## 15: 宇宙大車輪
「――来るよ、ワタル!」
ナギの警告と同時だった。
引き剥がされたスライム・イーターが、空中で強引に姿勢制御を行う。
無数の触手が鞭のようにしなり、周囲のデブリを足場にして、爆発的な加速で不知火《シラヌイ》へと突っ込んできた。
速い。
ヘカトンケイルを翻弄した機動性。
だが、今のワタルには「それ」が見えていた。
共鳴回線を通じて、ナギの感覚野が捉えた怪獣の精神波が、青白い軌跡としてワタルの視覚に重畳される。
意思のベクトル。
殺意の方向。
次の動きが、まだ怪獣自身の筋肉が収縮する前に「読める」。
「……ああ、見える!」
ワタルの脳裏に、戦場の全貌が青白いラインで描画される。
ナギと感覚を共有した今、無秩序に漂うデブリの山が、ただの障害物ではなくなった。
それは「足場」であり、「支点」であり、俺たちの「武器」だった。
正面からの火力勝負では、あの再生能力を貫けない。
ならば、どうする?
勝つためには、もっと巨大なエネルギーが必要だ。
物理法則そのものを味方につけるほどの。
ワタルの脳裏に、柔道場の記憶が蘇った。
畳に叩きつけられた衝撃。い草と自分の血の匂い。そして、ミラーの踵が横隔膜を踏み潰した、あの窒息の記憶。
全力を出すことを恐れるな。相手の力を利用しろ。
精力善用。
ミラー大佐から叩き込まれた理念が、血と苦痛の記憶と共に、戦術解へと昇華される。
「いける……!」
ワタルは機体を急反転《フリップ》させた。
敵に正対するのではない。
真後ろ――後方1キロ地点に漂う、巨大な居住ブロックの残骸に向かって背を向けたのだ。
「いっけぇぇぇ!!」
ワタルは射出式アンカーのトリガーを引いた。
ガギンッ、という衝撃と共に、鋼鉄の爪がデブリの太い支柱に深く食い込む。
射出の反動が肩関節を殴り、操縦桿から指が一瞬離れかける。ワタルは歯を剥いて握り直した。
「ナギ! 舌を噛むなよ!」
「えっ……きゃあああああ!」
ワタルはスラスターを全開にし、アンカーを支点にした「大車輪」を開始した。
遠心力が二人をシートに押し付ける。
視界がグレイアウトし、内臓が背骨に張り付くような強烈なG。
毛細血管が悲鳴を上げ、視野の端から暗黒が侵食してくる。
ナギの呼吸が回線越しに途切れ途切れになるのが分かった。
彼女の心拍数が危険域に達している。
だが、共鳴で繋がった感覚が「まだいける」と告げている。
ナギの意識は消えていない。
「ぐぅっ……!」
ワタルの喉から呻きが漏れる。
全身の血管が膨張し、眼球が飛び出しそうな圧力が加わる。
顔面に溜まった血液が鼓膜を圧迫し、自分の心臓の音だけが水中にいるように増幅されて聞こえる。
だが、ワタルは加速をやめない。
痛いなら耐えろ。壊れてもいい。
今は、生き残るために勝つことだけを考えろ。
「耐えろ! さっきまで会話してた時間《キョリ》を、全部威力に変える!」
機体は放り投げられたハンマーのように加速し、アンカーを中心に巨大な円弧を描く。
速度計の数字が跳ね上がる。
第三宇宙速度を超え、さらに加速。
ワイヤーがキリキリと悲鳴を上げる。
破断限界ギリギリのテンション。
その振動が操縦桿を通じてワタルの掌を噛み、皮膚の下でワイヤーと骨が共振しているような錯覚を生む。
その一点を、ワタルの拡張された感覚は見逃さなかった。
敵の突進ベクトルと、こちらの円運動ベクトルが交差する、ただ一点の特異点。
今だ。
「軌道……柔道だッ!!」
ワタルはアンカーをパージした。
解き放たれた機体は、運動エネルギーの塊となって、一直線に敵の懐へと飛び込んだ。
解放の瞬間、遠心力から解き放たれた身体が一瞬だけ無重力に浮き、次の刹那、後方から追いかけてきた速度がワタルの背骨を圧し潰すような加速として炸裂する。
カタナも、ライフルも使わない。
この質量と速度こそが、最強の砲弾だ。
相手の突進力を利用し、こちらの遠心力を乗せて、すれ違いざまに叩きつけるカウンターの一撃。
「貫けぇぇぇっ!!」
ズドォォォォォン!!
機動兵器《ドライバー》の機体が、スライム・イーターのど真ん中に突き刺さる。
流体装甲が物理法則の暴力に耐えきれず、風船のように破裂した。
ブシャァァァッ!!
銀色の体液が、霧のように宇宙空間へと散った。
核《コア》が砕け散る感触が、操縦桿を通して手のひらに伝わってきた。
硬い殻が割れ、中身が潰れる、卵を握り潰したような感触。
そして、それと同時に――怪獣の断末魔が、共鳴回線を逆流してきた。
ガッ……!
ナギの身体が痙攣した。
痛覚逆流《バックフロー》。怪獣の死の激痛が、セカンドの神経を焼く。
ナギが喉の奥で押し殺した悲鳴が、回線を通じてワタルの胸を抉った。
これが、俺が選んだシステムだ。
俺が勝つたびに、彼女が壊れていく。
## 16: 血の口紅
静寂が戻ってきた。
聞こえるのは、荒い呼吸音と、機体の各所から響く金属の冷却音だけ。
膨張した装甲板が収縮するたびに、鋼鉄の骨格がきしんで軋む。
パキン、パキン、と不規則な間隔で鳴るその音は、死後強直に似ていた。
「……勝った、の?」
ナギの声は掠れていた。
ワタルは震える手で拘束を解き、副操縦席《セカンドシート》を覗き込んだ。
「ッ……!」
言葉を失った。
ナギはぐったりとシートに沈んでいた。
過酷なG負荷のせいだけではない。
彼女の白い肌のあちこちに、赤い斑点が浮かんでいる。
皮下出血だ。毛細血管が内側から弾けた痕。
そして何より、鼻と口から溢れた血が、彼女の顎を伝い、パイロットスーツの襟元を暗く染めていた。
脊髄端子《プラグ》からのバックフローだ。
怪獣を殺した瞬間、その死の激痛が神経接続を通じて彼女の肉体に逆流したのだ。
ミラーが説明した「ヒューズ」の代償。
契約書に記された条文が、今、彼女の血液として具現化している。
「ナギ!?」
ワタルは慌てて彼女の体を抱き起こした。
体温が高い。オーバーヒートしたエンジンのようだ。
パイロットスーツ越しにも伝わるその熱は、人間の生理機能が限界を超えた証拠だった。
汗と血と、焦げた配線の臭いが混ざった、生々しい匂いが鼻腔を突く。
「……ん……ワタル……?」
ナギが薄く目を開けた。
焦点が合っていない。瞳孔が左右で微妙に大きさが違う。神経損傷の兆候だ。
だが、彼女はワタルの顔を見ると、血に濡れた唇で弱々しく笑った。
「……勝ったね、ワタル」
その笑顔を見た瞬間、ワタルの胸に熱い何かがこみ上げた。
安堵でも、喜びでもない。
もっと切実で、痛ましい感情。
これが、俺が選んだ道だ。
彼女を傷つけ、血を流させ、それでも立たせて戦わせる。
その罪悪感が、同時に冷たく、そして強固な覚悟へと変わっていく。
あのホワイトルームの技師たちと、俺は同じ側に立った。
だが、もう逃げない。
「……ああ」
ワタルは、血にまみれた自らの右手を伸ばした。
指先が微かに震えている。
だが、その震えは恐怖ではなく、彼女の存在への畏怖だった。
親指で、ナギの蒼白な唇をなぞった。
彼の傷口から滲んだ血が、彼女の唇にひとさじの朱を差していく。
まるで、死に化粧をするように。
あるいは、花嫁に紅を引くかのように。
「次はもっと、うまくやる」
ワタルは囁き、その赤く染まった唇を塞いだ。
ナギの体が一瞬強張るが、すぐに力を抜いて受け入れる。
鉄の味が、舌の上で弾けた。
ナギの唇は熱かった。
バックフローで内側から焼かれた組織の、病的な熱さ。
その奥にある、微かに震える吐息の柔らかさ。
ナギの体が一瞬硬直し――それから、指先だけが動いた。
チタンの義手が、ワタルの襟元を掴む。
引き寄せたのか、しがみついたのか、その区別はもうつかなかった。
血の塩気と、互いの体温が混ざり合い、鋼鉄の棺桶の中に濃密な湿度を満たしていく。
それは、甘いロマンスのキスではなかった。
互いの命を啜り合い、傷を舐め合い、痛みの中にしか存在しない愛を、口移しで確かめ合う儀式だった。
(一生、逃がさない)
キスは、言葉よりも雄弁にそう告げていた。
ここは地獄だ。
だが、この温もりがある限り、俺たちはこの地獄で生きていける。
ワタルが唇を離すと、ナギの瞳が潤んでいた。
そこに映るのは、かつての可憐な「お姫様」ではない。
血に濡れ、傷つきながらも、同じ地獄を歩むことを選んだパートナーの顔だった。
「……うん。絶対だからね」
彼女の言葉は、物理的な痛みと引き換えに得た、重く確かな現実だった。
二人は、本当の意味で操縦士《パイロット》になったのだ。
最も残酷で、最も効率的な、痛みのシステムの一部として。
(つづく)
ここまで読んでくれてありがとうございました!(小説にしたものは全て出し終えたので、ひとまずのお礼を!)