Fire Ocean 大気圏焼却戦域   作:ウソカラマコト

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02: おやすみなさい

## おやすみなさい

 

 

 世界は輝き、どこまでも暖かかった。

 

 彼女はピアノを弾いていた。

 スタインウェイの黒塗りの鍵盤。そのひやりとした象牙の感触が、指先から脳髄へと甘やかに伝わる。

 ハンマーが弦を叩く振動。

 響板が空気を震わせる共鳴《レゾナンス》。

 それらすべてが、彼女ーー白砂ナギの繊細な指先の指揮下にあった。

 左手が激流のようなアルペジオを刻み、右手が悲劇的な和音を叩きつける。

 フレデリック・ショパン、練習曲作品十の一二号――『革命』。

 

(完璧だ。私の音。私の指。私のすべて)

 

 スポットライトが、彼女の銀髪を真珠の粉を撒いたように輝かせていた。

 客席の最前列には、見慣れた少年がいる。

 いつもの少し困ったような、けれど誰よりも優しい笑顔で、彼女に向けて熱い拍手を送っている。

 

「すごいよナギ。やっぱりお前は天才だ」

 

 ワタルの声が、体温を伴う音楽のように響く。

 

「でしょ? もっと聴かせてあげる。ずっと一緒だもん」

 

 ああ、なんと幸せなんだろう。

 これが、私が生きたかった明日。

 これが、私が手に入れたかった世界――。

 

 ブツン。

 

 唐突に。

 電源コードを引き抜かれたように、旋律が途絶えた。

 

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 

 代わりに聞こえてきたのは、無機質で冷たい電子音だった。

 一定のリズムで血の巡りを監視する、生命維持装置の無感動なパルス。

 まぶたの裏の黄金色は一瞬で掻き消え、薄灰色のくすみがそこにあった。

 

「……」

 

 目を開ける。

 最初に認識したのは、天井を無骨に這う剥き出しの配管と、打設されたままの荒いコンクリートの質感だった。

 視界が酷くぼやけている。

 瞬きをするたびに、青白い非常灯の光が凍てついたナイフのように網膜を刺した。

 

 鼻腔に滲むのは、消毒用アルコールのツンとした刺激と、どこか鉄錆に似た、甘ったるい血液の匂いだ。

 暖房効率の悪い、乾燥しきった空気がガラス粉のように喉に張り付き、呼吸をするたびに肺がヒューヒューと笛のような異音を鳴らす。

 

 糊のききすぎた、シーツの粗い繊維が、剥き出しの背中に砂利のようにざらついた。

 その刺激が、彼女の意識を否応なく現実へと引き戻していった。

 

「ここは……?」

 

 砂を噛んだような、掠れた声が出た。

 起き上がろうとする。いつものように、右手をベッドのマットレスについて、体を支えようと力を込める。

 脳は明確に、そして力強く電気信号を送った。『右腕を伸ばせ』『手をついて上体を起こせ』と。

 

 だが。

 腕はなかった。

 

 シーツに触れているはずの指の感触が返ってこない。

 マットレスの弾力を感じるはずの手のひらが、どこにもない。

 それどころか、空気を切る感覚さえなかった。

 右肩の先にあるはずの――数キログラムの質量が、忽然と消滅していた。

 

「――あ」

 

 無意識に、視界を遮る乱れた前髪を払おうとする。

 

 カクン。

 

 首が右に不自然に傾いただけだった。

 耳に触れる指先もなければ、髪を払う腕の重みもない。

 まるで自分が透明な幽霊にでもなったかのような、身の毛もよだつ乖離感が肩口に居座る。脳の身体地図《ボディマップ》には「ある」と刻まれている腕が、実際には「存在しない」。

 

 その矛盾が、内臓を激しく揺さぶるような目眩を引き起こす。

 恐る恐る、脂汗に濡れた視線を下ろした。

 軍用毛布のような粗末なシーツの下。

 右肩から先が、ストンと垂直に断ち切られて、不自然なまでに平らになっていた。

 左を見る。同様だ。

 視線をさらに下げる。見えない。

 だが、足を動かそうとした瞬間に、逃げ場のない真実をつきつけられる。

 太ももの半ばから先が、プツリと情報の糸を断たれたように途切れている。

 膝の関節も、ふくらはぎの筋肉も、大地を踏みしめていた足の裏も、すべてが。

 ない。

 

「あ……ああ……」

 

 喉の奥から、泡を噴くような音が漏れた。

 あの情熱的な演奏を生み出していた、柔らかな十本の指は。

 ペダルを踏み込み、彼の隣を駆けていた二本の足は。

 

 もう、この世界のどこにも存在しない。

 

 あるのは、止血剤の染みた分厚い包帯にグルグル巻きにされた、肉の切り株。

 ダルマのような――無様な「肉塊」へと成り果てた、自分だった。

 

「夢……じゃ、ない……」

 

 幻肢痛《ファントム・ペイン》が、遅れて脊髄を駆け上がった。

 青白い炎が、存在しない指先をじりじりと焼いているような、忌々しい偽りの感覚が。

 

「お目覚めですか?」

 

 頭上から、優しげな声が降ってきた。

 灰色の防寒野戦服の上に白衣を羽織った、衛生士官と思われる女性だった。

 

「ここは極圏《きょっけん》の前線基地。安心して。GODAと極圏は宇宙では協力関係にあるから。貴女は大切なお客様よ」

 

 士官は妹を見るような眼差しをナギへと向けた。

 

「切断面の癒着は順調ですよ。シリコン汚染の兆候も見られません。……怖かったでしょう。でも、もう大丈夫ですよ」

 

 大丈夫、と言われて、彼のことを思い出した。

 

「あの……彼は……ワタルは……!?」

「はい?」

 

 士官は首を傾げた。

 

「彼は無事なの!? 怪我は!?」

 

 その問いを聞いた瞬間、士官の瞳から深い困惑の皺が寄った。

 

「彼?」

「私と一緒にいたパイロットです! コクピットで!」

「ああ……、彼? 彼ね、安心してください」

「無事だったのね!」

「死刑に決まりました」

 

 ニコリと、士官は笑みを浮かべた。

 

「死刑……? 死刑って……? どういうこと!?」

「宇宙基地を破壊した罪ですよ。あなたは逃走用の人質にされたのでしょう?」

 

 ナギは頭が真っ白になった。

 いったい、何がどうなって、そんな話になっているのか。

 ワタルが誤解されていることは確かだ。

 

「違うっ! ワタルは私を助けようとして――」

「何も言わなくていいのですよ。記憶が混濁しているのは、あなたの心が壊れないための防衛反応ですから」

「違うの!!」

 

 ナギは必死に声を張り上げた。

 だが彼女にはベッドを叩く手も、起き上がって詰め寄る足もない。ただ枕の上で首を振るだけの、無力な存在だ。

 

 その必死の訴えを、婦長は「PTSDに伴う深刻な現実歪曲」として処理した。

 

「看護師、彼女を抑えて。バイタルが跳ね上がっているわ」

「いや! 放して! ワタルに会わせて!」

「可哀想に……。ステーションを破壊したテロリストを、自分を誘拐した男を、かばおうとするなんて……」

「深刻なストックホルム症候群ね」

「私は誘拐なんてされてない! ワタルは、ワタルは私を――ッ!!」

 

 体格の良い看護師たちが数人がかりで、あらぬ方向へ暴れようとするナギの不完全な肉体を押さえにかかる。

 

「落ち着いて。今のあなたに必要なのは睡眠よ」

「お願い! ワタルを殺さないで!!」

 

 ナギは芋虫のようにもがいた。

 視界の端で、婦長が注射器を準備するのが見えた。

 

「やめて! 私はどこもおかしくない! 正常よ!」

「そうね。その通りよ」

 

 やめて。まだ話が。ワタルが。

 チクリとした鋭い痛みが、切断された右腕の付け根に走った。

 

「あ……、ああ……、ワタル……」

 

 即効性の鎮静剤が血管を冷たく巡り、彼女の意識は、底なしの泥濘の中へと沈下していく。

 急速に遠のく意識の中で、婦長の慈愛に満ちた声が響いた。

 

「おやすみなさい」

 

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