Fire Ocean 大気圏焼却戦域   作:ウソカラマコト

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07: 絶望 / 逢いたい

## 絶望

 

 基地全体が、巨大な鐘が打たれた後のように、震え続けていた。

 

 天井の蛍光灯が、不吉なリズムでパチパチとはぜるように明滅し、石膏ボードのひび割れた隙間から白い微細な粉塵が雪のように舞い落ちる。

 遠くで響く、地表を引き裂くような爆鳴。

 逃げ惑う人々の、動物的な悲鳴。

 

 だが、ナギの世界において、それらは現実味を欠いた。遠い、別の銀河の背景音としてしか響かなかった。

 彼女の意識の全領域は、今、たった一つの衝動に支配されていた。

 

(ワタル――!)

 

 思考が論理を編み出すよりも先に、脳の深層の運動野が強烈に発火する。

 なのに、今の自分は歩くことも走ることも出来ない。

 腹ばいになって、這いずって、芋虫のように動くことしかできない。

 

 無力。

 

 ナギという人間を底から打ち砕いたのは、回避不能な「無力感」の正体だった。

 

「……っぐ……、あ……」

 

 起き上がれない。

 手がないから、上体を起こすための抵抗《レジスタンス》すら生み出せない。

 足がないから、大地を掴み、立ち上がることもできない。

 ただ、床に転がったダルマのような姿で、血まみれの横顔を硬い無機物へと擦り付けながら、不毛にもがき続けることしかできない。

 

「ぁ……、うぅ……、あ……」

 

 芋虫。あるいは。

 自分が「人間」という美しく機能的な形を失い、もっと下等な、声も持たぬ無様な肉の塊へと成り果てたという、逃げ場のない真実。

 

 惨めだった。

 

 心臓が破裂するほど惨めで。涙と鼻水と鮮血が醜く混ざり合い、月の光を浴びていたはずの銀髪を汚していく。

 世界を指揮したあの10の指も、ワタルへと駆け寄ったあの足も、もうこの世界のどこにも存在しない。

 あるのは、重力に従って床にへばりつく、ただの熱を持った「絶望」だけだった。

 

「うっ……うううっ」

 

 頬に伝わる冷たい感触が、封印されていた記憶の扉を静かに押し開けた。

 10年前。

 死の冷気ではなく、消毒液と清浄な空調の匂いがする場所。

 そこは戦場から遠く離れた、ごく普通の総合病院の一室だった。

 

 

 

## 逢いたい

 

 

 7歳の誕生日を、怪獣が奪い去った。

 家族は殺され、街は破壊され、ナギだけが生き残った。

 

 白い天井。白いカーテン。

 漂うのは、鼻を突く消毒液と、安っぽい病院食の薄いスープの匂い。

 シーツの糊のききすぎた硬い感触が、肌に冷たく触れる。

 

 ナギはベッドの上で膝を抱え、世界から自分を切り離していた。

 

 両親の死も、家の焼失も、頭では理解していた。

 だが、彼女の身体はまだ日常の習慣を捨てきれていなかった。

 シーツの上に置かれた彼女の指先が、意思とは無関係に動いている。

 

 カサ、カサ、カサ。

 乾いた布の擦れる音が、病室の静寂を微かに揺らす。

 それはコンクールのために練習していた、ショパンのエチュード。

 

 脳髄に刻まれた譜面を、指が完璧に再現しようとしている。だが、そこからは一滴の「音楽」も生まれない。

 どれだけ指を速く動かしても、響くのは虚しい摩擦音だけ。

 その決定的な「出力不全」が、ナギに世界の終わりを突きつけていた。

 

(音が出ない。……届かない)

 

 指をへし折りたくなるほどの、無音の焦燥感。

 ナギは唇を噛み締め、呼吸すら忘れてシーツを引っ掻き続けた。

 

「……すごいね」

 

 不意に。

 カーテンの隙間から、柔らかい声が落ちてきた。

 ナギの指が、ビクリと痙攣して止まる。

 

 顔を上げると、隣のベッドの少年が立っていた。包帯だらけの姿。片足をギプスで固め、不器用に松葉杖をついている。

 

 槐《えんじゅ》ワタル。

 彼は、ナギの指先を――その虚しい演奏を、まるで奇跡のものでも見るように、澄んだ瞳で見つめていた。

 

「指、すごく速い。ピアノ、弾いてるんでしょ?」

 

 純粋な感嘆。そこには憐れみも、同情もなかった。

 ただ、美しいものを見たという驚きだけがあった。

 だが、今のナギにとって、それは最も触れられたくない傷口だった。

 

「……見ないで」

 

 ナギは逃げるように掛け布団を頭から被り、その暗闇の中にうずくまった。

 放っておいて。誰も私を見ないで。

 音の出ない私なんて、いないのと同じだから。

 

 ワタルはいなくなった。

 

 しばらくして。

 コト、と何かがサイドテーブルに置かれる音がした。

 

「……これ、あっちのプレイルームにあったから」

 

 ワタルの声は、布団越しにも優しく響いた。

 

「シーツよりは、楽しいかもって思って」

 

 足音が、引きずるようにして遠ざかっていく。

 

 長い静寂の後。ナギはおそるおそる布団から顔を出した。

 そこにあったのは、毒々しいほどカラフルなプラスチックの塊。

 幼児用の、おもちゃのピアノだった。

 瓦礫の中から回収されたのか、あちこちが煤け、赤い鍵盤の塗料が剥げかけている。

 ナギは身体を起こし、その小さな鍵盤に震える指を伸ばした。

 そっと、人差し指で「ド」の鍵盤を押す。

 

 プピッ。

 

 あまりに安っぽく、間の抜けた電子音。

 だがその音は、鋭利な刃物のように鮮やかに、灰色の世界を切り裂いた。

 

 音だ。

 音が出た。

 自分の指が、世界に波紋を起こした。

 

 ナギの瞳から、ボロボロと大きな雫がこぼれ落ちた。

 彼女は泣きながら、一本指でたどたどしい旋律を弾き始めた。

 ショパンではない、誰もが知っている子供の歌。

 

 プピ、プ、ピ……。

 不揃いな電子音が、病室の空気を震わせる。

 ふと見ると、自分のベッドに戻ったワタルが、背中を向けたまま静かに読書をしていた。

 ページをめくる手が止まっている。

 彼は、聴いてくれている。

 この無様な、けれど確かに世界に響いている私の音を。

 

(音を……)

 

 ナギは今、極圏基地の、血の匂いのする冷たい床に這いつくばっていた。

 鼻から血を流しながら、リノリウムの床を必死に叩いていた。

 手はない。指もない。

 だが、彼女は確かに奏でようとしていた。

 1センチ進むごとの激痛を「音符」に変えて。

 あの時の電子音のように、ワタルという世界に届くシグナルを。

 

「ワタル……っ、ワタル……!」

 

 会いたい。

 もう一度、あのおもちゃのピアノのように。

 私の音を聴いてくれる、たった一人の観客のために。

 ナギは鮮血の軌跡を描きながら、ただひたすらに、這い続けた。

 

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