ヒーローと名探偵 作:タルマヨ
夜の深淵を湛える八丈島近海。
海中には、内部崩壊を続ける巨大施設パシフィック・ブイの残骸と、逃げ場を失った鋼鉄の棺桶――組織の潜水艦が不気味に浮遊していた。
潜水艦のハッチ付近、離脱用の小型艇の傍らで、ピンガは苛立ちを隠せずにいた。手元の端末には、ジンへ送ったいくつものメッセージが並んでいる。しかし、そのすべてに既読が付くことはない。
「……ハッ、既読無視かよ。わかりやすいぜ、ジン……。あの野郎、俺を消すつもりだな」
自嘲気味に笑った刹那、ピンガの背筋を氷のような悪寒が走った。海中という、音の伝達が鈍いはずの環境で、大気が物理的に軋むような、不吉な「唸り」が聞こえてきたのだ。
振り返ったピンガの視界が、漆黒の絶望に射抜かれる。
泡立つ海水の向こう側から、揺らめくように現れた戦士。それは、先ほどまで光り輝いていた姿とは似ても似つかない、禍々しい「闇」そのものだった。
「……な、なんだ……!? なんだよ、お前は……ッ!!」
ピンガは酸素マスク越しに驚愕の声を上げたが、次の瞬間、その口角は醜く吊り上がった。正体不明の化身、ジンの裏切り、そして迫り来る死。そのすべてが混ざり合い、彼の理性を狂喜へと変質させる。
《……お前か……
エコーの掛かった、地獄の底から響くような声。
圭人の微かな意識が、連れ去られた灰原を、そして多くの人々を恐怖に陥れた元凶を捉えた。漆黒の腕が交差する。周囲の海水が黒いプラズマへと変貌し、闇の粒子が真空を作り出すほどの密度で凝縮されていく。
「……ハハッ、ハハハハハ!! 傑作じゃねぇか……!!」
ピンガは逃げることも、命乞いをすることもしなかった。ただ、目の前の漆黒の深淵を、そして自らを消そうとするジンの策動を嘲笑うように、激しい気泡を吐き出しながら笑い声を上げた。
《……消えろ》
至近距離から放たれた、漆黒の奔流。
海水が瞬時に蒸発し、真空の道を作りながらピンガを飲み込んだ。
ドォォォォォォォォォォォン……!!!
その瞬間、ジンが仕掛けた潜水艦の自爆装置が最終段階に達した。
放たれた闇の奔流と、潜水艦の爆破による連鎖反応。二つの巨大なエネルギーが海中で衝突し、周囲の海域を真っ白な光と、逃げ場のない衝撃波が支配した。
ピンガはその光の中に消えていく瞬間まで、不敵な笑みを崩さなかった。ジンの冷酷さと、自分を葬った「未知の深淵」への呪詛を笑いに変えて、組織の暗殺者は塵となって消滅した。
凄まじい爆風は漆黒の戦士をも容赦なく吹き飛ばした。
胸元のカラータイマーが、狂ったような速度で不吉な赤を点滅させている。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ
ピッ――……!!
《……あ……がっ……》
黒い結晶による過剰なエネルギー供給と、爆発の凄まじい衝撃により、圭人の意識は限界を迎えた。闇の鎧が粒子となって崩れ去り、海中に投げ出されたのは、ボロボロになった一人の青年――星野圭人の姿だった。
重力に引かれるように、圭人の身体は意識を失ったまま、底の見えない深い海へと沈んでいく。
彼の左腕についている、アストロウォッチが静かに反応しながら、鈍い銀色の光を放ちながら深海へと吸い込まれていった。漆黒の海面に、アストロウォッチの微かな発信信号だけが、主を失ったかのように点滅を続けていた。
漆黒の海面に、凄まじい衝撃波が円を描いて広がった。
潜水艦の爆破と、正体不明のエネルギーが激突した余波は、モーターボートで海域を捜索していたコナンたちの身を震わせた。
「な、何なの……?今の凄い爆発……!?」
蘭が船縁を掴み、大きく揺れる船体で必死にバランスを取る。
コナンは爆心地を見つめ、歯を食いしばった。どこかにに必ず圭人がいるはずだ、と。
「圭人……! 圭人兄ちゃん!!」
コナンの叫びは空虚に響く。
その傍らで、灰原は阿笠博士から借り受けた予備の犯人追跡メガネのレンズを、指が震えるほど強く押し付けていた。
「……あ」
レンズに映る発信信号。圭人が身につけていたアストロウォッチの光が、急速にその輝きを失いながら、海図の深度を深めていく。
「星野君……。信号が、沈んでいくわ」
灰原の言葉に、船上の空気が凍りついた。
「あ、哀君、沈んでいくって……まさか、圭人君か……!?」
博士の声が上ずる。コナンは即座に飛び込もうとしたが、それよりも速く、灰原がボートに積まれていた水中移動用の電動モーターをひったくった。
「博士、これを借りるわよ」
「哀君!? 何を――」
「星野君の信号が消えかかっているの。一刻を争うわ」
灰原の瞳には、かつてないほどの決死の光が宿っていた。彼女は予備の簡易酸素ボンベを首にかけ、蘭やコナンの制止が耳に入らないかのように、迷わず海中へとその身を投げ出した。
「哀ちゃん!!」
「オイ灰原!待て! 一人じゃ危険だ!!」
蘭とコナンの叫びを背に、灰原は水の下へと消えた。
海の中は、パシフィック・ブイの崩壊による瓦礫と、潜水艦の破片が入り乱れる混沌とした世界だった。
視界は悪く、油の混じった海水が視界を遮る。灰原は電動モーターのスイッチを入れ、メガネに表示される信号だけを頼りに深く、深く潜っていった。
(どこ……どこにいるの、星野君……!)
心臓の鼓動が耳元でうるさく響く。
深度が増すごとに水圧が身体を締め付け、冷たさが体温を奪っていく。
どれほど潜っただろうか。
暗く沈んだ海底へ向かって、ゆっくりと、力なく沈んでいく人影が、電動モーターのライトに照らされた。
「……っ!!」
それは、変身が解け、満身創痍となった圭人の姿だった。
意識を失い、口元からは最後の気泡が漏れ出している。
灰原はモーターを放り出し、残された力を振り絞って彼のもとへ泳いだ。圭人の身体を抱き寄せると、その顔は青白く、呼吸はすでに止まりかけていた。
灰原は迷わなかった。
自分の首にかけていた簡易酸素ボンベから一息深く吸い込むと、それを圭人の口元へ寄せた。
彼に空気を送り込むため、その唇を重ねる。
(お願い、戻ってきて……!)
肺の中にある酸素をすべて分け与えるように、必死に人工呼吸を繰り返す。
一度、二度。
三度目の呼吸を送り込んだとき、圭人の身体がびくりと震えた。
「……ごほっ、……ぅ……」
圭人の瞳が、微かに開かれた。
濁った意識の中で、自分を必死に抱きかかえ、酸素を分け与えてくれる少女の姿を捉える。
「……ぁ……志保……さん……?」
圭人は掠れた声を出そうとしたが、灰原は彼の胸を叩き、自分の酸素マスクを交互に使いながら、力強く首を振った。
そして、彼の手をぎゅっと握りしめる。
海中では、言葉は必要なかった。
『助けてくれて、ありがとう』
『いいから、生きなさい』
繋いだ手から、互いの体温が伝わってくる。
二人は一息の酸素を分け合いながら、電動モーターを再び掴み、重い水圧を押し返してゆっくりと海面へと浮上していった。
岸辺にたどり着いたとき、夜は白み始めていた。
砂浜に這い上がり、荒い息を吐く二人。
圭人は全身の倦怠感と、ティガダークの記憶の残滓に苛まれながら、朦朧とした意識の中で灰原の顔を見上げた。
「……ごめん……。志保さんをホテルで……助けられなくて……ずっと、後悔してたんだ……」
震える声で謝罪する圭人を、灰原は濡れた髪を払いながら、少しだけ呆れたような、しかしどこか優しい眼差しで見下ろした。
「そ、そんなことは、後でたっぷり反省しなさい。……今はただ、生きていたことを喜びなさい。全く…馬鹿な人ね……」
灰原はそう言って、海を見つめた。
人工呼吸のためだったとはいえ、唇に触れた感触が、冷えた身体の中でそこだけ熱を持っているように感じられた。
彼女は、まだ状況を完全には理解していないであろう圭人の横顔を盗み見る。
(星野君……。貴方は気づいているの……?)
灰原は自分の胸の高鳴りを隠すように、小さく息を吐いた。
朝日が、静かに二人を照らし始めていた。
◆
翌日、ニュースはパシフィック・ブイの崩壊を報じると共に、マリオ・アルジェントが一命を取り留め、意識を回復したことを伝えていた。
空港の出発ゲート前。人混みの中で、灰原と直美は静かに向き合っていた。
「……ありがとう。あの時、貴女がかけてくれた言葉に救われたわ」
監禁中、絶望の淵にいた自分を繋ぎ止めてくれた声。直美は万感の思いを込めて感謝を伝えた。
灰原は表情を崩さず、どこか遠くを見つめるように答える。
「私は、ただの独り言を言っただけよ」
別れの時。背を向けて歩き出した直美は、ふと足を止め、小さく、だが確かな意志を込めて呟いた。
「……さよなら。志保…」
灰原はその言葉に足を止めることはなかったが、わずかに視線を伏せ、そのまま雑踏の中へと消えていった。
空港の吹き抜け、上の階のテラス。
そこには、一人の着物姿の老婦人が佇んでいた。
一方、ロビーの柱の影では、コナンが安室からの報告を受けていた。
《……システムは使い物にならないと判断されたよ。老若認証は、世界各地でその欠陥を露呈したからね》
受話器越しに聞こえる安室の声は、冷徹なまでに淡々としていた。
コナンは電話を切ると、視線を鋭くさせた。
(ベルモットが変装して世界各地でシステムの欠陥を証明して回った……。結果として、システムは破棄され、灰原の正体が露呈する最悪の事態は避けられたが……)
コナンには、なぜ彼女がそこまでして灰原をかばう真似をしたのか、その理由が分からずにいた。
ふと気配を感じ、コナンが上階のテラスへ視線を走らせる。
だが、そこにはもう、誰の姿もなかった。
空港の外へ向かう人混みの中。
先ほどの老婦人は、悠然とした足取りで歩を進めていた。
変装したベルモットの着物の帯締めには、あの日、幼い少女から譲り受けた「フサエブランド」の限定ブローチが、朝の光を反射して誇らしげに輝いていた。
彼女は誰に告げるでもなく、不敵に、そしてどこか満足げに微笑んだ。
◆
八丈島での激闘から数日後。米花町の阿笠邸では、静かな茶会の時間が流れていた。テーブルを囲む圭人、コナン、灰原、博士の4人の間には、どこか張り詰めた空気が漂っている。
「……それで、海の中では一体何が起きていたんじゃ?」
博士が神妙な面持ちで問いかけると、圭人は手元のティーカップを見つめたまま、静かに口を開いた。
「……アマレットは、俺がこの手で葬ったよ。でも、あいつはもう人間じゃなかったんだ」
圭人は断崖での対峙を思い返すように言葉を継いだ。
「あいつの正体は、超古代の闇の意識体……『ゾルブ』だったんだ。それも魔人クラスの知性を持った個体だね。組織を信奉してるわけじゃなくて、ヒトの悪意を利用して、組織の奴らを内側から乗っ取ろうとしてたんだよ。トップの奴やジンが積み上げてきたものを、全部自分の糧にするためにね。パシフィック・ブイの混乱に乗じて、俺という『光』を消そうとしたんだ。だから、俺はあいつを止めるしかなかったんだよ」
圭人は少し声を落とした。
「あのアマレットの氷鳳体を、俺はティガダークの漆黒の奔流で真っ向から粉砕した。あいつは原子レベルで分解されて、銀色の砂になって消えたよ。あいつが抱いていた歪な野望も、もうこの世には残ってないんだ」
圭人の言葉に、コナンが鋭い視線を送る。
「組織を乗っ取ろうとしていたゾルブ……。ピンガはどうなったんだ。自爆装置が作動した潜水艦と一緒に消えたのか?」
「うん。ピンガは……ジンの裏切りを知ってもなお、その冷酷さを嘲笑うようにして、潜水艦の爆発と、俺の放った闇の中に消えていったよ。あいつは最期まで、不敵に笑いながら死んでいったんだ」
圭人は静かに自分の手を見つめた。
「潜水艦も、ピンガも、アマレット――ゾルブも。俺が放った闇と爆発の連鎖の中で、すべては海の底に沈んだんだよ」
「……そう…」
灰原が静かに呟くと、圭人は重く頷いた。
一方、島に残された他のメンバーたちの様子を博士が補足した。
「蘭君と園子君は、君たちの無事を確認して心底ホッとしておったよ。今はもう東京に戻って、いつもの日常に戻っておる。園子君などは『またとんだ災難だったわ』とボヤいておったがな」
「元太、光彦、歩美ちゃんも、潜水艦のことや圭人のことは『大きなクジラでもいたんじゃねーか?』なんて言い合って、今はもう給食のメニューに夢中みたいだぜ」
コナンがいつもの口調で付け加えると、灰原もわずかに口角を上げた。
「……そう。それでいいのよ。彼らは何も知らずに、笑っていればいい」
灰原はそっと自分の唇に触れ、あの日、海中で圭人と交わした体温を思い出す。それは救急措置のための人工呼吸だったが、彼女にとってはそれ以上の、重い意味を持つ記憶となっていた。
圭人は顔を上げ、窓の外の青空を見つめる。
「……今回の件で、俺の中にある闇の危うさを知った。でも、救い出してくれた人がいたから、こうして戻ってこれたんだ」
圭人の視線が灰原と重なる。灰原はふいと視線を逸らしたが、その耳たぶはわずかに赤らんでいた。
「……勘違いしないで。私はただ、これ以上後味の悪い結末を見たくなかっただけよ。星野君」
「う、うん」
圭人の穏やかな返事に、阿笠邸にはいつもの、けれど少しだけ絆の深まった穏やかな時間が戻ってきた。八丈島の深い海に沈んだ闇の記憶は、今はまだ、圭人の胸の中にだけ留められている。