ワタルは荒い息を吐きながら、目の前の「侵入者」を見た。
ナギはヘルメットを脱ぎ捨て、乱れた黒髪を振り払いながら、目前に迫る距離でワタルを睨みつけていた。
汗で額に張り付いた髪の隙間から、充血した瞳が覗いている。
宇宙活動《EVA》の負荷で唇が紫色に変色していた。
それでも、その眼光は折れていない。
不安定なコクピット内で、二人は鼻先が触れ合う近さで対峙する。
狭い閉鎖空間に、二人の熱い呼気が混ざり合う。
焦げたシリコンの残り香と、パイロットスーツに染みた汗の酸味と、人肌の湿気が重なって、異様な濃密さを生んでいた。
「なんで来た! 俺は……お前を、こんな目に合わせたかったわけじゃない! なのに!」
「ふざけないで!」
ナギが叫び返す。
その喉は、減圧で痛めたのか、掠れて裂けそうだった。
「傷つけたくない? 守りたい? それでワタルが死んだら意味がない。私だって同じ。ワタルを傷つけたくないし、守りたいの! 同じなの!!」
「同じじゃない! ファーストとセカンドは同じじゃない!」
ワタルの絶叫が、鋼鉄の壁に当たり、反響する。
ファーストは、セカンドを「盾」にして生き延びる。
お前が負う傷は、俺が負わせるものだ。
あのホワイトルームで見た、横たわる少女の身体。
検査用ケーブルに繋がれた、ただの「部品」。
あの光景を生み出す装置の引き金を引くのが、ファーストの仕事だ。
守られる者と、守るために犠牲にする者。
その溝は、決定的な断絶として横たわっている。
「――だから、どうなの?」
ナギは一歩も引かなかった。
ワタルの理屈など、彼女にとっては取るに足らない戯言のように、真っ直ぐな瞳で彼を射抜いた。
「私の方が傷つく? そうよ。これは戦争だもの。人間と怪獣の生き残りをかけた戦いだもの。誰かが先頭に立つ。それが私」
彼女はチタンの手を、胸に当てた。
金属の指が、パイロットスーツの胸元を押す。
その下にあるのは、人間の心臓だ。
失った四肢の代償として得た鋼鉄の身体。
それは被害者の烙印ではない。
彼女が自ら選び取った、戦うための翼だ。
「私がここを選んだの! ワタルのそばにいることを! 一人で生き残るより、短くても二人で生きたい! 生きたいの!」
「…………!」
彼女はもう、守られるだけの少女ではない。
俺がためらい、迷走している間にも、彼女はたった一人で地獄を駆け抜け、ここまでやってきた。
真空を蹴り、極低温に肌を晒し、減圧で喉を潰しながら、それでも俺の隣に立つことを選んだのだ。
その事実が、理屈を超えて、ワタルの臓腑を焦がした。
ミラーの言葉も、NDAの条文も、自分が抱えてきた「加害者」の烙印も、あの小さな身体がたった今突き破ってきた真空の前では、言い訳にすらならない。
不意に、ある思いが浮かんだ。
それは思考ではなかった。
身体の奥底から、反射のように湧き上がった衝動だった。
「……分かった」
ワタルはナギの肩を掴んだ。
パイロットスーツの繊維越しに伝わる、彼女の体温。
EVAの後で冷えきっているはずなのに、肩は震えるほど熱かった。
その熱を確かめるように指に力を込め、彼女の瞳を真正面から射抜いた。
覚悟が決まると同時に、言葉が口をついて出た。
「結婚しよう、ナギ」
「……!?」
ナギが絶句した。
息をすることすら忘れている。
唇が動いているが、声になっていない。
「な、な、何を言ってるのぉ!?」
ナギの真っ白な頬が、一瞬にして林檎のように赤く染まった。
先ほどまでの紫色の唇に、血色が戻っていく。
それはただの生理現象だ。
だが、ワタルにはまるで、彼女の中の「人間」が、言葉ひとつで蘇ったように見えた。
さっきまでの鬼気迫る表情はどこへやら、彼女はパニックに陥り、チタンの義手と生身の手を当惑させたように空中で泳がせた。
ワタルは真剣そのものだ。
逸らすことなく、彼女の動揺を真っ直ぐに見つめ続ける。
死と隣り合わせの密室で、ワタルの言葉だけが質量を持って響いた。
「俺は、お前を一生傷つけ続ける。お前を盾にして、お前の心と体を潰して、戦い続ける。俺たちはそうすることでしか怪獣に立ち向かえない。だから……」
それは愛の告白であると同時に、加害の宣言だった。
ミラーが突きつけた「お前は加害者になる」という断罪を、ワタルは自分の言葉で引き受け直している。
逃げない。
すり替えない。
彼女を壊すのは俺だと、面と向かって宣告する。
その残酷さこそが、ワタルが辿り着いた、愛の形だった。
「一生かけて、お前を全部背負ってやる!」
「……ほんとう?」
ナギは尋ねた。
その声は、迷子のような不安と、信じられないという歓喜に震えていた。
ずっと聞きたかった言葉。
けれど、絶対に言わせてはいけないと思っていた言葉。
それが今、現実の音となって鼓膜を震わせ、凍り付いていた彼女の時間を溶かした。
ワタルは、彼女の濡れた瞳を真っ直ぐに見つめ返し、魂の底から頷いた。
「逃がさない。もう二度と、放さない」
ワタルは強くナギを抱きしめた。
無重力の浮遊感の中で、パイロットスーツ越しの体温が重なり合う。
彼女の心臓の拍動が、スーツの生地を通して、ワタルの胸骨に直接叩きつけられるように響いた。
二つの心臓が早鐘を打つ。
拍動のタイミングがずれ、重なり、また離れ、そのたびに互いの存在を確認し合っているようだった。
ナギは一瞬強張ったが、すぐにチタンの腕をワタルの背中に回し、力強く、痛いほどにしがみついた。
金属の指がパイロットスーツの繊維を引き裂きそうなほど食い込む。
甘さはない。
ただ、離すまいとする力だけがある。
「俺を一生愛してろ」
「うん」
「俺も、死ぬまでお前を愛して、愛し続けるから」
「…………!」
ナギの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
黒髪を振り乱しながら、彼女は泣き笑いのような顔で頷いた。
「……分かった。絶対だからね。途中で逃げ出したら、殺してでも連れ戻すから」
ナギはワタルの腕から離れ、空席だった副操縦席《セカンドシート》へと座った。
背もたれに体が沈み込むと同時に、脊髄端子《プラグ》が静かに、だが確実に噛み合う。
逃げ場のない、物理的な嵌合音。
カチリ。
接続された瞬間、世界の解像度が一変した。
ワタルの意識が拡張され、ナギの生命維持データが雪崩のように流れ込んでくる。
心拍数。血中酸素。体温。神経伝達速度。
そして――彼女の激しい鼓動が、ワタル自身の心臓を追い越して脊髄を駆け上がった。
そこに「痛み」はない。
ファーストへ流れるのは、彼女が今ここに生きているという、純粋で強烈な生命の脈動だけだ。
だが、その熱こそが、二人がただ一つに繋がっているという、背徳的なまでの悦びだった。
NDAに記された「接続時の快楽報酬」。これがそうなのだ。
システムは、パイロットに「繋がる歓び」を与えることで、依存を強化し、離脱を不可能にする。
その罠の甘さを、ワタルは全身で理解した。
理解した上で、飲み込んだ。
高密度の意識の同調。
不知火《シラヌイ》のセンサーが捉える膨大なノイズの中、ナギの「意志」が銀色の糸のように怪獣の急所を指し示した。
一人では捉えられなかった敵の輪郭が、ナギの感覚という光を浴びて鮮明に露わになる。
もはや迷いはない。
二人の鼓動が、不知火《シラヌイ》のジェネレーターと共鳴し、重厚な拍動となって響き渡った。
「――ああ、見える」
ワタルは操縦桿を握り直した。
震えは、完全に止まっていた。