## 絶望
基地全体が、巨大な鐘が打たれた後のように、震え続けていた。
天井の蛍光灯が、不吉なリズムでパチパチとはぜるように明滅し、石膏ボードのひび割れた隙間から白い微細な粉塵が雪のように舞い落ちる。
遠くで響く、地表を引き裂くような爆鳴。
逃げ惑う人々の、動物的な悲鳴。
だが、ナギの世界において、それらは現実味を欠いた。遠い、別の銀河の背景音としてしか響かなかった。
彼女の意識の全領域は、今、たった一つの衝動に支配されていた。
(ワタル――!)
思考が論理を編み出すよりも先に、脳の深層の運動野が強烈に発火する。
なのに、今の自分は歩くことも走ることも出来ない。
腹ばいになって、這いずって、芋虫のように動くことしかできない。
無力。
ナギという人間を底から打ち砕いたのは、回避不能な「無力感」の正体だった。
「……っぐ……、あ……」
起き上がれない。
手がないから、上体を起こすための抵抗《レジスタンス》すら生み出せない。
足がないから、大地を掴み、立ち上がることもできない。
ただ、床に転がったダルマのような姿で、血まみれの横顔を硬い無機物へと擦り付けながら、不毛にもがき続けることしかできない。
「ぁ……、うぅ……、あ……」
芋虫。あるいは。
自分が「人間」という美しく機能的な形を失い、もっと下等な、声も持たぬ無様な肉の塊へと成り果てたという、逃げ場のない真実。
惨めだった。
心臓が破裂するほど惨めで。涙と鼻水と鮮血が醜く混ざり合い、月の光を浴びていたはずの銀髪を汚していく。
世界を指揮したあの10の指も、ワタルへと駆け寄ったあの足も、もうこの世界のどこにも存在しない。
あるのは、重力に従って床にへばりつく、ただの熱を持った「絶望」だけだった。
「うっ……うううっ」
頬に伝わる冷たい感触が、封印されていた記憶の扉を静かに押し開けた。
10年前。
死の冷気ではなく、消毒液と清浄な空調の匂いがする場所。
そこは戦場から遠く離れた、ごく普通の総合病院の一室だった。
## 逢いたい
7歳の誕生日を、怪獣が奪い去った。
家族は殺され、街は破壊され、ナギだけが生き残った。
白い天井。白いカーテン。
漂うのは、鼻を突く消毒液と、安っぽい病院食の薄いスープの匂い。
シーツの糊のききすぎた硬い感触が、肌に冷たく触れる。
ナギはベッドの上で膝を抱え、世界から自分を切り離していた。
両親の死も、家の焼失も、頭では理解していた。
だが、彼女の身体はまだ日常の習慣を捨てきれていなかった。
シーツの上に置かれた彼女の指先が、意思とは無関係に動いている。
カサ、カサ、カサ。
乾いた布の擦れる音が、病室の静寂を微かに揺らす。
それはコンクールのために練習していた、ショパンのエチュード。
脳髄に刻まれた譜面を、指が完璧に再現しようとしている。だが、そこからは一滴の「音楽」も生まれない。
どれだけ指を速く動かしても、響くのは虚しい摩擦音だけ。
その決定的な「出力不全」が、ナギに世界の終わりを突きつけていた。
(音が出ない。……届かない)
指をへし折りたくなるほどの、無音の焦燥感。
ナギは唇を噛み締め、呼吸すら忘れてシーツを引っ掻き続けた。
「……すごいね」
不意に。
カーテンの隙間から、柔らかい声が落ちてきた。
ナギの指が、ビクリと痙攣して止まる。
顔を上げると、隣のベッドの少年が立っていた。包帯だらけの姿。片足をギプスで固め、不器用に松葉杖をついている。
槐《えんじゅ》ワタル。
彼は、ナギの指先を――その虚しい演奏を、まるで奇跡のものでも見るように、澄んだ瞳で見つめていた。
「指、すごく速い。ピアノ、弾いてるんでしょ?」
純粋な感嘆。そこには憐れみも、同情もなかった。
ただ、美しいものを見たという驚きだけがあった。
だが、今のナギにとって、それは最も触れられたくない傷口だった。
「……見ないで」
ナギは逃げるように掛け布団を頭から被り、その暗闇の中にうずくまった。
放っておいて。誰も私を見ないで。
音の出ない私なんて、いないのと同じだから。
ワタルはいなくなった。
しばらくして。
コト、と何かがサイドテーブルに置かれる音がした。
「……これ、あっちのプレイルームにあったから」
ワタルの声は、布団越しにも優しく響いた。
「シーツよりは、楽しいかもって思って」
足音が、引きずるようにして遠ざかっていく。
長い静寂の後。ナギはおそるおそる布団から顔を出した。
そこにあったのは、毒々しいほどカラフルなプラスチックの塊。
幼児用の、おもちゃのピアノだった。
瓦礫の中から回収されたのか、あちこちが煤け、赤い鍵盤の塗料が剥げかけている。
ナギは身体を起こし、その小さな鍵盤に震える指を伸ばした。
そっと、人差し指で「ド」の鍵盤を押す。
プピッ。
あまりに安っぽく、間の抜けた電子音。
だがその音は、鋭利な刃物のように鮮やかに、灰色の世界を切り裂いた。
音だ。
音が出た。
自分の指が、世界に波紋を起こした。
ナギの瞳から、ボロボロと大きな雫がこぼれ落ちた。
彼女は泣きながら、一本指でたどたどしい旋律を弾き始めた。
ショパンではない、誰もが知っている子供の歌。
プピ、プ、ピ……。
不揃いな電子音が、病室の空気を震わせる。
ふと見ると、自分のベッドに戻ったワタルが、背中を向けたまま静かに読書をしていた。
ページをめくる手が止まっている。
彼は、聴いてくれている。
この無様な、けれど確かに世界に響いている私の音を。
(音を……)
ナギは今、極圏基地の、血の匂いのする冷たい床に這いつくばっていた。
鼻から血を流しながら、リノリウムの床を必死に叩いていた。
手はない。指もない。
だが、彼女は確かに奏でようとしていた。
1センチ進むごとの激痛を「音符」に変えて。
あの時の電子音のように、ワタルという世界に届くシグナルを。
「ワタル……っ、ワタル……!」
会いたい。
もう一度、あのおもちゃのピアノのように。
私の音を聴いてくれる、たった一人の観客のために。
ナギは鮮血の軌跡を描きながら、ただひたすらに、這い続けた。