## 純白の要塞
二人に割り当てられたのは、鉄格子の嵌まった独房ではなかった。
共鳴駆動兵器《レゾナンス・ドライバー》パイロット専用の居住区画。その最上級個室である。
壁も床も、目がおかしくなるほど純度の高い白一色で統一されていた。
光を乱反射し、視細胞を焼き切るような苛烈な白だ。
無垢材のように見えるが、その正体は外部のあらゆる電磁干渉を遮断する、最高級の電波吸収シールド材である。完全防音。無菌。
極北の機能美が、暴力的なまでの静謐さとして凝固していた。
「ワタル、見て。このベッド……」
彼女はベッドの上で、重力を忘れたように飛び跳ねてた。
医療用グレードの低反発マットレスが、彼女の華奢な体重と、冷たく硬質なチタン合金の義足を受け止め、音も立てずに沈み込んでは、正確な反力で押し返す。
タン。軽く踏む。
タン、タン。少しずつ力を込める。
そして床にジャンプする。
ダンっ。
リノリウムの床に、義足の接地面が触れる。
足の裏の感覚はない。
代わりにソケットが太腿の切断面を圧迫し、サーボモーターの微振動が大腿骨を伝って腰椎まで登ってくる。
それは痛みではない。自分の足でもない。
名前のつかない、新しい感覚だった。
ソケットが断端の肉を締め付ける冷徹な圧迫感と、超高速で演算を繰り返すサーボモーターの超微細な振動が、骨伝導によって脊椎に直接流れ込んでくる。
ナギは義足の踵で床を蹴り、くるりと一回転した。
「……すごいね」
呟きに、驚きがにじむ。
数日前まで寝たきりだった身体が、今は回転できる。
その事実を、ナギは言葉ではなく、もう一度の回転で噛み締めた。
ワタルに向けたピースサインの右手は、銀色のチタンだった。
「この足、すごく反応がいい! 大地を掴むみたいにちゃんと立てる!」
数日前まで、彼女は汚れたシーツの上で、自力で寝返りを打つことすら許されない肉塊だった。
それが今、GODAの技術の粋を集めた精密機器として、妖精のような軽やかさで舞っている。
「……ああ、すごいな。本当によかった」
ワタルは安堵と共に頷いた。
ここに来てよかった、とは決して口にできない。
その言葉は、足下の雲海に沈んだ2300万人の、肉を焼かれ骨を砕かれた死者たちへの、致命的な裏切りになるからだ。
だが、現実にナギは、目の前で笑っている。
地上の瓦礫と鉄錆の地獄では、この笑顔を見ることは出来なかった。
それだけは事実だった。
部屋のチャイムが予兆なく鳴った。
壁面のデリバリーハッチが、音もなく滑り開いた。
そこには、銀色のトレイに乗った、過剰なほど贅沢な食事が置かれていた。
尉官以上のパイロット――すなわち、高価な生体部品への特例措置としての特別食《オフィサーズ・ミール》だ。
ドームカバーを持ち上げると、密閉されていた芳醇な脂の香りが、官能となって鼻腔を襲った。
分厚いステーキの断面から溢れ出す、宝石のような肉汁。
そして、零下に近い冷蔵庫から取り出されたばかりの、氷の結晶を纏った瑞々しいトマト。
チューブから絞り出される合成ペーストしか知らない彼らにとって、それは現実感を失わせるほどの色鮮やかな「毒」にすら見えた。
「ほんとに……? これ全部、食べていいの?」
ナギが瞳を輝かせ、トレイを覗き込む。
ワタルは微笑みながら促した。
自分の部屋に戻れば、同じメニューが届いていた。
ナギの部屋で食べることにした。
「さあ、座って。冷めないうちに」
二人は、冷たい機能的なテーブルに向かい合った。
ナギは躊躇うことなく、神経接続された右手の義手を伸ばした。
カチン。
チタンの指先がシルバーのフォークを完璧にホールドする。
アクチュエーターが微かな高周波を立て、彼女の脳波を正確に、力強い出力へと変換した。
ナギは器用にトマトを突き刺し、口へと運んだ。
プチッ。
高圧で封じ込められた果肉が弾ける鮮烈な音が、防音壁に跳ね返ってワタルの鼓膜を刺した。
「ん――!」
ナギの手が、驚愕に凍りつく。
「すっぱい! でも、すごく強い甘さがする! ……ワタル、これすごいよ。本の味がする!」
「本の味?」
「うん! 図鑑に書いてあった『太陽の原液』って、きっとこういうことだよ!」
ナギは頬を赤らめ、次はステーキへと、躊躇うことなくフォークを突き立てた。
自分の力で肉を切り、自分の手で口に運ぶ。
ただそれだけのことが、今の彼女には魔法のような冒険なのだ。
「自分で切れるよ、ワタル。もう切ってもらわなくても大丈夫!」
「ああ……すごいな。本当に、君は強いよ」
ワタルも、透明なコンソメを口にした。
香辛料と動物性タンパク質の旨味が、戦場と不眠で荒れ果てた身体の隅々にまで、染み渡っていく。
美味しい。
それはこれまで食べてきたあらゆるものとは次元が異なっていた。
俺たちは死と隣り合わせの契約書にサインをし、その対価としてこの「純白の要塞」への切符を手に入れたのだ。
天井の隅で、監視カメラの赤いLEDがゆっくりと点滅している。
チ、チ、チ。
微かなサーボ音。
レンズの焦点が合い直す度に、針の先のように鋭い機械音が鳴る。
硝子の瞳が、俺たちを見張っている。
貴重な戦力として。あるいは、高価な実験動物として。
その視線はナギの義手の動きを追い、咀嚼回数を数え、カロリー摂取量を計測しているのかもしれなかった。
ならば、その視線に応えなければならない。
計測されるに値する成果を上げることこそが、生存価値なのだから。
この温かい部屋と、美味しい食事、そしてナギの笑顔を、守り続けるために。
「ワタルも食べて! このお肉、すごく柔らかいよ!」
ナギが切り分けた肉を差し出してくる。
ワタルは口を開け、それを受け入れた。
肉汁の旨味が口いっぱいに広がる。舌の上で蕩ける脂の甘さ。
美味い。涙が出るほど美味い。
だが、その旨味を味わう舌の裏側で、何かが酸っぱく鳴っている。
これは報酬だ。
そしてこの報酬の原資は、これから俺たちが支払う「血」と「痛み」なのだ。
退路を断たれた共犯者たちの、最後の晩餐。
ワタルは肉を飲み込み、ナギに微笑んだ。
もうナギを悲しませたりはしない。
たとえ、その笑顔を守るための代償が何であっても。