## 亡霊
ミラーは廊下に出た。
十歩ほど歩いて足を止めた。
後頭部を、肺の中まで冷やすようなコンクリートの壁に預ける。
胸ポケットから、自販機で買った安物の缶コーヒーを取り出した。
パチン。
プルタブを開ける無機質な音が、夜の病院の静寂に波紋を作った。
一口。
……泥水のような苦味が、ひび割れた舌の上に広がった。
冷え切っている。不味い。
その不快な苦味が、トリガーとなって脳の奥底に眠る「澱」を掻き回した。
記憶の底から、声が蘇る。
『ひとでなし!』
女の、金切り声だった。
かつて命を分け合った、かつての妻の絶叫。
『あなたは! あの子が切り刻まれても平気なの!? 自分が出世できればそれでいいの!? 人殺し! 人殺し!』
ミラーは無表情のまま、飲み干したばかりの空き缶を拳の中で握り潰した。
ベコッ。
金属が醜くひしげる、抵抗のない感触。
「……同じことだ」
誰に聞かせる必要もない言葉が、唇からこぼれ落ちる。
否定するつもりはなかった。
十年前、彼は軍人としての「義務」を選んだ。
娘のステラを、Kレセプタの適合者として差し出した。
あの時、ステラは泣き叫んでいた。嫌だ、パパ助けてと、小さな手を必死に伸ばして。
世界を守るという大義のために、己の家族を、己の手で破壊した。
世界を守るという大義のために、己の家族を、己の手で破壊した。
その判断は、間違っていない。
軍人として正しかった、はずだ。
信じなければ、この軍服を、この階級章を纏う自分自身が——鏡の向こうの怪物が、霧のように消えてしまうからだ。
そして何より。あの日ステラを見送った「正しさ」を否定すれば、娘の犠牲が、本当に無意味になってしまう。
ミラーはスワイプするように記憶を追いやり、端末を操作した。
画面には「Enju Wataru」の死刑執行承諾書、そして「Shirasuna Nagi」の軌道移送命令書が、電子の光を湛えて並んでいる。
承認の電子印をスライドさせようとして。
その指先が、僅かに。ほんの僅かだけ、虚空で停止した。
デジャヴ。
既視感が、十年前のあの薄暗い部屋へと彼を引き戻す。
『あなた、正気なの!? ステラは……まだ四歳なのに!』
妻の悲鳴。
卓上に置かれた、冷酷な記述。
『特別戦術資材・徴用命令書:適合ランクS』。
そこに記された文字は、彼自身の家族の名を刻んでいた。
あの時の自分の手は、今のワタルのように震えていただろうか。……いや。
機械のような精密さで。彼は、ペンを走らせたはずだ。
『代わりはいないのだ。誰かが犠牲にならなければ、地球《アース》が燃え尽きる』
自分はそう言った。それは真実だった。
誰にとっても、覆しようのない鉄の真理だった。
『悪魔! 人殺し!』
背後で崩れ落ちる、愛していたはずの者の慟哭を。
彼はその日、世界という名の巨大な虚勢と引き換えに、自ら捨て去ったのだ。
ミラーはハッと短く呼吸を吐き、現実の廊下の冷気へと回帰した。
手の中には。ひしゃげ、形を失ったゴミ同然の空き缶の感触だけがある。
「……誰かが、やらなければならない」
彼は自分自身に言い聞かせるように、低く呟いた。
ワタルやナギに残酷な踏み絵を強いたのは、他でもない。
自分自身が、その地獄を味わったからだ。
代われるものなら代わりたかった。
家族のために死ねるなら本望だ。
俺は捨てた。人類のために。
お前たちもそうだ。
捨てなければならない。
そうでなければ、俺の十年間という空白に、説明がつかない。
「甘えるな、ガキども。地獄は、宇宙《そら》にあるんじゃない」
ミラーはゴミ箱の最深部へ、空き缶を叩き込んだ。
カラン、と虚脱した音が響く。
「この世界《ここ》にこそあるんだ」
## 毒薬と重力
ナギは、青い薬瓶を見つめ続けていた。
時間は無慈悲に、そして等間隔で過ぎていく。
1時間。
ミラーが彼女自身の「始末」のために与えた、最後の執行猶予。
「これを……飲めば……」
ワタルの歩む道を「呪い」に変えずに済む。
ワタルを、世界中から憎まれる「怪物」の座に縛り付けずに済む。
それは唯一の正解だった。
自分自身、肉の部品として生きる地獄に、一秒だって耐えられるとは思えない。ここで終止符を打つのが、最も救いのある結末なのだ。
ナギは、蛇のような動作で首を限界まで伸ばした。
手を喪った彼女には、薬を手に取ってあおることすら叶わない。
薬瓶のコルク栓を、直接、歯でこじ開けるしかなかった。
シーツに顔を押し付け、不揃いな呼吸を繰り返しながら、必死に首をひねる。獣のような無様な仕草。
銀髪が乱れ、剥き出しの首筋に冷や汗が流れ、よだれが口角から垂れるのも構わず、彼女はコルクの感触を奥歯で捉えた。
あと少し。
あと少しで、この「重力」から解放される。
だが。その焦りと、欠落した質量のバランスが、体勢を崩した。
重心が、ふとした揺らぎで境界を越えた。
支える腕も、踏ん張る足もない身体は、物理法則の命ずるままにベッドの端から滑り落ちた。
ドサッ。
水を含んだ土袋を叩きつけたような、鈍い音が病室に響く。
受け身を取るべき盾がないナギの身体は、直接、右肩から硬いリノリウムの床へと激突した。
「あぐっ……!」
鎖骨の軋む音。そして切断面を直接ハンマーで殴られたような激痛が、脳天を白く焼き切った。
薬瓶がカランと虚空を舞い、床を転がっていく。
青い液体がわずかに零れ、無機質な床に、真珠のような小さな水溜まりを作った。
「あ、……うう……」
痛い。そして熱い。
熱くて、冷たい。
ナギは床に片頬を押し付けたまま、視線の先で静止した小瓶を見つめた。
あと数十センチ。
今の自分には永遠のような距離。
死ぬことさえ、自分ひとりでは完結できない。
その決定的な無力さが、肩の打撲傷以上に、彼女の心を無惨に抉り抜いていった。
『お前の生は、彼にとっての呪いだ』
ミラーの残忍な声が、耳鳴りに混じってリフレインする。
「……ほんとは……」
ナギは床を濡らすように嗚咽した。
「ほんとは、自分が死ぬのが……怖いだけなんじゃないの……?」
ワタルを口実にして。
ワタルの破滅を防ぐためだと言い訳を用意して。
本当は、自分がこの世から消滅するのが、ただ恐ろしいだけなのでは?
自己嫌悪がショートし、脳を焼いた。
自分が世界で最も卑怯な生き物に思えてくる。
ただ、透明な涙が流れていく。
床から這い上がる冷気が、彼女の体温を奪っていく。
悔しくて、悲しくて、叫び出したいのに、喉が張りつめて声すら出ない。
ズズズズン!!
絶望の静寂を、腹の底を直接揺さぶるような爆鳴が引き裂いた。
床が小刻みに、しかし力強く振動する。
地震? いや、もっと断続的で、巨大な質量が空気を切り裂く衝撃だ。
外の防音廊下から、理性を失った足音と絶叫が雪崩れ込んできた。
「総員退避! 迎撃網貫通! 第一ゲート放棄!」
「逃げろ! 怪獣だ! Class-Aが落ちてくるぞ!」