## NDA - 秘密保持契約
通されたのは、防音壁に囲まれた尋問室だった。
窓はない。天井の灯だけが、ステンレス製の長机を白く照らし出している。
空気はひどく乾燥し、消毒液と冷たい鉄の臭いが混じっていた。
嗅いだだけで口腔の水分が奪われるような、敵意を持った空気だ。
机の向こう側に、男が座っていた。
軍帽を目深に被り、階級章のついた制服を隙なく着こなしている。
サイオン・ミラー大佐。
第13軌道師団の指揮官であり、ワタルたちをこの「天上の牢獄」へ招き入れた張本人だ。
彼はワタルが入室しても顔を上げず、手元のタブレット端末を指で操作していた。
そして、無言で一台のタブレットをテーブルに滑らせた。
「座れ」
短い命令。
ワタルはパイプ椅子に腰を下ろした。
冷たい金属の感触が、薄手の制服越しに背筋へと這い上がってくる。
「署名しろ。契約書のようなものだ」
渡されたタブレットには、こうあった。
『機密保持契約書《NDA》』
膨大な条文の羅列だ。
しかしミラーが指し示したのは、その別紙として添付された書類だった。
言われるままにスクロールする。
そこには複座型システムの運用に関する、奇妙な記述があった。
『主操縦者《ファースト・パイロット》及び副操縦者《セカンド・パイロット》の役割分担について』
『――機体からの逆流負荷《バックフロー》は、副操縦者の神経回路へ誘導・蓄積されるものとする』
「……逆流負荷?」
「そうだ。ドライバーは怪獣由来の機構を多数搭載している。これらを制御するには、一人の脳では処理が追いつかないことは、貴様も知っているはずだ」
「だから、二人で分担するんですね?」
「表向きはな」
ミラーは指を組み、冷ややかな視線を向けた。
「だが、真の理由はここにある」
彼が指差したのは、その下の条項だった。
『副操縦者は、機体制御の補助を行いつつ、主操縦者を保護するための【精神的避雷針】としての役割を担う』
「避雷針?」
ワタルは顔を上げ、ミラーを見据えた。
「貴様も体験しているはずだ。怪獣との戦闘時、怪獣に激しいダメージを与えた時、精神に強い衝撃を食らったことを」
「……はい。あれは、何なんです?」
「痛覚逆流《バックフロー》だ」
ミラーは感情のない声で答えた。
「……怪獣は声ではなく精神波で会話をするという話は知っているか?」
「テレパシーのようなものだと教えられました」
座学ではない。鬼教官とのドライバー訓練中に聞かされたことだ。
「共鳴《レゾナンス》とは怪獣由来の技術だ。お前たちの意思を兵器に伝達するシステムでもあるが、怪獣からの精神波も受け取っている」
「それが、あの時の?」
「そうだ。怪獣を殺すと、死の激痛がこちらに返ってくる。それがこの共鳴駆動《レゾナンス・ドライブ》の弱点だ」
「じゃあ、この避雷針ってのは……?」
「文字通りの意味だ。死の激痛を引き受けてもらって、代わりに死んでもらう」
ドクン、とワタルの心臓が跳ねた。
避雷針。
過剰電流を受け止め、回路を守るために使い捨てられる部品。
「現場のエースたちは、その役割を『ヒューズ』と呼んでいる」
その響きは、あまりにも無機質で、残酷だった。
人間を、ただの消耗部品として定義するための、たった四文字の隠語。
「……ナギを、ヒューズにするつもりですか」
「本来なら、彼女はもっと悲惨な運命を辿るはずだった」
ミラーは、まるで慈悲深い保護者のような口ぶりだった。
だが、その瞳には一欠片の温かみも宿っていない。
「……条件? 何を約束させられるんですか」
「このシステムの実態について、他言しないことだ。軍内部であってもな」
ミラーは表情を変えずに言った。
「ゴーレム・プロジェクトは頓挫した。お前のせいでな」
「当たり前だ!」
ワタルは思わず身を乗り出した。
あの忌まわしい記憶。
ナギの四肢を奪い、彼女を兵器に変えようとした狂気の計画。
それを阻止したことを、後悔したことなど一度もない。
それは怪獣細胞を持つナギを怪獣と融合させ、怪獣兵器とするための狂気のプロジェクトだ。
神経組織を接合するため、ナギは手足を切り落とされた。
「彼女は怪獣細胞、K・レセプタを持っているが、それはどんな怪獣とも結合できることを意味しない。お前が怪獣《スコポレンドラ》の首を斬り落としたせいで、彼女は乗り込むべき『機体』を失ったのだ」
「な、何の話を……?」
「つまり軍にとって、彼女を生かしておく理由がなくなったということだ」
ミラーは淡々と、しかし残酷な事実を並べ立てた。
「使い道のなくなった彼女は、次のプロジェクトのための研究材料となるか、あるいは実験台。どちらにせよ意識や記憶は必要ない。それらを完全に切除《ロボトミー》する手術が予定されていた」
「なっ……」
「使い物にならない玩具は捨てる。それが軍の論理だ」
ワタルは愕然とした。
生体部品。意識のない肉塊として、機械の中に組み込まれる未来。
それが、ナギに用意されていた「正規の」運命だったというのか。
「ふざけんなよ!」
「私が変更した」
ミラーの声が、ワタルの怒号を冷たく遮った。
「彼女をセカンド・パイロットとして登録し、ドライバーとして搭乗させる特例措置をとった。むしろ感謝して欲しいくらいだ」
その言葉の裏に、奇妙な響きがあった。
単なる合理性だけではない、何か個人的な執着のような湿度。
だが、今のワタルにそれを見抜くだけの余裕はなかった。
「か、感謝しろ……、だって? ふざけるな!」
ワタルは拳でテーブルを叩いた。
ステンレスの表面に鈍い衝撃音が走り、タブレットが微かに跳ねる。
もはや上官への敬意など吹き飛んでいた。
「そんなの、どっちも地獄じゃないか! ナギを盾にして生き残るくらいなら、俺は……!」
「彼女はすでに同意している」
ミラーが、ワタルの叫びを遮った。
「え……?」
「シラサゴ・ナギ少尉は、既にこの契約書を確認し、署名を済ませている。彼女は自ら選んだのだ。意識のない肉塊として生かされるより、お前の盾として、痛みを感じながら戦うことを」
ミラーが画面をスクロールさせた。
契約書の末尾が表示される。
そこには、見慣れた、しかし少し震えた文字で『ナギ・シラサゴ』とサインされていた。
「そん、な……」
彼女は、ワタルに黙って自分を切り捨てた。
ワタルの盾になり、痛みのすべてを引き受けると、この震える文字で誓ったのだ。
その自己犠牲が、ワタルの胃の底を焼くような怒りと、耐え難いほどの悲しみを生み出した。
「あとは、お前の署名だけだ」
ミラーは電子ペンをテーブルに置いた。
カツン、という硬質な音が、静寂の中で不自然に大きく響いた。
「この非人道的なシステムの共犯者になること。それがナギを『人間』として留めておくための唯一の条件だ」
「……嫌だと言ったら?」
「当初の予定通り、彼女は生体ユニット加工プラントへ移送されることになる」
ワタルの視界が揺らいだ。
選択肢などなかった。
ナギを生かす道は、俺が彼女を殺し続けるシステムを受け入れることしかない。
それが、俺たちが犯した罪への罰なのだとしたら――あまりにも、あんまりじゃないか。
ワタルは震える手でペンを握った。
指先から全身へ、インクのように黒く重い絶望が広がっていく。
書くしかない。
悪魔への魂の売り渡し状だとしても、ナギを守るためには。
ナギが自ら署名したことは理解している。
彼女の覚悟も、痛いほどに伝わっている。
それでも、この名前を重ねることは、彼女を「部品」として承認することと同義だ
ペン先がディスプレイに触れる。
名前を書く。
それは悪魔への魂の売り渡し状に思えた。