Fire Ocean 大気圏焼却戦域   作:ウソカラマコト

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05: 亡霊 / 毒薬と重力

## 亡霊

 

 

 ミラーは廊下に出た。

 十歩ほど歩いて足を止めた。

 

 後頭部を、肺の中まで冷やすようなコンクリートの壁に預ける。

 胸ポケットから、自販機で買った安物の缶コーヒーを取り出した。

 

 パチン。

 

 プルタブを開ける無機質な音が、夜の病院の静寂に波紋を作った。

 一口。

 ……泥水のような苦味が、ひび割れた舌の上に広がった。

 

 冷え切っている。不味い。

 

 その不快な苦味が、トリガーとなって脳の奥底に眠る「澱」を掻き回した。

 記憶の底から、声が蘇る。

 

『ひとでなし!』

 

 女の、金切り声だった。

 かつて命を分け合った、かつての妻の絶叫。

 

『あなたは! あの子が切り刻まれても平気なの!? 自分が出世できればそれでいいの!? 人殺し! 人殺し!』

 

 ミラーは無表情のまま、飲み干したばかりの空き缶を拳の中で握り潰した。

 ベコッ。

 金属が醜くひしげる、抵抗のない感触。

 

「……同じことだ」

 

 誰に聞かせる必要もない言葉が、唇からこぼれ落ちる。

 否定するつもりはなかった。

 十年前、彼は軍人としての「義務」を選んだ。

 

 娘のステラを、Kレセプタの適合者として差し出した。

 あの時、ステラは泣き叫んでいた。嫌だ、パパ助けてと、小さな手を必死に伸ばして。

 

 世界を守るという大義のために、己の家族を、己の手で破壊した。

 世界を守るという大義のために、己の家族を、己の手で破壊した。

 

 その判断は、間違っていない。

 軍人として正しかった、はずだ。

 信じなければ、この軍服を、この階級章を纏う自分自身が——鏡の向こうの怪物が、霧のように消えてしまうからだ。

 

 そして何より。あの日ステラを見送った「正しさ」を否定すれば、娘の犠牲が、本当に無意味になってしまう。

 

 ミラーはスワイプするように記憶を追いやり、端末を操作した。

 

 画面には「Enju Wataru」の死刑執行承諾書、そして「Shirasuna Nagi」の軌道移送命令書が、電子の光を湛えて並んでいる。

 

 承認の電子印をスライドさせようとして。

 その指先が、僅かに。ほんの僅かだけ、虚空で停止した。

 デジャヴ。

 既視感が、十年前のあの薄暗い部屋へと彼を引き戻す。

 

『あなた、正気なの!? ステラは……まだ四歳なのに!』

 

 妻の悲鳴。

 卓上に置かれた、冷酷な記述。

 

 『特別戦術資材・徴用命令書:適合ランクS』。

 

 そこに記された文字は、彼自身の家族の名を刻んでいた。

 あの時の自分の手は、今のワタルのように震えていただろうか。……いや。

 機械のような精密さで。彼は、ペンを走らせたはずだ。

 

『代わりはいないのだ。誰かが犠牲にならなければ、地球《アース》が燃え尽きる』

 

 自分はそう言った。それは真実だった。

 誰にとっても、覆しようのない鉄の真理だった。

 

『悪魔! 人殺し!』

 

 背後で崩れ落ちる、愛していたはずの者の慟哭を。

 彼はその日、世界という名の巨大な虚勢と引き換えに、自ら捨て去ったのだ。

 

 ミラーはハッと短く呼吸を吐き、現実の廊下の冷気へと回帰した。

 手の中には。ひしゃげ、形を失ったゴミ同然の空き缶の感触だけがある。

 

「……誰かが、やらなければならない」

 

 彼は自分自身に言い聞かせるように、低く呟いた。

 ワタルやナギに残酷な踏み絵を強いたのは、他でもない。

 自分自身が、その地獄を味わったからだ。

 代われるものなら代わりたかった。

 家族のために死ねるなら本望だ。

 

 俺は捨てた。人類のために。

 

 お前たちもそうだ。

 捨てなければならない。

 そうでなければ、俺の十年間という空白に、説明がつかない。

 

「甘えるな、ガキども。地獄は、宇宙《そら》にあるんじゃない」

 

 ミラーはゴミ箱の最深部へ、空き缶を叩き込んだ。

 カラン、と虚脱した音が響く。

 

「この世界《ここ》にこそあるんだ」

 

 

 

## 毒薬と重力

 

 ナギは、青い薬瓶を見つめ続けていた。

 時間は無慈悲に、そして等間隔で過ぎていく。

 1時間。

 ミラーが彼女自身の「始末」のために与えた、最後の執行猶予。

 

「これを……飲めば……」

 

 ワタルの歩む道を「呪い」に変えずに済む。

 ワタルを、世界中から憎まれる「怪物」の座に縛り付けずに済む。

 

 それは唯一の正解だった。

 自分自身、肉の部品として生きる地獄に、一秒だって耐えられるとは思えない。ここで終止符を打つのが、最も救いのある結末なのだ。

 

 ナギは、蛇のような動作で首を限界まで伸ばした。

 

 手を喪った彼女には、薬を手に取ってあおることすら叶わない。

 薬瓶のコルク栓を、直接、歯でこじ開けるしかなかった。

 シーツに顔を押し付け、不揃いな呼吸を繰り返しながら、必死に首をひねる。獣のような無様な仕草。

 銀髪が乱れ、剥き出しの首筋に冷や汗が流れ、よだれが口角から垂れるのも構わず、彼女はコルクの感触を奥歯で捉えた。

 

 あと少し。

 あと少しで、この「重力」から解放される。

 

 だが。その焦りと、欠落した質量のバランスが、体勢を崩した。

 重心が、ふとした揺らぎで境界を越えた。

 支える腕も、踏ん張る足もない身体は、物理法則の命ずるままにベッドの端から滑り落ちた。

 

 ドサッ。

 水を含んだ土袋を叩きつけたような、鈍い音が病室に響く。

 受け身を取るべき盾がないナギの身体は、直接、右肩から硬いリノリウムの床へと激突した。

 

「あぐっ……!」

 

 鎖骨の軋む音。そして切断面を直接ハンマーで殴られたような激痛が、脳天を白く焼き切った。

 薬瓶がカランと虚空を舞い、床を転がっていく。

 青い液体がわずかに零れ、無機質な床に、真珠のような小さな水溜まりを作った。

 

「あ、……うう……」

 

 痛い。そして熱い。

 熱くて、冷たい。

 

 ナギは床に片頬を押し付けたまま、視線の先で静止した小瓶を見つめた。

 あと数十センチ。

 今の自分には永遠のような距離。

 死ぬことさえ、自分ひとりでは完結できない。

 その決定的な無力さが、肩の打撲傷以上に、彼女の心を無惨に抉り抜いていった。

 

『お前の生は、彼にとっての呪いだ』

 

 ミラーの残忍な声が、耳鳴りに混じってリフレインする。

 

「……ほんとは……」

 

 ナギは床を濡らすように嗚咽した。

 

「ほんとは、自分が死ぬのが……怖いだけなんじゃないの……?」

 

 ワタルを口実にして。

 ワタルの破滅を防ぐためだと言い訳を用意して。

 本当は、自分がこの世から消滅するのが、ただ恐ろしいだけなのでは?

 

 自己嫌悪がショートし、脳を焼いた。

 自分が世界で最も卑怯な生き物に思えてくる。

 

 ただ、透明な涙が流れていく。

 床から這い上がる冷気が、彼女の体温を奪っていく。

 悔しくて、悲しくて、叫び出したいのに、喉が張りつめて声すら出ない。

 

 ズズズズン!!

 

 絶望の静寂を、腹の底を直接揺さぶるような爆鳴が引き裂いた。

 床が小刻みに、しかし力強く振動する。

 地震? いや、もっと断続的で、巨大な質量が空気を切り裂く衝撃だ。

 外の防音廊下から、理性を失った足音と絶叫が雪崩れ込んできた。

 

「総員退避! 迎撃網貫通! 第一ゲート放棄!」

「逃げろ! 怪獣だ! Class-Aが落ちてくるぞ!」

 

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