Fire Ocean 大気圏焼却戦域   作:ウソカラマコト

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09: 痛み共有

## 痛み共有

 

 

 極圏のドライバーは、宇宙で乗っていたものとは勝手が違っていた。

 起動時に、いくつかのマニュアル操作を必要とした。

 旧式機を使うこともあるかもしれないだろうと、手順を教え込んでくれた鬼教官に感謝するしかない。

 ワタルは一次電源供給レバーを叩き伏せた。

 

「動けええぇぇッ!!」

 

 ブォォォォン……!

 スヴァーログの心臓、高密度シリコン燃焼炉が、重い低音の唸りを上げて休眠から目覚めた。

 だが。

 

 キィィィィン!! ビビビッ! ビビビッ!

 コクピット内のすべてのパトライトが血の色に染まり、神経を逆撫でするような警告音が鼓膜を直接蹂躙した。

 

 System: BIOS CONFLICT. UPDATING BODY MAP...

 Target: Shirasuna Nagi (ID: Original-S)

 

「なっ、なんだ!? OSの書き換え……!? この土壇場で!」

 

 ワタルは操縦桿を引き抜こうとしたが、次の瞬間、彼の肉体は金縛りに遭ったように、1ミリの挙動も許されず石化した。

 制御システムが。ナギという、あまりに巨大で空虚な「入力デバイス」への適合を開始している。その極限の同調処理が完了するまで、パイロットの神経系はシステムの防衛反応により、強制的にロックされるのだ。

 

 ズシン、ズシン。

 ハンガーの入口、爆発で消し飛んだ重厚な扉の向こう側から、黒い絶望の山が迫りくる。

 怪獣ギロチン。

 その、シルフを容易く噛み砕いた巨大な大顎が、ゆっくりとこちらを向く。

 死神の鎌がターゲットを定める、なんとも無機質な動作で。

 

「くそっ、動け!! あと少しなんだ!!」

 

 ワタルの視界が、脂汗で滲む。

 距離が縮まる。500。300。200。

 モニター上のプログレスバーは、宇宙の終わりを待つように、1%ごとの歩みが永遠に感じられた。

 Updating... 85%... 95%...

 ギロチンの大顎が、最大の「咀嚼」のために大きく左右に割譲される。

 死の暗転が、網膜を覆った。

 

「うわあああああああッ!!」

 

 ――パチッ。

 System: RESONANCE-LINK COMPLETE. SYNC RATIO: OVERFLOW.

 

 バチン、と視界が切り替わった。

 圧倒的な、情報の開放。

 肉体のロックが解けた瞬間、ワタルは感じた。

 重力を忘却したような、理不尽なまでの軽さ。

 

 100トンの鋼鉄と劣化ウランの塊であるはずのスヴァーログの巨体が、まるで自分の指、自分の皮膚、自分の神経の延長そのものであるかのように、あまりに鋭敏に認識できたのだ。

 

 考える間すらなく、機体が、物理の限界を超えて跳ねた。

 

 ガガギィィィィィン!!!

 スヴァーログが横っ飛びに回避したコンマ1秒後、ギロチンの大顎が、ワタルがいた場所を、ハンガーのコンクリートごと粉砕して粉々に噛み砕いた。

 

「なんだ……? これ……!?」

 

 ワタルは震える腕でコンソールを見た。

 異常なまでの追従性。

 今まで、どんなシミュレーション機でも、モリビトでも感じ得なかった、脳と機械のラグが、ゼロどころか逆転しているような感覚。

 

 その時。

 

「あ、……ぐっ……!!」

 

 後部座席。

 インカム越しに、ナギの、何かに焼かれるような短い悲鳴が響いた。

 

「ナギ!? 大丈夫か! どこか打ったか!」

「……う、うん。……大丈夫。……ただ。……嬉しい、の」

 

 ナギの声は痛みに喘いでいたが、そこには、背筋が凍りつくほどの、暗い全能の悦びが混じり込んでいた。

 

(……ある。……私、そこにいる)

 

 ナギは、脳が直接溶解するような全能感の激流に飲まれていた。

 レゾナンス・リンクが直結した瞬間、失われていたはずの四肢が、この因果の地平に戻ってきたのだ。

 

 いや、それは、柔らかな人間の肉ではない。

 油圧ジャッキの巨腕。核燃焼炉の咆哮。重力制御のアクチュエータ。

 スヴァーログの、冷たく頑強な機体フレームそのものが。今、彼女の新しい「身体」として、不気味なほどの解像度で再編されていたのだ。

 

 右拳を見舞おうと念じれば、機体の重厚なマニピュレータが、断末魔のような駆動音を伴って虚空を薙ぐ。

 足を踏ん張れば、100トンの自重が雪原の岩盤を掴む感触が、直接、脳髄にフィードバックされる。

 

(私……動ける。……また、私でいられる……!)

 

 あの忌々しい幻肢痛《ファントム・ペイン》が、現実の質量を伴う充足へと変換される。

 もちろん、それは同時に、機体が受けるダメージ、熱、振動、そして死への恐怖が、一滴の漏れもなく彼女の脊髄を直接焼くことを意味していた。

 

「動けるよ……、ワタル」

 

 だが、この世界の何も触れられず、誰からも認識されなかった、あの数時間の無間地獄に比べれば、裂かれるような「痛み」など、生を実感するための祝福に過ぎなかった。

 

「私、今。……あなたの腕になってる!」

 

 ナギの声に、狂気じみた絶対的な覚悟が宿る。

 ワタルは、前方のHUDを睨みつけた。

 

「……ああ、なら、一緒に、地獄をぶち抜いてやろうぜ!!」

 

 スヴァーログが、雪原の地響きと共に、不格好に、しかし力強く立ち上がった。

 二人一組《デュアル・パイロット》。

 片翼をもがれた雛たちが、互いの欠損を鉄の義体で埋め合わせ、再び世界を蹂躙するために、鋼鉄の咆哮を上げた。

 

 怪獣ギロチンが、獲物の反撃に驚愕し、大気の振動を裂くような殺意の雄叫びを上げた。

 漆黒の尾が、鞭のような超音速のしなりを持って、スヴァーログの頭部を狙う。

 

 速い。

 視認どころか、ワタルの反射速度では回避不能な、情報の死角。

 だが。

 

 ガギィィィィィィィィィン!!

 スヴァーログの左肩装甲が、ワタルの意識が介在しないところで勝手に「反応」し、内蔵された盾を正確に振り上げ、怪獣の必殺の一撃を、火花と共に正面から受け流していた。

 

「ナギ!」

「私には……! 360度、全部、肌で、『痛覚』で見える……!!」

 

 後部座席でナギが呻くように叫ぶ。

 彼女は今、全周センサーを皮膚としていた。

 彼女が「盾」となり、ワタルが「剣」となる。互いの死角を、一つの生命系として補完し合う、異形の合体。

 

 だが、物理的な質量差は、依然として絶望そのものだった。

 怪獣の30メートルの巨躯が、スヴァーログを正面から押し潰さんとする。

 

 ズザザザザザッ!

 雪原の岩盤を無理やり削り、100トンの機体が後方へと無様に弾き飛ばされる。

 

「くっ……、重い! 重すぎる、バケモノめ!!」

 

 ワタルが、操縦桿を折れんばかりに握りしめ、力を込める。

 

「くるよ、ワタル!! 武器を! 今すぐ何でもいいから……!」

 

 焦燥するナギの叫びに同調し、HUD上に一つの「可能性」が、鮮やかな翠のドットを刻んだ。

 雪原に埋もれた、基地の防衛遺構。

 半壊した自走固定砲台の残骸の中に、奇跡的に生き残っている太い閃光があった。

 

「……ナギ、あそこだ! 3時方向!」

「ロックした! いける!」

「飛べッ!! スヴァーログ!!」

 

 ワタルは、出力リミッターを足で踏み破った。

 スヴァーログが足元の雪を爆破し、低空を滑走するように、怪獣の懐へと飛び込む。

 怪獣もまた、逃げ場を塞ぐように巨体を激突させ、大顎を剥き出しにして迫りくる。

 コンマ数秒の、距離の。そして命の競走。

 

「間に……合えええええええええ!!」

 

 スヴァーログが膝をつきながら滑り込み。その鋼鉄の手が、雪の中から、200ミリ・リニアレールガンの砲身を、文字通り毟《むし》り取った。

 バイパスケーブルを直接接続。強制外部チャージ開始。

 フィィィィィン――!!

 使い古されたコンデンサが死ぬ直前の悲鳴を上げ、砲口が狂ったような青白いプラズマを吐き出す。

 目の前には、世界を噛み砕かんばかりに開かれた、ギロチンという名の奈落。

 

「落ちろよ、バケモノおおおおおおッ!!!」

 

 ワタルは、至近距離、零距離、心臓の距離で。

 トリガーを、引き絞った。

 

 ズガァァァァァァァァァァァァァン!!!!!!

 

 極圏の冷気を、一瞬で乾燥した真空へと変える、暴力的なまでの臨界放電だった。

 超高速の弾体が、怪獣の、共鳴装甲が最も薄い、醜悪な大顎の付け根を貫通した。

 ギロチンの巨体が、見えない巨人の鉄拳で顔面を殴打されたかのように、不自然な角度で後方へと、数百メートルも吹き飛んでいった。

 

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