## 激突
ギャァァァァァン!!
その抱擁を、無機質な警告音が切り裂いた。
背後のエアロック外壁が赤熱し、溶断されていく。
ヒューッ、という甲高い音が鼓膜を刺す。空気が漏れていた。
世界が白く濁る。
急激な気圧低下による断熱膨張。室内の空気が瞬時に霧となり、絶対零度の宇宙へと吸い出されていく。
肌にまとわりつく湿気と、凍てつくような寒気。
生身だ。
このままでは、血液が沸騰して死ぬ。
「離れるな!」
ワタルは強くナギを抱き寄せると、無重力の壁を蹴った。
目指すは、口を開けたままのモリビトのコクピット。
霧の中を遊泳し、シートへと滑り込む。
ナギを膝の上に抱え込み、コンソールを叩いた。
「ハッチ閉鎖! 急速加圧!」
プシュウゥゥゥ……!
分厚い装甲板が閉じられ、外界の「死」が遮断される。
耳がツンと痛むほどの急速な気圧上昇。
直後。
ドォォォォン!!
隔壁が限界を迎え、爆発的な減圧が外の世界を破壊した。
だが、ここは安全だ。
鋼鉄の胎内。
システムが再起動する。
『コア・システム再接続。パイロットバイタル確認……』
ワタルは震えるナギの身体を左腕で抱きしめたまま、右手で操縦桿を握った。
モニターが明滅し、外部カメラの映像が復帰する。
そこに映っていたのは、霧の晴れたエアロックに侵入してくる、八つの赤い眼だった。
アラクネだ。
壁に叩きつけられたはずの怪獣が、外側からゲートを破壊し、侵入してきたのだ。
アラクネが跳躍する。
速い。
暴風の名残の中を、まるで不可視の糸の上を走るようにジグザグに迫ってくる。
モリビトの火器管制システムがロックオンを試みるが、追いつかない。
「くそっ、速すぎる……!」
ワタルは膝上のナギを庇うように身を固くし、残りの腕で応戦しようとする。
だが、K・フルイドのサポートがあっても、守るべきものが懐にある緊張感が、操作を鈍らせる。
アラクネの鋭利な脚が、モリビトの装甲を掠める。
ギャリィィン!
火花。
装甲が紙のように裂け、内部フレームが露出する。
その刹那、アラクネの別の脚がモリビトの脇腹に叩き込まれた。
「うわあああっ!」
50トンの鋼鉄が、まるで空き缶のように吹き飛ばされる。
慣性の暴力。
加速度が、K・フルイドの許容値を一瞬で超えた。
ワタルの内臓が肋骨に押し潰される。肺から空気が絞り出され、声にならない悲鳴があがる。
ギィンッ!
モリビトが隔壁に激突し, 跳ね返る。
コクピット内にも火花が散り、ワタルの頬を焼いた。
恐怖。
死ぬかもしれない。
だが、その恐怖の裏側で、奇妙なほど冷静な「感覚」が覚醒していた。
モリビトの鉄骨と自分の骨格が、不気味なほどに重なった。
マニュアル操作の重たさと、神経接続の直感。その二つが完全に同期し、脳が「6本腕の怪物」へと作り変えられていく。
「かまうかよッ!」
対する怪物ーーアラクネが振りかぶった。
その質量移動が、宇宙空間の重力波の歪みとして、網膜ではなく脳に直接焼き付く。
ワタルは右手のマニピュレータを腰のウェポン・ラックへ走らせた。
迷いはない。
何千回と繰り返した作業のように、指が勝手に動く。
抜刀。
高周波振動刀《ヒート・バイブロ・カタナ》。
世界が、遅くなる。
飛び交う火花の一粒一粒、アラクネの多層装甲の継ぎ目、噴き出すガスの粒子までもが、凍りついたように鮮明に見える。
その静止した時の中で、ワタルの刃だけが、オレンジ色の残像を引いた。
「そこだッ!!」
カウンター。
振り下ろされる死の鎌を紙一重でかわし、その懐へ、逆袈裟に斬り上げた。
手応えは、あまりにも軽かった。
ジュボッ……。
金属音ではない。
シリコンの結晶体が、高熱で瞬時に融解し、気化する音。
硬い殻を手応えなくすり抜ける、気持ちの悪い感触。
まるで熱したナイフでバッテリーを切ったような、粘り気のある抵抗感。
斬り落とされたアラクネの脚が、赤熱した断面を晒して回転しながら飛んでいく。
怪獣がバランスを崩す。
その隙を見逃すな。
教官の言葉が蘇る。
『躊躇うな。殺意を叩き込め』
「おおおおおおおッ!!」
ワタルはスラスターを全開にした。
刀を構え、アラクネの懐へ飛び込む。
狙うのは一つ。
あの不気味に輝く、八つの目の奥にある中枢核《コア》。
## 代償 - バックフロー
ズプッ!
抵抗はなかった。
超振動する切っ先は、シリコンの装甲も、生体組織も、中枢核の防壁も、すべてを等しく溶解させながら突き進んだ。
モリビトの腕を通じて、核を破壊した手応えが伝わってくる。
熱いコーヒーの中に角砂糖を突っ込んだような、崩れゆく感触。
(勝った!)
そう確信した瞬間。
『――――――――――――――――――――ッ!!』
怪獣の絶叫が、逆流してきた。
声ではない。
鼓膜など介さない。脳のひだを直接ヤスリで削られるような、膨大な情報の奔流。
断末魔の瞬間に放出された、膨大な負の感情エネルギー。
死への恐怖、痛み、憎悪、未練、そして生物としての「生」への渇望。
アラクネが感じている「死」そのものが、接触している刀身を伝わり、共鳴デバイスを伝わり、脊髄を経由して、結合されているワタルの脳へと雪崩れ込んできたのだ。
痛覚逆流《バックフロー》。
人間とは全く違った進化を遂げた怪獣の共鳴器官は、このようにも作用するのだ。
口の中に、さっき嗅いだ「腐った花」の味が広がった。
いや、それは味ではない。
脳が直接味わわされている「死」の食感だ。
色が見えた。痛みの色だ。
音が聞こえた。細胞が壊死する音だ。
自分の目が「あるのにない」という矛盾した感覚が暴れまわり、幻の指先が千切れる熱さが脳髄を駆け巡った。
人間とは違う進化を遂げた神経系の断末魔が、ワタルの自我を塗り潰していく。
「あ、あぐっ……、が、ぁ……!?」
視界が明滅する。
コクピットの計器類が歪み、世界が溶け出す。
他者の死を、自分の死として追体験させられる現象。
それは孤独な地獄だ。
けれども、今は違う。
「――っ……!」
その汚泥のような情報の奔流の中に、ナギがいた。
ナギもまた、この地獄の中で溺れかけていた。
独りぼっちで、暗い水底へ沈んでいく彼女が見えた。
(一人には、させない!)
ワタルは反射的に、膝の上のナギを抱きしめていた。
感触があった。重さがあった。
トクトクと脈打つ、温かい鼓動があった。
命。
この生命の感覚だけが、唯一の錨《アンカー》だった。
生を繋ぐための、確かな楔になってくれる。
それだけが、現実だ。
「が、あ、ぁ……っ!!」
限界を超えた負荷が、身体中の血管を駆け巡る。
ブシュッ!
右目から、鮮血が噴き出した。
毛細血管の破裂。視界の半分が赤く染まる。
鼻からも、耳からも血が流れる。
それでも、ワタルはナギを抱く腕を緩めなかった。
ドォォォン……。
モニターの向こうでアラクネが崩壊し、光の粒子となって霧散していく。
その最期の輝きを見届けると同時に、ワタルの意識もまた、深い闇の中へと吸い込まれていった。
プツン、と糸が切れるように。