## 痛み共有
極圏のドライバーは、宇宙で乗っていたものとは勝手が違っていた。
起動時に、いくつかのマニュアル操作を必要とした。
旧式機を使うこともあるかもしれないだろうと、手順を教え込んでくれた鬼教官に感謝するしかない。
ワタルは一次電源供給レバーを叩き伏せた。
「動けええぇぇッ!!」
ブォォォォン……!
スヴァーログの心臓、高密度シリコン燃焼炉が、重い低音の唸りを上げて休眠から目覚めた。
だが。
キィィィィン!! ビビビッ! ビビビッ!
コクピット内のすべてのパトライトが血の色に染まり、神経を逆撫でするような警告音が鼓膜を直接蹂躙した。
System: BIOS CONFLICT. UPDATING BODY MAP...
Target: Shirasuna Nagi (ID: Original-S)
「なっ、なんだ!? OSの書き換え……!? この土壇場で!」
ワタルは操縦桿を引き抜こうとしたが、次の瞬間、彼の肉体は金縛りに遭ったように、1ミリの挙動も許されず石化した。
制御システムが。ナギという、あまりに巨大で空虚な「入力デバイス」への適合を開始している。その極限の同調処理が完了するまで、パイロットの神経系はシステムの防衛反応により、強制的にロックされるのだ。
ズシン、ズシン。
ハンガーの入口、爆発で消し飛んだ重厚な扉の向こう側から、黒い絶望の山が迫りくる。
怪獣ギロチン。
その、シルフを容易く噛み砕いた巨大な大顎が、ゆっくりとこちらを向く。
死神の鎌がターゲットを定める、なんとも無機質な動作で。
「くそっ、動け!! あと少しなんだ!!」
ワタルの視界が、脂汗で滲む。
距離が縮まる。500。300。200。
モニター上のプログレスバーは、宇宙の終わりを待つように、1%ごとの歩みが永遠に感じられた。
Updating... 85%... 95%...
ギロチンの大顎が、最大の「咀嚼」のために大きく左右に割譲される。
死の暗転が、網膜を覆った。
「うわあああああああッ!!」
――パチッ。
System: RESONANCE-LINK COMPLETE. SYNC RATIO: OVERFLOW.
バチン、と視界が切り替わった。
圧倒的な、情報の開放。
肉体のロックが解けた瞬間、ワタルは感じた。
重力を忘却したような、理不尽なまでの軽さ。
100トンの鋼鉄と劣化ウランの塊であるはずのスヴァーログの巨体が、まるで自分の指、自分の皮膚、自分の神経の延長そのものであるかのように、あまりに鋭敏に認識できたのだ。
考える間すらなく、機体が、物理の限界を超えて跳ねた。
ガガギィィィィィン!!!
スヴァーログが横っ飛びに回避したコンマ1秒後、ギロチンの大顎が、ワタルがいた場所を、ハンガーのコンクリートごと粉砕して粉々に噛み砕いた。
「なんだ……? これ……!?」
ワタルは震える腕でコンソールを見た。
異常なまでの追従性。
今まで、どんなシミュレーション機でも、モリビトでも感じ得なかった、脳と機械のラグが、ゼロどころか逆転しているような感覚。
その時。
「あ、……ぐっ……!!」
後部座席。
インカム越しに、ナギの、何かに焼かれるような短い悲鳴が響いた。
「ナギ!? 大丈夫か! どこか打ったか!」
「……う、うん。……大丈夫。……ただ。……嬉しい、の」
ナギの声は痛みに喘いでいたが、そこには、背筋が凍りつくほどの、暗い全能の悦びが混じり込んでいた。
(……ある。……私、そこにいる)
ナギは、脳が直接溶解するような全能感の激流に飲まれていた。
レゾナンス・リンクが直結した瞬間、失われていたはずの四肢が、この因果の地平に戻ってきたのだ。
いや、それは、柔らかな人間の肉ではない。
油圧ジャッキの巨腕。核燃焼炉の咆哮。重力制御のアクチュエータ。
スヴァーログの、冷たく頑強な機体フレームそのものが。今、彼女の新しい「身体」として、不気味なほどの解像度で再編されていたのだ。
右拳を見舞おうと念じれば、機体の重厚なマニピュレータが、断末魔のような駆動音を伴って虚空を薙ぐ。
足を踏ん張れば、100トンの自重が雪原の岩盤を掴む感触が、直接、脳髄にフィードバックされる。
(私……動ける。……また、私でいられる……!)
あの忌々しい幻肢痛《ファントム・ペイン》が、現実の質量を伴う充足へと変換される。
もちろん、それは同時に、機体が受けるダメージ、熱、振動、そして死への恐怖が、一滴の漏れもなく彼女の脊髄を直接焼くことを意味していた。
「動けるよ……、ワタル」
だが、この世界の何も触れられず、誰からも認識されなかった、あの数時間の無間地獄に比べれば、裂かれるような「痛み」など、生を実感するための祝福に過ぎなかった。
「私、今。……あなたの腕になってる!」
ナギの声に、狂気じみた絶対的な覚悟が宿る。
ワタルは、前方のHUDを睨みつけた。
「……ああ、なら、一緒に、地獄をぶち抜いてやろうぜ!!」
スヴァーログが、雪原の地響きと共に、不格好に、しかし力強く立ち上がった。
二人一組《デュアル・パイロット》。
片翼をもがれた雛たちが、互いの欠損を鉄の義体で埋め合わせ、再び世界を蹂躙するために、鋼鉄の咆哮を上げた。
怪獣ギロチンが、獲物の反撃に驚愕し、大気の振動を裂くような殺意の雄叫びを上げた。
漆黒の尾が、鞭のような超音速のしなりを持って、スヴァーログの頭部を狙う。
速い。
視認どころか、ワタルの反射速度では回避不能な、情報の死角。
だが。
ガギィィィィィィィィィン!!
スヴァーログの左肩装甲が、ワタルの意識が介在しないところで勝手に「反応」し、内蔵された盾を正確に振り上げ、怪獣の必殺の一撃を、火花と共に正面から受け流していた。
「ナギ!」
「私には……! 360度、全部、肌で、『痛覚』で見える……!!」
後部座席でナギが呻くように叫ぶ。
彼女は今、全周センサーを皮膚としていた。
彼女が「盾」となり、ワタルが「剣」となる。互いの死角を、一つの生命系として補完し合う、異形の合体。
だが、物理的な質量差は、依然として絶望そのものだった。
怪獣の30メートルの巨躯が、スヴァーログを正面から押し潰さんとする。
ズザザザザザッ!
雪原の岩盤を無理やり削り、100トンの機体が後方へと無様に弾き飛ばされる。
「くっ……、重い! 重すぎる、バケモノめ!!」
ワタルが、操縦桿を折れんばかりに握りしめ、力を込める。
「くるよ、ワタル!! 武器を! 今すぐ何でもいいから……!」
焦燥するナギの叫びに同調し、HUD上に一つの「可能性」が、鮮やかな翠のドットを刻んだ。
雪原に埋もれた、基地の防衛遺構。
半壊した自走固定砲台の残骸の中に、奇跡的に生き残っている太い閃光があった。
「……ナギ、あそこだ! 3時方向!」
「ロックした! いける!」
「飛べッ!! スヴァーログ!!」
ワタルは、出力リミッターを足で踏み破った。
スヴァーログが足元の雪を爆破し、低空を滑走するように、怪獣の懐へと飛び込む。
怪獣もまた、逃げ場を塞ぐように巨体を激突させ、大顎を剥き出しにして迫りくる。
コンマ数秒の、距離の。そして命の競走。
「間に……合えええええええええ!!」
スヴァーログが膝をつきながら滑り込み。その鋼鉄の手が、雪の中から、200ミリ・リニアレールガンの砲身を、文字通り毟《むし》り取った。
バイパスケーブルを直接接続。強制外部チャージ開始。
フィィィィィン――!!
使い古されたコンデンサが死ぬ直前の悲鳴を上げ、砲口が狂ったような青白いプラズマを吐き出す。
目の前には、世界を噛み砕かんばかりに開かれた、ギロチンという名の奈落。
「落ちろよ、バケモノおおおおおおッ!!!」
ワタルは、至近距離、零距離、心臓の距離で。
トリガーを、引き絞った。
ズガァァァァァァァァァァァァァン!!!!!!
極圏の冷気を、一瞬で乾燥した真空へと変える、暴力的なまでの臨界放電だった。
超高速の弾体が、怪獣の、共鳴装甲が最も薄い、醜悪な大顎の付け根を貫通した。
ギロチンの巨体が、見えない巨人の鉄拳で顔面を殴打されたかのように、不自然な角度で後方へと、数百メートルも吹き飛んでいった。