## 慈悲という名の毒薬
敵意、あるいは殺意。
眠りにつかされていたナギが目覚めたのは、男が放つ、熱であった。
「……だれ……?」
見知らぬ男だった。
軍服。磨き上げられたベルト。そして、獲物を狙う爬虫類のような、温度を欠いた瞳。その男からは、先刻の「仕事」の残響《エコー》か、微かに剥き出しの暴力の熱(興奮)が漂っているように見えた。
ナギは、芋虫のようにもがいて身を縮めた。手繰り寄せるべきシーツも、己を隠すべき腕もない。
「GODA、サイオン・ミラーだ。お前を引き取りに来た」
ミラーと名乗った男は、無遠慮に硬い軍靴で病室に入り込み、サイドテーブルに影を落とした。
ナギの視線が、ふと彼の足元に吸い寄せられた。
黒檀のような輝きを放つ革靴。そのつま先に、どろりと新鮮な、赤い血がへばりついていた。
まだ熱を失っていない、鮮やかな、生命の飛沫。
「血……?」
直感が、神経系を逆流するような警鐘を鳴らした。
誰の血? ここに来る直前、この人は誰を?
薬のせいでボヤけていた頭の中が、一気にクリアになった。
「ワタルは!? ワタルを助けてください!」
ミラーは己の靴の汚れを一瞥すると、ハンカチを広げて、それを無造作に拭った。
「ああ、ヤツか。案ずるな、ヤツは無事だったよ」
「本当ですか!」
「もうすぐ殺すがな」
「中止してください」
「決定事項だ」
ミラーは無表情のままスマートデバイスを起動し、ナギの網膜の直前に突き出した。
画面に並ぶ、血の色の文字列が、彼女の脳内に火を放つ。
CRIMINAL: ENJU WATARU (ARTICLE 163 - DESTRUCTION OF NATIONAL ASSETS) - SENTENCE: DEATH
槐ワタル。死刑。第3級・国家資産損壊罪。
「GODAの決定だ。覆ることはない」
ナギは絶句した。
肺の動きが止まり、意識が白濁していく。
犯罪者。逮捕。死刑。
どうして? 私を助けようとしただけで?
「そん……な、こと……!」
「安心しろ。死ぬのは奴だけだ」
「私の……せいで……、ワタルが……」
「そうだ」
ミラーは即答した。躊躇《ためら》いも、慰めもなかった。
「お前を助けるというエゴのために、彼は命令を侵し、基地を破壊し、結果として数千万の命を殺した。代償としての死刑は、至極真っ当な清算だ」
カチ、カチ、カチ。
ナギの奥歯が激しく鳴った。
恐怖と、それを上回る底なしの絶望が、身体をガタガタと震わせる。
「……なら、私も……私も殺して……!」
ナギは、喉を血で濡らすように叫んだ。
「ワタルだけ、そんな……! 私だけ生きてるなんて……出来ない! お願い、一緒に死刑にして!」
その悲鳴にも似た懇願を聞いて、ミラーは鼻先で乾いた笑いを漏らした。
心の底から、滑稽な劇を観たときのように。
「死刑? お前ごときに、そんな『権利』があると思っているのか?」
彼は冷酷な瞳で、ベッド上の「生体ユニット」を見下ろした。
「勘違いするなよ、白砂ナギ」
死よりも残酷な事実を、一字一句噛み砕くように告げた。
「軍がお前を廃棄する許可を出すわけがない。お前はただの人間ではないのだ。……唯一の適合成功例《オリジナル・コア》なのだからな」
「嫌です!」
「お前の移送先は決定済みだ。アイギス・リング。高度1000kmに浮かぶ、機械仕掛けの監獄だ」
アイギス・リング。
緯度0度、西経50度の静止軌道に建設された宇宙ステーション。
地球からもっとも遠い場所に作られた、怪獣戦の最前線基地だ。
「そこでお前を待っているのは、治療ではない。『人格の初期化《フォーマット》』と『生体制御器への再加工』だ」
ミラーは淡々と続ける。それは変えようのない運命だから。
「お前の感情も、記憶も、自我も。システムにとっては不純なノイズでしかない。綺麗に消去し、空っぽの灰色の脳になる」
ナギの顔面から、血の気が失せていく。
死ぬことすらできない。私が「私」でなくなる。ただの計算機として、永久に使い潰され続ける。
「小僧は死んで終わりだが。お前は、死ぬことすら許されない。それがお前の未来だ」
絶望に凍りつくナギを見透かし、ミラーはサイドテーブルに、一本の小さな小瓶を無造作に置いた。
「最後の慈悲をやる」
カツン。
冷たい薬瓶の音。中には、不気味なほど透明な、青い液体が揺らめいていた。
「安楽死用の中枢神経遮断薬だ。一分足らずで呼吸が止まり、苦痛もない」
ナギは、弾かれたようにその小瓶を見つめた。
「一時間待ってやる。その間に心の整理をしろ」
彼は顔を狂気に近い距離まで近づけ、悪魔の甘い誘いを口にした。
「人間として終わりたいなら、これを飲むんだな」
ナギは小瓶を見つめたまま、幻の指先で必死にシーツを掴み取ろうとした。
死。虚無。すべてが楽になる場所。
けれど。
「……いや」
拒絶が、掠れた声となって漏れた。
「怖いか? 実験体になることよりも、死ぬことが」
「ちがう……。死ぬのが怖いんじゃない。……でも」
ナギはミラーを射抜くように睨み返した。
涙に濡れた瞳の深淵に、消えることのない光が灯る。
「ワタルは……死なない気がするから」
何物にも代えがたい、狂気に似た確信だった。
ワタルは運命ごときに殺されたりしないという直感。
ほう、とミラーは目を細めた。
「……あの満身創痍の脱走兵が、助けに来るとでも?」
ナギは答えなかった。
会いたい。危険は冒して欲しくない。
矛盾する二つの想いがあったからだ。
「そうだな。来るかもしれん」
ミラーは、ナギの額に自身の影を落とした。
「……だが、それが何を意味するか、理解できているのか?」
彼はナギの耳朶に、こう告げた。
「槐ワタルは、お前を生かすためなら何でもする。今日のように、世界を焼き払ってでも、その手を血の海に浸し続ける。……お前が生きたいと願う限りな」
「っ!」
ナギは心臓を撃ち抜かれたようになった。
「お前の『生』は、ヤツにとっての『呪い』だ。お前が生きて助けを求めれば、ヤツは正真正銘の『怪物《モンスター》』になるしかない」
「…………」
ミラーはナギから離れ、冷たく突き放した。
「ヤツを修羅の道へ引きずり込み、化け物に変えていくのは、世界などではない。お前のその『生きたい』というエゴだ」
ナギは、全ての言葉を奪われた。
反論はなかった。
ワタルなら、そうする。
ただ一人の自分のために、世界中の地獄を引き受ける。
そう、思った。
「……答えは出んか。まあいい、置いておく」
ミラーは踵を返し、一度も振り返ることなく去っていく。
「自分の処遇くらい、自分で決めろ。『部品』になりたくないならな」
プシュウゥゥ。
重い扉が閉まり、気密が保たれた。
残されたのは、四肢のない少女と、月の光を反射する青い毒薬のボトルだけだった。