## 鉄の雨
天を揺らす轟音が、極圏の密度を物理的に変えていく。
不規則な凹凸の雪原を走るワタルの頭上から、何かが――巨大な死の断片が、唸りを上げて降り注ぐ。
ヒュゥゥゥ……――ズドォォォォン!!!
わずか数十メートル、視界が真っ白に染まるほどの爆圧と共に激突した衝撃が、ワタルの全身を叩いた。
「うわっ!」
ワタルは雪の斜面に激しく吹き飛ばされ、突き刺さるような冷たさの中に顔を埋めた。
顔を上げると、雪煙が晴れたその場所に、燃え上がる翼が突き刺さっていた。
地面から垂直に生えるようにして、銀色の翼が赤熱していた。
高純度ジュラルミンの装甲はひしゃげ、焦げ付いた表面には、極圏連合が誇る最高位エース部隊「シルフ」の青い紋章が、煤にまみれて滲んでいた。
「……ああ」
言葉にならない吐息だけが漏れた。
知っていた。
基地の壁が吹き飛んだあの瞬間から、分かっていたことだ。
だが、ワタルは震える瞳で空を見上げずにはいられなかった。
重く垂れ込める鉛色の雲の向こうから、次々と、小さな黒い「点」が、重力に従って落ちてくる。
## 再会
瓦礫を越え、崩落した廊下を曲がった先。
無機質なリノリウムの上に引かれた不吉な朱色の筋は、その行き止まりの隅で、プツリと情報の終わりを告げるように途切れていた。
その先に、小さな、信じられないほど小さな影があった。
泥に塗れ、千切れかけた真っ白な包帯。
寸断された四肢の断面。
床の冷気に魂を吸われ、冬眠する獣のように微動だにしない少女の輪郭。
「ナギ……ッ!」
ワタルは狂ったように駆け寄り、雪と血に汚れたその愛しき存在を、壊れ物を扱うように、しかし必死に抱き上げた。
軽い。
あまりにも、軽すぎた。
腕に伝わるのは、包帯越しの鳥の骨のような脆さと、体温を失いかけた皮膚の冷たさ。
かつてプールで語らい、共に笑い合った少女の重さではなかった。手足という質量を失った身体は、羽毛のように恐ろしいほど簡単に、ワタルの腕の中に収まった。
それなのに、その軽さが、彼の胸を潰れるほどの重さで締めつけた。
「……ん……」
ナギが、うっすらと鉛色のまぶたを震わせた。
その肌は極寒の廊下に晒され、氷のように透きとおって冷たくなっていた。
だが、ワタルの腕の熱に触れた瞬間、剥き出しの首筋では弱々しく、けれどトクトクと切実な鼓動が刻まれているのが伝わってきた。
「ワタル……? ほんとに……ワタルなの……?」
「ああ、そうだ、俺だ! 遅くなってごめん、ごめんな……っ!」
ワタルは彼女を、骨が鳴るほどの強さで抱きしめた。
己が持つ全ての体温を、心臓の絶叫を、全て彼女の空洞になった身体へと移し替えるような、祈祷に近い抱擁だった。
ナギは、泣き顔のままワタルの広すぎる胸に顔を埋めた。
彼女にはもう、大切な誰かを「抱き返す」ための腕が存在しない。
ただ、己の頬を、彼の体温へと必死に擦り付けることしかできないのだ。
「ぁ……、あったかい……。まだ、あったかいよ、ワタル……」
その震える一言が、ワタルの胸腔を暴力的に引き裂いた。
基地全体を支配する、絶望的な鉄と硝煙と死の匂いの中、互いの皮膚が発する僅かな熱だけが、この理不尽な宇宙における唯一の、そして最後の「生」の証明だった。
「怖かった。……一人で、このままゴミみたいに捨てられるのかと思って……、痛くて、怖くて……嫌だったよ……!」
子供のような、剥き出しの鳴き声を、ナギはあげた。
今まで彼女を支えていたプライドも、パイロット候補生としての意地も、そんな不純物は、彼の前では完全に決壊し、ただの少女へと回帰していた。
ワタルは言葉にならぬ呻きを飲み込み、ただ彼女が泣き疲れるまで、その乱れた銀髪を、血の滲んだ掌で撫で続けた。
ズドォォン――!!
至近距離で、基地の隔壁が物理的に破砕される爆鳴が轟いた。
天井から、コンクリートの粉塵が真っ白な灰のように降り注ぐ。
「……ナギ。ここでは死なせない」
感傷を噛み締める時間は、もはや神ですら与えてはくれなかった。
ワタルはナギを背負い直した。
手足のない彼女の身体は、崩れやすい脆い彫像を運ぶようで、背中に一点の重みを感じるたびに、彼は自身の罪の深さを自覚せずにはいられない。
「行くぞ! まだ、あがける!」
半壊した整備ハンガーへと飛び込む。
そこは、機械の墓場だった。
押し潰された整備兵たちの肉の断片。
ひしゃげ、内部機構を晒したまま沈黙する装甲車。
そして、その最奥。
暗がりの蜘蛛の巣に絡まるようにして、無骨な鉄の塊が鎮座していた。
極圏連合・地上重機動仕様ドライバー「スヴァーログ (Svarog)」。
戦術洗練度を度外視し、ただ出力と装甲圧力のみを追求した旧時代の兵器。
外装はあちこち剥がされ、油圧のバイパスチューブが内臓のように無様に垂れ下がったままの、死に体のテスト機だ。
だが、現在の狂った磁場の中で、論理的に動く可能性があるのは、この鉄の塊しかなかった。
「……ねえ、ワタル」
背中で、ナギが呟いた。
(私は、死にたかったのかもしれない)
独房で震えていた夜。ナギはそう思っていた。
自分が消えれば、彼は優しいままでいられるから。
自分の「生きたい」という願いが、ワタルを怪物に変えてしまうことこそが、死ぬことよりも恐ろしかった。
(けれど、ワタルは来てくれた)
世界を敵に回してでも、この私を選んでくれた。
――お前が生きて助けを求めれば、ヤツは正真正銘の『怪物』になるしかない。
あの時、ミラーはそう言った。
けれど、それはもう呪いではない。
彼がそれを望んだのだ。
彼が地獄を選んだのなら、私がその背中から降りることなど許されない。
死んで楽になるなんて、そんな逃げ道はもう残されていない。
(なら、私は生きる。……たとえ、あなたの足枷になるとしても)
あなたが流す血の理由になり続けるとしても。
(私はあなたの「呪い」になって、地獄の底まで付き合ってやる)
その声から、湿り気が完全に消えていた。
助けを求める子供ではない。
極低温で研ぎ澄まされた、氷点下の冷たさを湛えた「刃」の響き。
「あいつを……。私の、私だったものを奪っていったあいつを……。殺そう」
ああ、ワタルは頷いた。
そして腹の底から、短く答えた。
「地獄の果てまで、付き合ってやる」
コクピットハッチを乱暴にこじ開ける。
複座式の、狭苦しい金属の檻。
ワタルはナギを、後部座席《セカンドシート》の冷たいクッションへと押し込んだ。
「痛いかもしれねえけど、我慢しろ! 死ぬよりはマシだ!」
ナギの不完全な肉体は、自力でシートに定着することすらできない。
このまま加速すれば、一瞬でコンソールの壁に叩きつけられ、内臓破裂で終わる。
ワタルは緊急用の5点式ハーネスを、ナギの細い胴体へと、および深く食い込むほどきつく固定した。
その時。
ナギの背中の背もたれから不気味に突き出していた、共鳴駆動用の神経接続プラグ《レゾナンス・ニードル》が。ナギの脊髄後端のコネクタへと、無防備に、吸い込まれるように噛み合った。
カチリ、と。
世界が静止したような、絶対的な接続音。
「よし、これなら落ちない! 飛ぶぞ、ナギ!」
ワタルはそれを、ただのロック機構の作動音だと思い込み、前方パイロット席へと移動した。
コンソールの隅、赤いエラーログの隙間に一瞬だけ表示された致命的な通知—— [ResonanceLink: PAIN INTERFACE ENGAGED.] ——を、彼はまだ知る由もなかった。
首を失い、内部回路を露出させた胴体。
操縦士を乗せたまま、絶望的に千切れ飛んだコクピット・ブロック。
オイルと猛火を撒き散らしながら回転する、巨大なエンジンユニット。
鉄の雨だ。
人類が、科学の粋を結集して作り上げたはずの最強の航空戦力が、まるで高い空から投げ捨てられた不燃ゴミのように、あえなく極寒の地へとばら撒かれている。
「全滅……したのか? あんなに、たくさんいたのに……」
数分前まで、あれほど優雅に、そして力強く空を支配していた翼たちが。
たった1機の、たった1つの「敵」に対して、微塵の足止めすら叶わずに、ただのスクラップへと成り果てた。
ワタルの全身の肌が、予感を超えた恐怖で泡立つ。
希望という概念の、物理的な剥奪。
もはや。この空を守るものは、文字通り何一つ残っていなかった。
## 処刑人
主役は最後に現れた。
ズドォォォォォォォン……!!!
極圏基地の滑走路そのものが、巨大なハンマーに打ち砕かれたかのような、内臓を揺らす重い地響き。
瞬間、数百トンの粉雪とコンクリートの破片が爆風を伴って舞い上がり、ホワイトアウトした死の視界を形成した。
その不透明な極寒の幕の向こうから、巨大な、黒い「拒絶」そのものの輪郭が姿を現した。
Grade II Class A/B怪獣『ギロチン』。
全長約30メートル。
その外貌は、巨大なクワガタムシの意匠を、宇宙的な悪意で煮詰めたかのような、絶対的な不条理を体現していた。
全身を覆うのは、周囲のあらゆる光と色彩を貪り食うような、漆黒の共鳴結晶装甲。
ブォォォン……、ブォォォン……。
装甲の各パネルが常に不規則な周期で微細に励起し、物理的な接触を拒むような、耳障りな低周波のうなりを周囲に撒き散らしている。
そして。その頭部から前方へと突き出した、最大の特徴たる長大な二股の大顎《マンディブル》。
身の丈の半分以上にも及ぶその巨大な鎌のような刃の内側には、先ほど「咀嚼」したばかりのインターセプターのものと思われる、青い火花を散らすオイルと。……かつて人間だった、赤い飛沫がこびりついていた。
怪獣は。何の衒いもなく、ゆっくりと歩を進めた。
ズシン。ズシン。
防衛のために展開していた装甲車を、まるで枯れ葉を避けることもせず踏み潰し。
決死の対空砲火を、ただ皮膚を撫でるそよ風ほどにも気に留めず、前進する。
複眼のような感覚器は、足元に群がる人間など、1分1秒たりとも視界に捉えていない。