Fire Ocean 大気圏焼却戦域   作:ウソカラマコト

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05: 人間性の剥奪 / 柔道

## 人間性の剥奪

 

 

 視神経を焼くような白だった。

 無影灯の光量が、通常の医療規格を遥かに超えている。

 影を許さないその光は、対象物の立体感を奪い、すべてを平面的な「図面」のように暴き立てていた。

 

 第12医療研究ラボ。

 

 ワタルは強化ガラスに額を押し当て、その光景を凝視していた。

 ガラスは、残酷なほどに冷たかった。

 額からじりじりと熱が奪われ、代わりに骨の奥まで凍りつくような虚無感が這い上がってくる。

 吐き出す息がガラスを白く曇らせる。

 目の前の光景を隠してくれるその白さを、今のワタルは何よりも愛おしく、同時に呪わしく感じていた。

 

(俺はまだ、署名していない)

 

 あの尋問室で、悪魔への売り渡し状を拒絶したワタルに対し、ミラーは眉一つ動かさず、ただ顎をしゃくってこの地獄を指し示した。

 

『判断材料が足りないようだな。現物を見せてやる』

 

 ガラスの向こう、部屋の中央にあるステンレスの手術台に、ナギが座らされていた。

 半裸に近い。

 薄い検査衣を一枚羽織っているだけだが、その前は大きく開け放たれ、義手と義足の接続部《ソケット》が剥き出しになっていた。

 彼女を取り囲んでいるのは、白衣を着た技師の男たちだ。

 

「――No.4ポート、信号感度良好。サーボ圧力、定格内」

「神経伝達速度、リミッター解除。同期率98%」

 

 男たちは淡々と数値を読み上げていた。

 そこに「少女の肌に触れている」という意識は微塵も感じられない。

 彼らの目は、ナギの肢体を見ていない。

 手元のタブレットに表示される波形と、義手のモーター音だけを見ている。

 まるで、精巧なマネキンの関節を調整しているかのような、冷徹な手つき。

 羞恥心への配慮も、人間としての尊厳に対する敬意も、そこには一切存在しなかった。

 

 ワタルはガラスに張り付き、その光景を呆然と見つめていた。

 爪が、ガラスの上で甲高い音を立てる。

 見ていられなかった。

 

 ナギが乱暴に扱われているからではない。

 むしろ逆だ。

 あまりにも事務的で、あまりにも整然と、彼女が「分解」され「再構築」されているからだ。

 

 まるで、機械。

 それがここでの「正常」なのだと突きつけられているようで、胃の中の酸が逆流しそうになる。

 

 その時、台の上のナギが顔を動かした。

 ガラスの向こうのワタルに気づいたのだ。

 

 彼女は、微笑んだ。

 恥じらうことも、怯えることもなく。

 満面の笑みで、唇を動かした。

 

『見て、ワタル』

 

 ガラス越しでも、その口の動きがはっきりと読み取れた。

 彼女は義手でOKサインを作り、技師たちの指示に従ってポーズを取ってみせる。

 

『私、ちゃんと数値が出てるって。役に立ってるよ』

 

 ワタルの喉奥から、言葉にならない呻きが漏れた。

 戦慄。

 そう、これは恐怖だ。

 

 もし彼女が嫌がっていたら、泣いていたら、ワタルは怒りでガラスを叩き割っていただろう。

 だが、彼女は喜んでいる。

 ワタルの役に立てること。

 この巨大なシステムの一部として、自分が「機能」していること。

 その事実に、彼女は満足すら感じているようだった。

 

「……ふざけるな」

 

 ワタルは拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。

 

「そんな顔で……笑うなよ」

 

 こんなにも惨い光景の中で、なぜ君は笑えるんだ。

 人間としての尊厳を剥ぎ取られ、部品として扱われているのに。

 彼女は、自ら進んで「人間」であることを捨てようとしている。

 その純粋すぎる献身が、今のワタルには何よりも恐ろしく、痛ましかった。

 

 ワタルは部屋を出ようとドアノブに手を掛けた。

 ロックされている。

 電子音が、無情にも拒絶を告げる。

 彼はこの光景から逃げることすら許されていない。

 

「逃げるのか、少尉」

 

 ミラーが言う。

 

「貴様は、ナギが『部品』として完成されていく様を、最後まで見届ける義務がある」

「ふざけるな……」

 

 ワタルはガラスに額を押し付け、背後に立つ気配――ミラーに向けて低い声で唸った。

 

「こんな契約、絶対にサインなんかしない。彼女は部品じゃない!」

 

 振り返ると、ミラーは無表情のまま、タブレットの画面を見ていた。

 ワタルの激情など、真空の宇宙に放り出された塵ほどにも気にしていない。

 

「言いたいことはそれだけか?」

 

 ミラーは軍帽のつばを指で押し上げ、冷たい爬虫類の目でワタルを射抜いた。

 

「場所を変えるぞ。貴様のその甘ったれた脳みそを、物理的に解体する必要がある」

 

 

 

## 柔道

 

 

 身体が宙に浮いた。

 天地が逆転し、視界の端を天井の蛍光灯が流線となって過ぎ去る。

 受け身を取る暇もなかった。

 背中に凄まじい衝撃。

 

「が……っ!?」

 

 バンッ!! という破裂音が、鼓膜ではなく骨を伝わって脳を揺らす。

 肺の中の空気が一瞬で強制排出され、視界が明滅した。

 畳の匂い。

 い草の懐かしい香りではない。汗と、カビと、染み込んだ血液が酸化した、鉄錆びのような臭いだ。

 

 基地内トレーニングルーム。

 壁には『精力善用《せいりょくぜんよう》』『自他共栄《じたきょうえい》』と書かれた古びた額が飾られているが、この場所に「共栄」などという言葉は似合わない。

 ここは一方的な暴力の教室だ。

 

 ワタルは畳の上に膝をつき、身動きが取れなかった。

 全身が軋んでいる。

 肩の関節が外れかけているような鈍痛。肋骨のあたりがズキズキと脈打っている。

 顎を伝った血が、畳のい草に不格好な染みを作っていく。

 その赤を見つめながら、ワタルは自分の血の匂いを嗅いだ。

 錆びた鉄の臭い。生温かく、どこか甘ったるい。

 

 目の前に、黒帯を締めたミラーが立っていた。

 その柔道着は白く糊が効いており、乱れ一つない。息一つ乱していない。

 ミラーは背を向けたまま、振り返りもしない。

 勝利どころか、勝負にすらなっていなかった。

 

「迷いがある」

 

 ミラーは冷徹に言い放ち、ようやく視線だけでワタルを見下ろした。

 

「だから軽い。だから弱い。だから届かない」

「は、ぁ……っ、ぐ……!」

 

 ワタルは震える足で立ち上がろうとする。

 膝が笑って力が入らない。

 ミラーは一歩も動かず、ただの「壁」としてそこに在り続けている。

 

「署名を拒否した理由はなんだ?」

 

 質問ではない。尋問だ。

 ワタルは咳き込みながら、口の中に溜まった血を畳に吐き捨てた。

 

「……言ったはずだ。彼女を、道具扱いしたくない」

「守りたいからか?」

「当たり前だ!」

 

 ワタルは叫び、無防備に突っ込んだ。

 右ストレート。素人丸出しの攻撃。

 技術なんてない。

 あるのは、腹の底で煮え繰り返る怒りだけだ。

 

 ナギを侮辱し、俺たちをシステムの一部として扱おうとするこの男への、純粋な殺意。

 拳がミラーの顔面を捉える――直前。

 

 視界が消えた。

 気づいた時には、再び天井を見上げていた。

 

「ごふっ……!」

 

 そして、みぞおちに強烈な踏み込み。

 ミラーの踵が、ワタルの横隔膜を容赦なく踏み潰している。

 呼吸ができない。意識が飛びかける。

 

「守りたい? 笑わせるな」

 

 ミラーの声が、遠くから降り注ぐように響く。

 

「守るとは、勝つことだ。敵を破壊し、生存圏を確保することだ。最後に立っていなければ何の意味もない」

 

 踵がグリとねじ込まれる。激痛。

 ワタルの手が、畳を掻きむしる。

 

「共鳴駆動《レゾナンス》は、セカンドに痛みを押し付けるシステムだ。それに署名すれば、貴様はナギを食い物にする『加害者』になる。貴様はその現実から逃げているだけだ」

「……!」

 

 横隔膜が潰れ、声にならない悲鳴が口腔内で泡立つ。

 踏まれた肋骨が軋む。激痛だ。

 だが、不思議なことに、痛みは効いていなかった。

 骨が折れても、皮膚が裂けても、その痛みは所詮、神経信号の刺激に過ぎない。鎮痛剤で殺せる痛みだ。修復可能な損傷だ。

 

 だが、ミラーの声は別だった。

 この男の言葉は、鼓膜を素通りし、肋骨の檻をすり抜け、直接「心臓」を握りつぶす。

 どれほど腕を上げて防御しても、脊髄端子など通さずとも、この男の言語はワタルの最奥を精密に破壊した。

 

「貴様は自分の手が汚れるのを恐れている。その潔癖さが奇麗事だと気づかない限り、貴様は何も守れない」

 

 ミラーが、ゆっくりと踵を退けた。

 解放された横隔膜が痙攣し、ワタルは畳の上でのたうち回る。

 乾いた嗚咽と共に吸い込んだ空気は、い草の繊維と、自分の血の鉄臭さで飽和していた。

 

 図星だった。

 

 俺は恐れている。ナギが傷つくことじゃない。

 俺自身が――加害装置《システム》の一部になることを恐れている。

 あのホワイトルームで、ナギの義手を調整していた技師たちの手つき。あの冷徹さ、あの効率性。

 

 あれが俺の未来だ。

 

 セカンドシートのナギに痛みを流し込みながら、操縦桿を握り続ける。あの技師たちと同じ側に立つ。

 その光景を想像するだけで、胃の底から冷たい酸が喉元まで競り上がってきた。

 

「自分の良心を守るために、彼女の生存確率を下げているのはどこの誰だ?」

 

 ミラーは畳にしゃがみ込み、ワタルの顔を鷲掴みにした。

 痛い。骨が軋むほど強い力。

 至近距離で、爬虫類の瞳が俺を覗き込む。

 

「立て、少尉。貴様のその安っぽいヒューマニズムが、どれほど無力か、骨の髄まで教えてやる」

 

 

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