## 無音の地獄
『緊急スクランブル! 未観測の Class S 個体、デブリベルトを透過し直撃コース! 全機、出られるものから出せ! カウントを待つな!!』
管制室の、理性をかなぐり捨てた悲鳴がインカムで割れる。
ハンガーは狂乱の中にあった。
正規のチェック手順も、燃料の充填確認も飛ばされ、整備兵たちが整備車両を文字通り投げ捨てて走り回っている。
ワタルは、一人で飛び出した。
むしろチャンスだとすら思った。
(一人で出撃してやる!)
(俺だけで、倒す!)
(そうすれば、証明できる!)
だが、今のステーション全体を支配する「退っ引きならない迎撃シークエンス」は、ワタルの後悔など一顧だにしない。
「槐ワタル、不知火《シラヌイ》、出ます!」
不知火《シラヌイ》が、暗い宇宙の海へと放り出された。
コクピットの中は、恐ろしいほど静かだった。
かつて一度だけ背中に感じた、あの体温がない。
コクピットの中は、恐ろしいほど静かだった。
自分の呼吸音だけが、ヘルメットの中で反響している。
背後にあるべき、もう一つの呼吸が――ない。
あの柔らかく不規則な吐息。
緊張すると速くなり、集中すると止まる、生きた呼吸のリズムが。
セカンドシートは空席だ。
たったそれだけのことで、鋼鉄の棺桶は数倍も広く、そして骨の髄まで冷える空洞になっていた。
『エンジュ機、目標、デブリベルト深度3。熱源反応なし。Class S 個体は流体装甲により物理センサーを無効化しています!』
「了解。自力で探す!」
ワタルはソナーのゲインを上げ、必死にノイズを睨んだ。
先日の怪獣ギロチンとの死闘を思い出す。
あの時、視界を奪われたハンガーの中で、ナギの『感覚』が自分を追い越して反応したこと。
『全部、肌で、感覚で見える……!!』
あの時のナギは、俺よりも「視えて」いた。
おそらくだが、痛覚逆流《バックフロー》以外でも、ドライバーと怪獣の間では共鳴通信のようなものが発生している。
ドライバーも怪獣の亜種だからだ。
ナギは怪獣の精神波をつかんで、敵の居場所、その動きを察知していた。
痛覚逆流《バックフロー》対策の特性上、ファーストは怪獣の精神波に対しては鈍感になる。
ナギがセカンドに選ばれたのは、才能の結果とも言えるのだ。
「ふざけんなよッ!」
そんなことに気づいてしまった自分に腹が立ち、毒づく。
操縦桿を握る手に力が入る。汗で滑る。グローブの内側が、自分の体温で不快にぬるい。
ナギがいなくても、あの時の感覚を思い出せば、やれるはずだ。
そう自分に言い聞かせて、神経を研ぎ澄ます。
……だが。
『ピ……ザザッ……』
聞こえてくるのは、歪んだノイズだけだった。
まるで水底に沈んでいるかのような、あやふやで、距離感のない音。
耳を澄ませれば澄ますほど、ノイズの粒子が意味を持たない泥のように脳内に堆積していく。
(おかしい……、なんで聞こえない?)
焦りが滲む。
あの鮮明な感覚は、ワタルの才能ではなかった。
ナギという共鳴器があって初めて成立する、二人の実力だったのだ。
今のワタルは、ただの突撃野郎に過ぎない。
この広大で、死に満ちた宇宙空間において、それは盲目と同義だった。
『逃げるのか?』
スピーカーのノイズに混じって、ミラーの声が聞こえた気がした。
『お前は子供だ。汚れることから逃げている』
「うるさい……消えろ!」
ワタルは幻聴を振り払うように頭を振った。
だが、ヘルメットの中で反響した自分の声は、虚勢で薄められた恐怖そのものだった。
『右舷! 回避してください!』
不知火の戦術支援AIが叫ぶ。
「え?」
反射的に操縦桿を倒すが、遅かった。
右側から衝撃。
警報音が鳴り響き、機体がきりもみ回転する。
操縦桿の反力が消え、一瞬、何もかもが無重力の中で意味を失った。
「なっ……!?」
見えなかった。
音は左から聞こえた気がしたのに。
レーダーにも反応はなかったのに。
『損傷軽微! 敵は流体装甲《スライム》です! 表面で衝撃とセンサー波を拡散しています!』
モニターに映し出されたのは、デブリの隙間をぬるりと這う、銀色の不定形だった。
『パターン照合……K-Type "Slime Eater"の亜種』
金属を捕食し、自らの質量に変える厄介な捕食者。
「くそっ……こんな、見えない相手と……!」
ワタルは必死に機勢を立て直そうとするが、敵の動きが速すぎる。
予測できない。どこから来るかわからない。
恐怖で指が震え、照準レティクルが小刻みに揺れる。トリガーに掛けた人差し指が、引くべきタイミングを完全に見失っていた。
(だめだ……!)
ワタルは悟った。
一人では、勝てない。
怪獣を、倒すことができない。
(これが……、本当の戦い!)
たった二回。
これまではまぐれで勝ったに過ぎない。
それを実力と思い込んでいた自分の愚かさを、この無音の宇宙が冷酷に笑っている。
『警告! 酸性粘液の付着を確認! 装甲融解率、上昇中!』
AIの無機質な声が、機体の稼働限界《タイムリミット》を告げる。
その時、警告音の海の中で、彼らの声が走馬灯のように蘇った。
『お前は子供だ』
『汚れることから逃げている』
ミラーの冷徹な断罪。
そして、ナギの悲痛な叫び。
『半分でいいの。二人で背負いたいの』
『一人で全部背負わないで』
ああ、そうだ。
俺は「守る」という美名に酔って、彼女の願いを踏みにじった。
その報いがこれだ。
誰にも理解されず、誰とも繋がれず、ただの独りよがりなゴミとして宇宙に溶ける。
ジュウウウウ……。
不快な音が、思考を遮った。
生肉を鉄板で焼くような音。
酸性の粘液が、複合装甲を化学的に分解している音だ。
コクピットの温度が上がり始めている。冷却系が追いつかない。額を伝う汗が、目に入って沁みた。
「……!」
完全気密のはずのコクピットに、硫黄と、溶けた接着剤を焦がしたような臭いが漏れ出してくる。
それは装甲の内側に塗布された断熱コーティングが気化し始めた証拠だった。
『左舷装甲、剥離! 動力パイプ露出! もう保ちません!』
AIが冷酷に告げる。
モニターの隅に、銀色の触手が映り込んだ。
スライム状の怪獣が、機体の関節にねっとりと絡みつき、装甲の隙間から内部へと侵入してくる。
それは、ワタルの心臓を直接握り潰そうとする死神の手触りだった。
「……ナギ……」
最期に呼んだのは、神の名ではなかった。
自分が置き去りにした、あの少女の名前だった。
許してくれとは言わない。ただ、もう一度、彼女の声が聞きたかった。