01 エンジュ・ワタル / 0.1Gの羊水
## エンジュ・ワタル
共鳴者《レゾナント》として選ばれた。
人類のために死ぬのは誉れだ、と言えるほど立派な志は持っていない。
けれど、運命から逃げたいとも思っていない。
木星圏からやってくる怪獣《KAIJU》。
核攻撃すら無効化するその外殻を、俺たちは「ただの空気」で焼き尽くす。
地球圏に接近してきた怪獣をつかみ、動きを封じ、高度120kmから60kmのMLT領域で解体する。
大気圏という名の『巨大な焼却炉』で焼き殺すわけだ。
そのための部品、共鳴者《レゾナント》。
そのためのシステム、共鳴駆動兵器《レゾナンス・ドライバー》。
選ばれた人間として、軍人の道を選ばされたけれども、普通に生まれていれば、他の人生があったのかな、と思うこともある。
けれど、こんな時代だ。
やれることを、やるだけだ。
ナギのことは好きだ。
彼女のことを考えると、死にたくはないな、と思う。
彼女の笑顔をずっと見ていたい。彼女が奏でるピアノをずっと聴いていない。
彼女の指が鍵盤の上で踊るのを、彼女のそばでずっと見ていたい。
あの鉄の塊を動かす理由なんて、そんなものでいい。
そんなふうに、思っていたんだ。
## 0.1Gの羊水
西暦2075年。
ゴォォォォ……という低い唸りが、鼓膜ではなく、頭蓋骨を直接震わせていた。
水深八メートル。統合軌道士官学校『クレイドル』第7区画、無重力プール。
循環ポンプの重低音が、まるで巨大な生物の胎内にいるような錯覚を覚えさせる。
「えいっ!」
突如、静寂を破る水飛沫。
ナギがプールサイドから飛び込んだ。
白砂《しらさご》ナギ。
クレイドル統合軌道士官学校、戦術機動科2年。クラス委員長を務める優等生でありながら、その内側には硝子細工のような危うさと、燃えるような情熱を隠し持っている。
制服のままではない。水着姿の彼女は、重力から解放された喜びを全身で表現するように、空中で一回転して水面へ突き刺さった。
ザパァァァン!
遅れて、ワタルが息を切らせて駆け込んできた。
槐《えんじゅ》ワタル。
同じくクレイドル統合軌道士官学校、戦術機動科2年。
「ちょ、待てよナギ!」
「こっちこっち!」
ナギが水面から顔を出し、手招きをする。
イタズラっ子の顔だ。
昼間の優等生モードとは違う、年相応の無邪気な笑顔。
「いいのかよ、真夜中に学校のプールなんて……。見つかったら停学だぞ」
「いーのっ!」
「今日のお前、テンションおかしい」
ワタルは呆れながらも、口元を緩めた。
こんな笑顔を見るのは久しぶりだった。
彼女はいつも何かに耐えるような顔をしていたから。
ワタルは少し気後れしながらも、Tシャツを脱ぎ捨て、彼女を追って水の中へと身を投げた。
ドボン。
瞬間、世界が変わる。
水温は人間の体温と等しい36度。
皮膚と水との境界線が溶け出し、自分の輪郭が曖昧になっていく感覚。世界そのものに浸食されているような、頼りない浮遊感があった。
ワタルは深く息を吐いた。
口元から漏れた気泡は、地上のような速度では昇らない。
ここは宇宙ステーション。
重力は回転軸の外側に向かって生じている。
銀色の葡萄の房のように連なった気泡は、ゆっくりと回転しながら、顔の周りを惑星のように公転し、やがて緩やかに拡散していく。
隣に、ナギが泳いできた。
プールの底窓から差し込む地球光《アース・ライト》が、水中で揺らめき、拡散する。
その青白い燐光が、彼女の輪郭を淡く侵食し、発光魚のように揺らめいていた。
まるで生身のまま、真空の宇宙を遊泳しているかのようだ。
重力から解放された長い黒髪が、海藻のように広がり、彼女の顔を覆い隠したり、また露わにしたりしている。その隙間から覗く白い肌は、生きているのか死んでいるのかわからないほどに透き通っていた。
ナギの水着は、飾り気のない紺色だった。
士官学校である。
無粋な紺色の化学繊維が、収まりきれない肢体を、きつく締め付けている。
張り付く布地が、肩甲骨の浮き出た華奢な背中や、丸みを帯びた胸の膨らみを縁取っていた。
地球光を受けて、キラキラと輝いている。
けれどその儚さが、青白い光の中で、不思議なほどの聖性を帯びているように思えた。
彼女はプールの底――厚さ50センチの対放射線積層ガラスへ向かって、無防備に沈んでいく。
そのさらに向こう。
ガラスという薄皮一枚を隔てた彼方には、吸い込まれそうなほどの「虚無」が広がっていた。
地球だ。
視界を埋め尽くす巨大な曲線。
夜の闇に沈む大陸と、その縁を縁取る大気層《ファイア・オーシャン》の赤い輝き。
本来なら恐怖を感じる高度だ。
500キロメートルの直下にある死の世界。
落ちれば摩擦熱で骨まで灰になる地獄。
それを水中から見下ろしている自分たち。
不思議な安らぎがあった。
羊水に守られた胎児の全能感に似ていた。
まだ何者でもなく、何の罪も背負っていない、生まれる前の子供だけが許される万能の時間。
校則を破っているという背徳感さえも、この場所では甘い秘密の味に変わっていくようだった。
ナギが振り返った。
『……きれい』
彼女の唇は閉じられたままだ。
当然だ、水の中で声など出せるはずがない。
だがワタルの脳髄には、彼女の声が直接響いていた。
水という媒質を震わせ、皮膚から骨へ、骨から聴覚神経へ。
ナギの背中、その肩甲骨の間に埋め込まれた銀色の金属端子――レゾナンス・コネクタ――が、蛍のように淡く明滅していた。
近距離であれば、無線通信ができる。
彼女の声が、ワタルの脊椎を震わせ、脳の聴覚野を直接叩く。
くすぐったいような、脳味噌を直接指で撫でられているような感覚。
レゾナント《共鳴者》。
それが自分たちにつけられた名前だ。
怪獣の脳波と「共鳴」するために神経系を作り変えられ、人ならざる声を聞く耳を与えられた少年少女。
この秘密の会話も、彼らに許された特権であり、怪獣との最前線に立たされることへの代償というには、あまりにも少ない見返りといえた。
ナギは指を伸ばした。
ガラスと水の屈折率が生み出すプリズムの向こう、赤く燃える大気の層をなぞるように。その向こうにいるであろう、木星圏からの災厄に対して。
『あの光の向こうには、怪獣《カイジュウ》がいるのね……』
ワタルの背中の端子もまた、微熱を持って明滅する。
『ああ。俺たちが殺さなくちゃいけない化け物だ』
自分たちは何のために生まれたのか。
眼下に広がる火の海へ飛び込み、人類の敵を焼却するためだ。
そのために食事をし、訓練を受け、身体を調整されている。
ガラスの向こう、真空の彼方を、巨人が横切った。
対怪獣戦闘用の機動兵器。レゾナンス・ドライバー。
あれを動かせるのは、巨大ロボットを自分の手足のように動かすためのシステム・共鳴駆動《レゾナンス・ドライブ》を使える自分たちだけだ。
『……ねえ、ワタル』
ナギが水中を蹴り、近づいてくる。
水の抵抗を感じさせない、人魚のような動き。
彼女の手が、優しく、ワタルの手を握った。
温かい。
ひやりとしたプールの水温の中で、彼女の体温だけがはっきりと高く、鮮烈だった。
まるで命そのものが燃えているような熱量。
指先から伝わる脈動が、ドクン、ドクンと、ワタルの心拍と重なった。
『忘れないでね』
『何をだよ』
『この温度。……今夜の、二人だけの思い出』
『おい、縁起でもないこと言うなよ』
ワタルは笑い飛ばそうとしたが、脳に響く彼女の声は真剣だった。
彼女は寂しそうに笑った。
キラキラと輝く瞳が、どこか遠くを見ている。
なぜそんなことを言うのか、ワタルにはわからなかった。
ただ、握られた掌の熱さだけが、冷たい宇宙の中で唯一の残酷な「正解」であるかのように、彼の皮膚細胞の奥底に焼き付いていた。