## 人間性の剥奪
視神経を焼くような白だった。
無影灯の光量が、通常の医療規格を遥かに超えている。
影を許さないその光は、対象物の立体感を奪い、すべてを平面的な「図面」のように暴き立てていた。
第12医療研究ラボ。
ワタルは強化ガラスに額を押し当て、その光景を凝視していた。
ガラスは、残酷なほどに冷たかった。
額からじりじりと熱が奪われ、代わりに骨の奥まで凍りつくような虚無感が這い上がってくる。
吐き出す息がガラスを白く曇らせる。
目の前の光景を隠してくれるその白さを、今のワタルは何よりも愛おしく、同時に呪わしく感じていた。
(俺はまだ、署名していない)
あの尋問室で、悪魔への売り渡し状を拒絶したワタルに対し、ミラーは眉一つ動かさず、ただ顎をしゃくってこの地獄を指し示した。
『判断材料が足りないようだな。現物を見せてやる』
ガラスの向こう、部屋の中央にあるステンレスの手術台に、ナギが座らされていた。
半裸に近い。
薄い検査衣を一枚羽織っているだけだが、その前は大きく開け放たれ、義手と義足の接続部《ソケット》が剥き出しになっていた。
彼女を取り囲んでいるのは、白衣を着た技師の男たちだ。
「――No.4ポート、信号感度良好。サーボ圧力、定格内」
「神経伝達速度、リミッター解除。同期率98%」
男たちは淡々と数値を読み上げていた。
そこに「少女の肌に触れている」という意識は微塵も感じられない。
彼らの目は、ナギの肢体を見ていない。
手元のタブレットに表示される波形と、義手のモーター音だけを見ている。
まるで、精巧なマネキンの関節を調整しているかのような、冷徹な手つき。
羞恥心への配慮も、人間としての尊厳に対する敬意も、そこには一切存在しなかった。
ワタルはガラスに張り付き、その光景を呆然と見つめていた。
爪が、ガラスの上で甲高い音を立てる。
見ていられなかった。
ナギが乱暴に扱われているからではない。
むしろ逆だ。
あまりにも事務的で、あまりにも整然と、彼女が「分解」され「再構築」されているからだ。
まるで、機械。
それがここでの「正常」なのだと突きつけられているようで、胃の中の酸が逆流しそうになる。
その時、台の上のナギが顔を動かした。
ガラスの向こうのワタルに気づいたのだ。
彼女は、微笑んだ。
恥じらうことも、怯えることもなく。
満面の笑みで、唇を動かした。
『見て、ワタル』
ガラス越しでも、その口の動きがはっきりと読み取れた。
彼女は義手でOKサインを作り、技師たちの指示に従ってポーズを取ってみせる。
『私、ちゃんと数値が出てるって。役に立ってるよ』
ワタルの喉奥から、言葉にならない呻きが漏れた。
戦慄。
そう、これは恐怖だ。
もし彼女が嫌がっていたら、泣いていたら、ワタルは怒りでガラスを叩き割っていただろう。
だが、彼女は喜んでいる。
ワタルの役に立てること。
この巨大なシステムの一部として、自分が「機能」していること。
その事実に、彼女は満足すら感じているようだった。
「……ふざけるな」
ワタルは拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
「そんな顔で……笑うなよ」
こんなにも惨い光景の中で、なぜ君は笑えるんだ。
人間としての尊厳を剥ぎ取られ、部品として扱われているのに。
彼女は、自ら進んで「人間」であることを捨てようとしている。
その純粋すぎる献身が、今のワタルには何よりも恐ろしく、痛ましかった。
ワタルは部屋を出ようとドアノブに手を掛けた。
ロックされている。
電子音が、無情にも拒絶を告げる。
彼はこの光景から逃げることすら許されていない。
「逃げるのか、少尉」
ミラーが言う。
「貴様は、ナギが『部品』として完成されていく様を、最後まで見届ける義務がある」
「ふざけるな……」
ワタルはガラスに額を押し付け、背後に立つ気配――ミラーに向けて低い声で唸った。
「こんな契約、絶対にサインなんかしない。彼女は部品じゃない!」
振り返ると、ミラーは無表情のまま、タブレットの画面を見ていた。
ワタルの激情など、真空の宇宙に放り出された塵ほどにも気にしていない。
「言いたいことはそれだけか?」
ミラーは軍帽のつばを指で押し上げ、冷たい爬虫類の目でワタルを射抜いた。
「場所を変えるぞ。貴様のその甘ったれた脳みそを、物理的に解体する必要がある」
## 柔道
身体が宙に浮いた。
天地が逆転し、視界の端を天井の蛍光灯が流線となって過ぎ去る。
受け身を取る暇もなかった。
背中に凄まじい衝撃。
「が……っ!?」
バンッ!! という破裂音が、鼓膜ではなく骨を伝わって脳を揺らす。
肺の中の空気が一瞬で強制排出され、視界が明滅した。
畳の匂い。
い草の懐かしい香りではない。汗と、カビと、染み込んだ血液が酸化した、鉄錆びのような臭いだ。
基地内トレーニングルーム。
壁には『精力善用《せいりょくぜんよう》』『自他共栄《じたきょうえい》』と書かれた古びた額が飾られているが、この場所に「共栄」などという言葉は似合わない。
ここは一方的な暴力の教室だ。
ワタルは畳の上に膝をつき、身動きが取れなかった。
全身が軋んでいる。
肩の関節が外れかけているような鈍痛。肋骨のあたりがズキズキと脈打っている。
顎を伝った血が、畳のい草に不格好な染みを作っていく。
その赤を見つめながら、ワタルは自分の血の匂いを嗅いだ。
錆びた鉄の臭い。生温かく、どこか甘ったるい。
目の前に、黒帯を締めたミラーが立っていた。
その柔道着は白く糊が効いており、乱れ一つない。息一つ乱していない。
ミラーは背を向けたまま、振り返りもしない。
勝利どころか、勝負にすらなっていなかった。
「迷いがある」
ミラーは冷徹に言い放ち、ようやく視線だけでワタルを見下ろした。
「だから軽い。だから弱い。だから届かない」
「は、ぁ……っ、ぐ……!」
ワタルは震える足で立ち上がろうとする。
膝が笑って力が入らない。
ミラーは一歩も動かず、ただの「壁」としてそこに在り続けている。
「署名を拒否した理由はなんだ?」
質問ではない。尋問だ。
ワタルは咳き込みながら、口の中に溜まった血を畳に吐き捨てた。
「……言ったはずだ。彼女を、道具扱いしたくない」
「守りたいからか?」
「当たり前だ!」
ワタルは叫び、無防備に突っ込んだ。
右ストレート。素人丸出しの攻撃。
技術なんてない。
あるのは、腹の底で煮え繰り返る怒りだけだ。
ナギを侮辱し、俺たちをシステムの一部として扱おうとするこの男への、純粋な殺意。
拳がミラーの顔面を捉える――直前。
視界が消えた。
気づいた時には、再び天井を見上げていた。
「ごふっ……!」
そして、みぞおちに強烈な踏み込み。
ミラーの踵が、ワタルの横隔膜を容赦なく踏み潰している。
呼吸ができない。意識が飛びかける。
「守りたい? 笑わせるな」
ミラーの声が、遠くから降り注ぐように響く。
「守るとは、勝つことだ。敵を破壊し、生存圏を確保することだ。最後に立っていなければ何の意味もない」
踵がグリとねじ込まれる。激痛。
ワタルの手が、畳を掻きむしる。
「共鳴駆動《レゾナンス》は、セカンドに痛みを押し付けるシステムだ。それに署名すれば、貴様はナギを食い物にする『加害者』になる。貴様はその現実から逃げているだけだ」
「……!」
横隔膜が潰れ、声にならない悲鳴が口腔内で泡立つ。
踏まれた肋骨が軋む。激痛だ。
だが、不思議なことに、痛みは効いていなかった。
骨が折れても、皮膚が裂けても、その痛みは所詮、神経信号の刺激に過ぎない。鎮痛剤で殺せる痛みだ。修復可能な損傷だ。
だが、ミラーの声は別だった。
この男の言葉は、鼓膜を素通りし、肋骨の檻をすり抜け、直接「心臓」を握りつぶす。
どれほど腕を上げて防御しても、脊髄端子など通さずとも、この男の言語はワタルの最奥を精密に破壊した。
「貴様は自分の手が汚れるのを恐れている。その潔癖さが奇麗事だと気づかない限り、貴様は何も守れない」
ミラーが、ゆっくりと踵を退けた。
解放された横隔膜が痙攣し、ワタルは畳の上でのたうち回る。
乾いた嗚咽と共に吸い込んだ空気は、い草の繊維と、自分の血の鉄臭さで飽和していた。
図星だった。
俺は恐れている。ナギが傷つくことじゃない。
俺自身が――加害装置《システム》の一部になることを恐れている。
あのホワイトルームで、ナギの義手を調整していた技師たちの手つき。あの冷徹さ、あの効率性。
あれが俺の未来だ。
セカンドシートのナギに痛みを流し込みながら、操縦桿を握り続ける。あの技師たちと同じ側に立つ。
その光景を想像するだけで、胃の底から冷たい酸が喉元まで競り上がってきた。
「自分の良心を守るために、彼女の生存確率を下げているのはどこの誰だ?」
ミラーは畳にしゃがみ込み、ワタルの顔を鷲掴みにした。
痛い。骨が軋むほど強い力。
至近距離で、爬虫類の瞳が俺を覗き込む。
「立て、少尉。貴様のその安っぽいヒューマニズムが、どれほど無力か、骨の髄まで教えてやる」