## 落下
学園最上層、リラクゼーション・ブロック。
透明な強化アクリルに覆われたドーム型の展望デッキは、時速28000kmの滑走音すら遮断し、恐ろしいほどに透徹した静寂に満ちていた。
空調が吐き出す無味乾燥なリサイクル・エアーの匂い。
中央には、自動演奏機能付きのクリスタル・ピアノが鎮座しているが、今は主電源を落とされ、宇宙の死んだ光を受けて巨大な氷細工のように凍りついている。
本来なら、地球を背に生徒たちが談笑し、幼い恋を囁き合うはずの「楽園」の頂き。
だが、今そこに浮かぶのは、窓の外に広がる地球の裏側の、鮮やかに輝く都市光のところどころにぽっかりと空いた、不気味な黒点であった。
怪獣によって穿たれた、クレーターのような暗黒。
数百万の命の墓標。一つひとつが、人類の敗北の刻印だった。
ひとり、ナギは立っていた。
ただ一人、かつての故郷を焼き尽くした奈落の底を、瞬きもせずに見つめていた。
「……ナギ!」
ワタルが声をかけると、彼女は物理的な衝撃を受けたかのように、ビクリと肩を強張らせた。
ゆっくりと首を巡らせる動作は、ギチギチと音を立てそうなほどにぎこちないものだった。
向けられたのは、今にもひび割れて壊れそうな、貼り付けられたばかりの拙い笑顔。
そんな風に、ワタルには見えた。
「ナギ……?」
あるのは違和感だった。
半袖でも汗が滲むほど快適なこの場所で、彼女は毛足の長い、季節外れの厚手ニットカーディガンを羽織っていた。
学園内の空調は厳密に24度、湿度50パーセントに保たれている。
首元までボタンをきっちりと留め、その影に何かを隠匿するように。
そして両手には、指先の感覚を完全に遮蔽するような、黒い革の手袋が嵌められていた。
「……ごめんね。ちょっと風邪気味で、なんだか寒くて」
「……風邪?」
ワタルは位置アプリのことを思い出していた。
何日も何日も『第3プラント』に張り付いていたの血のような赤い点。
あそこは100万kWの熱量が渦巻く動力炉だ。
風邪を癒すベッドなど、どこにもない。
彼女は嘘をついている。
透明なガラスの壁を築こうとしている。
けれども、ワタルはその虚構を暴く勇気を持てなかった。
彼女が嘘をつかなければならない理由――その深淵の暗さに、本能が警鐘を鳴らしていたからだ。
「……まあ、いいけど。大丈夫か? ちゃんと医者には診てもらったのかよ」
「うん。もう、ばっちりと」
上滑りする声を出す。
ナギは弱々しく口角を上げた。
その脆弱な合図が、ワタルにはガラス細工が砕ける直前の軋み音のように聞こえた。
沈黙が、低軌道の重力よりも重く、二人の間にのしかかる。
かつての、あの無防備な距離感は、時速28000kmの彼方へと置き去りにされていた。
ワタルは耐えきれず、話題を逸らすように、クリスタル・ピアノの透明な鍵盤に視線を投げた。
「久しぶりに聴かせてくれないか。お前のピアノ」
努めて明るく、記憶の中の「普通のナギ」を呼び出すように声を張った。
「誰もいないし、いいだろ? ショパンだっけ? ほら、前によく弾いてた……『別れの曲』」
「!」
その瞬間、ナギの全身が鋼鉄のように硬直した。
カーディガンのニットの編み目が、逃げ場を失った彼女の衝動を隠しきれず、異様なほど突っ張って見えた。
「……弾かない」
「指でも怪我したのか? そんな手袋なんかして……」
ナギが急速に離れていく気がした。
物理的な距離ではない。
心の距離が、脱出速度を超えて離れていくように思えたのだ。
あちら側へ行かせたくない。
ワタルは焦燥に駆られ、強引に彼女の手首を掴もうとした。
ナギを不気味な静寂から引きずり出そうとした。
かつてのように、少しだけ乱暴に扱えば、彼女は困ったように笑いながら、美しい旋律を紡いでくれるはずだと信じたかった。
だが、ワタルがその細い手首を掴もうとした瞬間、ナギは叫びとともにその腕を振り払った。
「違うの! そうじゃないの! もう、ピアノはやめたの!」
「え?」
「弾かないって決めたの!」
「どうして」
「私の勝手でしょ!」
「なんでだよ! ピアニストになるのが夢だって言ってたじゃないか!」
「……もういいのよ。あんなの、ただの子供の遊びだもんっ!」
ナギの瞳に、一度も見ることのなかった濁った絶望が宿る。
自分の人生を、これまでの努力を、その手で絞め殺すような冷徹な響き。
「私には……もっと大事な『役目』があるの!」
「役目ってなんだよ! 『第3プラント』のことか!?」
ナギの顔色が凍りついた。
血の気が失われ、蒼白になる。
核心を突かれたかのような動揺を走らせる。
「なんで……、それを、知って……!」
「位置情報を見たんだよ! お前、ずっとあそこにいただろ。どういうことだよ。お前、あそこで何をされてるんだ!?」
「…………」
「何かあったんだな。俺たち、共鳴者《レゾナント》だろ? 隠し事なんて――」
「放っといて! ワタルには関係ない! これは、私の『責任』なの!」
ナギはワタルの胸を激しく突き飛ばした。
背を向けて逃げ出そうとした。
その必死の動作に、ワタルの手が反射的に伸びた。
彼女の右腕――分厚いカーディガンの袖を力任せに掴んでしまった。
ガシャンッ!!!
不快な金属音と不協和音が、静謐なデッキに炸裂した。
もつれたナギの腕が、人間ならば百八十度回るはずなどない腕が、くるりと旋回して、クリスタル・ピアノの鍵盤に叩きつけられたのだ。
それは「人の腕」が奏でる音ではなかった。
高密度の超硬合金が、アクリルの鍵盤を押し潰す。鈍く、汚い響き。
激しい衝撃で、カーディガンのボタンが弾け、袖がまくれ上がった。
「!」
ワタルの目の前に晒されたのは、あの朝に触れた、あの柔らかくて温かい、産毛の光る白皙の肌ではなかった。
剥き出しになった、スチールとカーボンファイバーの醜悪な骨組み。
黒い革手袋に隠された先にあったのは、鉤爪状のマニピュレータ。
ワタルの思考は停止した。
「……っ、あ…………!」
ワタルは凍りついた。凍りついたように動けなくなった。
「…………だからぁ」
ナギの表情は泣き顔になっていた。みるみるうちに悲しく小さく歪んでいく。
「弾けないのよ……こんな手じゃ! もう、二度と!」
ナギは叫んだ。
それは言葉という形を成さない、魂が圧壊していく絶鳴だった。
「ピアノなんて……音楽なんて、もう、出来ないの!」
「う……、嘘だろ……。これ、ナギ、お前の腕……なのか……?」
変わり果てたその『物質』から、ワタルは目を逸らすことができなかった。
今、自分が掴んでいる場所。
カーディガンの袖越しに伝わってくるのは、脈動でも、筋肉の収縮でもなかった。
超小型サーボモーターが放つ微細な振動。
そして、心臓まで凍りつきそうな、絶対零度の鉄の冷たさだった。
「じょ、冗談だよな……。俺を驚かせようとして、どこかから持ってきた……」
「…………」
「ナギ! 冗談だって言えよ!」
現実に耐えきれず、ワタルはさらに強く、その『腕』を自分のほうへ引き寄せようとした。
無理やりにでも彼女の顔を覗き込み、その虚構を確認したかった。
だが、その焦燥が、最後の一線を踏み越えた。
カシュッ。
その音は驚くほど小さく、あっけなかった。
人生が変わる瞬間にしては、あまりにもチープな、ペットボトルのキャップを開けるような音。
磁気ジョイントの結合が限界を超え、強制パージされたのだ。
ワタルが掴んでいた右腕の抵抗が、音もなく霧のように消え失せ、彼の身体が後ろへと大きくよろめく。
「あ」
ナギの右袖が、力なく虚空を舞った。
抜けた。
袖の中身が、喪失していた。
カーディガンの右手は、ただの空っぽの布地となって、重力に従ってだらりと垂れ下がる。
そして。
ワタルの手の中に残された『それ』が、重力加速度に引かれ、床へと落下した。
ゴンッ……!
革手袋を嵌めたままの、切り離された「右腕」が、凄まじい質量感をもって床に激突した。
小石が転がる音ではない。
内部にサーボ、バッテリー、高圧シリンダーを凝縮させた鉛の塊。
その腕は跳ねることも転がることもなく、あまりの重量に床のタイルを微かに凹ませるようにして、その場に「鎮座」した。
まるで、主を失った無口な墓標のように。
ワタルは、自分の右手の掌を空ろに見つめた。
指先には、まだナギの体温――と彼が誤認していた、電気回路が発する残留熱の感触が残っている。
それが急速に冷え、夜空の冷気に溶けていく。
「――――ッ!!! あ、あああああああ!!!!」
ナギは絶叫した。
彼女は床に這いつくばると、転がった自分の『一部』を、左手で乱暴に掻き抱いた。
残ったほうの腕で、隠すようにして、彼女はそれを離さなかった。
切り離された自分の尊厳を、隠し通せなかった罪を、必死に胸の奥へと押し込める。
「見ないで……見ないでっ!!! 嫌……、こんなの、私じゃない!!!」
逃げるように、彼女はよろめきながら走り出した。
右袖を虚空に踊らせ、バランスを失った無様な足取りで。
「ナギ……っ、待てよ、ナギ!!」
「来ないで!!!! もう、私に触らないで!!!!!」
背中を丸め、泣き叫びながら、彼女はデッキの闇へと消えていった。
追いかけなければならない。
その手を――たとえそれが鉄の塊であっても――取り戻さなければならない。
わかっているのに、ワタルの足は、磁石で床に縫い付けられたように動かなかった。
指先に残る、あの絶対零度の感触。
人間であることを放棄した場所からのみ立ち上る、あの冷たい鉄の死臭。
それがワタルの心臓を、鋭利な刃物のように執拗にえぐりつけていた。
『なりたかったなあ、ピアニストに』
耳の奥を、幻聴が叩いた。
あの美しくて、柔らかくて、温かった手が。
失われた。
ただ失われただけではない。「人間の手ではないもの」にすり替えられていた。
(何があったんだ……、ナギに、一体、何があったんだ……!?)
ワタルはただ一人、冷たい展望デッキに立ち尽くしていた。
誰もいない空間に、ワタルの耳に、ナギの叫び声だけが残響となって木霊していた。