の位置を完璧に指し示す「標的」となった。
「堕ちろ……」
赤井が引き金を引く。放たれたロケット弾が真っ直ぐに軌道を描き、浮上していた潜水艦の側面に直撃した。爆炎が夜の海を赤く染め上げ、鋼鉄の巨体が大きく傾ぐ。
だが、潜水艦は沈まない。
「(……チッ、これでも粉砕できねぇのかよ!)」
コナンは荒波に揉まれながら、火を噴きつつもなお海中へと逃れようとする組織の潜水艦を、歯を食いしばって見つめていた。
しかし、この混乱に乗じて動き出していたのは、組織の潜水艦だけではなかった。
パシフィック・ブイの崩壊、そして潜水艦の被弾。その阿鼻叫喚の渦中で、アマレットが圭人の息の根を止めるべく、死神の如き速さで迫っていた。
パシフィック・ブイが魚雷の衝撃に揺れ、上空で赤井が放ったロケット弾が潜水艦を捉えたその頃。混乱を極める施設の喧騒から遠く離れた八丈島の外れ、切り立った断崖が続く海岸付近。
圭人は、荒波が岩を打つ音だけが響くその場所で、独り立ち尽くしていた。背後から近づく気配に、彼は振り返ることなく口を開く。
「……やっぱり、来たな」
ゆっくりと歩み寄ってきたのは、組織のメンバー「アマレット」だった。彼女は人間体のまま、圭人の数メートル先で足を止めた。月明かりに照らされたその表情には、静かで、それでいて底知れぬ悪意を孕んだ笑みが浮かんでいる。
その瞬間、圭人の胸の内でティガの光が、かつてないほど激しく脈動した。警告、あるいは共鳴。もはや疑う余地はない。
「その反応……お前、ただの人間じゃないな。ゾルブ……それも魔人クラスの高い知性を持つ個体だ」
圭人の鋭い指摘に、アマレットはくすくすと喉を鳴らした。
「流石は光の担い手。察しがいいわね」
「何故ゾルブが『組織』の中にいる? お前たちの目的は何だ。あいつらを利用して何を企んでいる?」
普段の砕けた口調とは違う、冷徹なまでの真剣な問い。アマレットは隠す様子もなく、艶然と微笑みながら答えた。
「利用? ええ、そうね。あの組織は実に効率的だわ。ヒトの欲望と悪意を煮詰めたような場所。私は内部情報を着実に収集しながら、組織を内側から乗っ取る計画を静かに進めてきた……。あの『あの方』や、ジンという男が積み上げてきたものを、すべて私の糧にするためにね」
「……組織を乗っ取るだと?」
「ええ。でも、その前に邪魔な光を消しておかなくてはならないの。パシフィック・ブイが消える今、ここはお前の墓場に相応しいと思わない?」
アマレットの言葉が終わると同時に、周囲の空気が一変した。170cmほどの女性の輪郭が陽炎のように揺らぎ、霧散していく。肉体は見る間に変質し、全身が鋭利な氷の結晶へと作り変えられていった。
それは、美しくも悍ましい「氷鳳体」への変貌だった。
鷹を彷彿とさせる鋭い頭部、全身を覆う硬質な氷の外骨格。背中からは巨大な翼が広がり、彼女の身長は190cmを超える巨大な怪物へと膨れ上がる。
足元からは凄まじい冷気が迸り、真春の海辺であるはずの場所に雪の結晶が舞い散った。
「さあ、見せてごらんなさい。その光が絶望に染まる瞬間を……!」
氷の鳳凰が翼を広げ、周囲の気温を一気に氷点下まで引き下げる。圭人は懐からスパークレンスを取り出し、真っ直ぐにアマレットを見据えた。
「くっ……そんな勝手な理屈、通させるわけにはいかないんだよ」
逃げ場のない海岸線で、光と闇の再戦が今、始まろうとしていた。