## 髪を切る朝
シャリ、シャリ、シャリ。
乾いた音が、清潔すぎる白い部屋に等間隔で響く。
クレイドル統合軌道士官学校、学生寮の共同洗面所。
ステンレスの刃が髪の繊維を噛み、一本一本を切断していく微細な感触が、ハサミを持つ指先へと逆流してくる。
朝七時三十分。
高度500km、赤道軌道上を時速28000kmで滑走するステーションは、今まさに昼と夜の境目を越えようとしていた。
鏡の前にはナギが静かに座り、ワタルはその背後に立っていた。
昨夜のプールの湿り気はもうない。
ワタルの指が触れる彼女のうなじは、乾いていて、柔らかく、そして温かい。
ハサミの冷たい金属光沢とは対照的な、生きている子供の肌。産毛の一本一本までが見える距離。
そこから立ち上るシャンプーの甘い香りが、ワタルの胸を微かに、しかし物理的な重圧となって締め付けた。
ハサミの刃先が彼女の瞼の数センチ先を掠める。
普通なら怖がって身をすくめる距離だ。
もし今、ワタルの手が滑れば、その刃は容易に彼女の眼球を傷つけるだろう。
だがナギは、完全に無防備に目を閉じ、呼吸を預けている。
その絶対的な信頼が、ワタルには少しこそばゆく、そして重い。
自分の手の中にある命の重さを、低軌道の重力作用とは別の質量として突きつけられているようだった。
「なんで俺なんだよ。美容師にでも切って貰えばいいのに」
照れ隠しに、ぶっきらぼうな声を出す。
その声には、自身の内側から漏れ出す独占欲が微かに滲んでいた。
「いいの。ワタルに切って欲しいの」
「失敗しても知らねーぞ。前髪ガタガタになっても泣くなよ」
「うん」
ナギは嬉しそうに頷く。
ケープの下、膝の上に置かれた彼女の手指が、小刻みに動いていた。
ピアノを弾いているのだ。
そこには鍵盤なんてないのに、彼女の指は膝頭の上で、ショパンかリストの難曲を正確にトレースしている。薬指と小指が独立して動き、見えない音を紡いでいる。
こんな時代でなければ、共鳴者《レゾナント》に選ばれることさえなければ、彼女は間違いなく音楽学校に通っていただろう。
彼女は、頭の中に鳴り響く旋律を、紡ぎ続けていた。
「……動くなよ。曲がるだろ」
「あ、ごめん」
ナギは慌てて指を止める。
その仕草が愛らしくて、ワタルは小さく息を吐いた。
「早く卒業して、本物のピアノ買いたいなぁ」
「初任給じゃ無理だろ。ドライバーの給料なんて、命の値段にしちゃ安すぎるって噂だぜ」
「……ねえワタル。卒業旅行でさ」
不意に、ナギの声のトーンが変わった。
甘えたような響きが消え、どこか切羽詰まったような、祈るような響き。
「地球《した》に行こうよ。二人で」
ワタルの手が止まる。
ハサミの刃が、宙で凍りついた。
鏡の中のナギが目を開けていた。
髪型を確認するためではない。鏡越しに、ワタルの瞳を射抜くように見つめている。
切実な、何かを訴えかけるような視線。
いつもの冗談ではない。
心臓の奥を強引に掴まれたような居心地の悪さを感じて、ワタルは視線を逸らした。
「ああ。……いいぜ」
「本当?」
「ああ。海とか、見に行こうぜ。本物の海を」
それ以上は聞かなかった。
聞けなかった。喉の奥に小骨が刺さったような違和感を、物理的な異物感として覚えながら、ワタルは答えた。
なぜ彼女が、規則違反のリスクを冒してまで昨夜プールに誘ったのか。
なぜ今日「ワタルに切ってほしい」と頼んだのか。
その理由を深く考えることを、本能が避けていた。
この儀式が、彼女なりの「さよなら」であることに気づかぬまま、彼は再びハサミを動かした。
ジョキッ。
切り落とされた黒い髪の束が、ふわりと舞う。
それはどこか、何か大切なものを損なっているような、取り返しのつかない破壊の感触にも似ていた。
ここクレイドル統合軌道士官学校の人工重力は0.8Gだ。
地上よりも僅かに軽いその空間で、髪の毛はスローモーションのように空中に停滞し、それから名残惜しそうに、窓から差し込む『ファイア・オーシャン』の赤光を反射しながら、白い床のリノリウムへとスローモーションでハラハラと落ちていく。
黒い雪。
あるいは、喪服の切れ端。
死のイメージが脳裏をよぎり、ワタルは慌ててそれを振り払うようにハサミを置いた。
「……よし。どうだ」
「えー。思い切り短くしてって頼んだのに」
ナギが不満げに頬を膨らませる。
彼女はベリーショートを希望していた。まるで何かを断ち切るかのように、男の子みたいにしてくれと言っていた。
だがワタルは、彼女の腰まである美しい黒髪を、肩のあたりで揃えるだけに留めていた。
切りたくなかったのだ。彼女の長い髪が好きだったから。
「いいんだよ。この方が可愛いだろ?」
無神経な一言。
だがその言葉に、ナギは過剰に反応した。
耳まで真っ赤にし、動揺し、視線を泳がせる。
鏡越しに見ているワタルの方が恥ずかしくなるほどの狼狽ぶりだ。
「そ、そうかなあ?」
「き、気に入らないなら、言う通りにするけど」
「ううん、これがいい。……ワタルが可愛いって言ってくれた、これで」
ナギは自身の髪に触れた。愛おしそうに。
それから、彼女の表情が変わった。
はしゃいだ少女の顔から、何かを決意した大人のような、静かで張り詰めた顔へ。
「ワタル」
「な、なんだよ……」
「……なんでもない。やっぱり、このほうが、いいや」
彼女は何かを飲み込んだ。
喉元まで出かかった言葉を、物理的な痛みと共に腹の底へ押し込んだようだった。
ごくり、と彼女の細い喉が動くのを、ワタルは見た。
ナギは椅子から立ち上がり、ワタルに向き直ると、右手を差し出した。
「握手、しよっ」
「……あくしゅ?」
ワタルは戸惑った。なんでこの流れで握手なのかわからない。
「もう、じれったい」
ぎゅっと、ナギが握りしめてきた。
なかなかナギは手を離さなかった。
何度も何度も、力を込めたり、緩めたりして。
ワタルの掌の厚み、操縦桿を握りすぎて出来たタコ、脈打つ血管の熱さ。
それらすべてを、自らの皮膚細胞に刻み込むかのように確かめている。
まるでもう二度と、何かに触れることなどできないかのように。
「どうしたんだよ、お前、本当に、変だぞ」
「ありがとう、ワタル」
「はぁ?」
「絶対に、忘れないから」
朝の光の中で、ナギの瞳にうっすらと涙が滲んでいた。
彼女の手だけがやけに熱い。
燃え盛る地球の光を反射して、彼女の瞳は深紅に輝いていた。
熱く、熱く、輝いていた。