Fire Ocean 大気圏焼却戦域   作:ウソカラマコト

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04 落下

## 落下

 

 学園最上層、リラクゼーション・ブロック。

 透明な強化アクリルに覆われたドーム型の展望デッキは、時速28000kmの滑走音すら遮断し、恐ろしいほどに透徹した静寂に満ちていた。

 

 空調が吐き出す無味乾燥なリサイクル・エアーの匂い。

 中央には、自動演奏機能付きのクリスタル・ピアノが鎮座しているが、今は主電源を落とされ、宇宙の死んだ光を受けて巨大な氷細工のように凍りついている。

 

 本来なら、地球を背に生徒たちが談笑し、幼い恋を囁き合うはずの「楽園」の頂き。

 だが、今そこに浮かぶのは、窓の外に広がる地球の裏側の、鮮やかに輝く都市光のところどころにぽっかりと空いた、不気味な黒点であった。

 怪獣によって穿たれた、クレーターのような暗黒。

 数百万の命の墓標。一つひとつが、人類の敗北の刻印だった。

 

 ひとり、ナギは立っていた。

 ただ一人、かつての故郷を焼き尽くした奈落の底を、瞬きもせずに見つめていた。

 

「……ナギ!」

 

 ワタルが声をかけると、彼女は物理的な衝撃を受けたかのように、ビクリと肩を強張らせた。

 ゆっくりと首を巡らせる動作は、ギチギチと音を立てそうなほどにぎこちないものだった。

 向けられたのは、今にもひび割れて壊れそうな、貼り付けられたばかりの拙い笑顔。

 そんな風に、ワタルには見えた。

 

「ナギ……?」

 

 あるのは違和感だった。

 半袖でも汗が滲むほど快適なこの場所で、彼女は毛足の長い、季節外れの厚手ニットカーディガンを羽織っていた。

 学園内の空調は厳密に24度、湿度50パーセントに保たれている。

 首元までボタンをきっちりと留め、その影に何かを隠匿するように。

 そして両手には、指先の感覚を完全に遮蔽するような、黒い革の手袋が嵌められていた。

 

「……ごめんね。ちょっと風邪気味で、なんだか寒くて」

「……風邪?」

 

 ワタルは位置アプリのことを思い出していた。

 何日も何日も『第3プラント』に張り付いていたの血のような赤い点。

 あそこは100万kWの熱量が渦巻く動力炉だ。

 風邪を癒すベッドなど、どこにもない。

 

 彼女は嘘をついている。

 透明なガラスの壁を築こうとしている。

 

 けれども、ワタルはその虚構を暴く勇気を持てなかった。

 彼女が嘘をつかなければならない理由――その深淵の暗さに、本能が警鐘を鳴らしていたからだ。

 

「……まあ、いいけど。大丈夫か? ちゃんと医者には診てもらったのかよ」

「うん。もう、ばっちりと」

 

 上滑りする声を出す。

 ナギは弱々しく口角を上げた。

 その脆弱な合図が、ワタルにはガラス細工が砕ける直前の軋み音のように聞こえた。

 

 沈黙が、低軌道の重力よりも重く、二人の間にのしかかる。

 かつての、あの無防備な距離感は、時速28000kmの彼方へと置き去りにされていた。

 ワタルは耐えきれず、話題を逸らすように、クリスタル・ピアノの透明な鍵盤に視線を投げた。

 

「久しぶりに聴かせてくれないか。お前のピアノ」

 

 努めて明るく、記憶の中の「普通のナギ」を呼び出すように声を張った。

 

「誰もいないし、いいだろ? ショパンだっけ? ほら、前によく弾いてた……『別れの曲』」

「!」

 

 その瞬間、ナギの全身が鋼鉄のように硬直した。

 カーディガンのニットの編み目が、逃げ場を失った彼女の衝動を隠しきれず、異様なほど突っ張って見えた。

 

「……弾かない」

「指でも怪我したのか? そんな手袋なんかして……」

 

 ナギが急速に離れていく気がした。

 物理的な距離ではない。

 心の距離が、脱出速度を超えて離れていくように思えたのだ。

 

 あちら側へ行かせたくない。

 ワタルは焦燥に駆られ、強引に彼女の手首を掴もうとした。

 ナギを不気味な静寂から引きずり出そうとした。

 かつてのように、少しだけ乱暴に扱えば、彼女は困ったように笑いながら、美しい旋律を紡いでくれるはずだと信じたかった。

 

 だが、ワタルがその細い手首を掴もうとした瞬間、ナギは叫びとともにその腕を振り払った。

 

「違うの! そうじゃないの! もう、ピアノはやめたの!」

「え?」

「弾かないって決めたの!」

「どうして」

「私の勝手でしょ!」

「なんでだよ! ピアニストになるのが夢だって言ってたじゃないか!」

「……もういいのよ。あんなの、ただの子供の遊びだもんっ!」

 

 ナギの瞳に、一度も見ることのなかった濁った絶望が宿る。

 自分の人生を、これまでの努力を、その手で絞め殺すような冷徹な響き。

 

「私には……もっと大事な『役目』があるの!」

「役目ってなんだよ! 『第3プラント』のことか!?」

 

 ナギの顔色が凍りついた。

 血の気が失われ、蒼白になる。

 核心を突かれたかのような動揺を走らせる。

 

「なんで……、それを、知って……!」

「位置情報を見たんだよ! お前、ずっとあそこにいただろ。どういうことだよ。お前、あそこで何をされてるんだ!?」

「…………」

「何かあったんだな。俺たち、共鳴者《レゾナント》だろ? 隠し事なんて――」

「放っといて! ワタルには関係ない! これは、私の『責任』なの!」

 

 ナギはワタルの胸を激しく突き飛ばした。

 背を向けて逃げ出そうとした。

 その必死の動作に、ワタルの手が反射的に伸びた。

 彼女の右腕――分厚いカーディガンの袖を力任せに掴んでしまった。

 

 ガシャンッ!!!

 

 不快な金属音と不協和音が、静謐なデッキに炸裂した。

 もつれたナギの腕が、人間ならば百八十度回るはずなどない腕が、くるりと旋回して、クリスタル・ピアノの鍵盤に叩きつけられたのだ。

 

 それは「人の腕」が奏でる音ではなかった。

 

 高密度の超硬合金が、アクリルの鍵盤を押し潰す。鈍く、汚い響き。

 激しい衝撃で、カーディガンのボタンが弾け、袖がまくれ上がった。

 

「!」

 

 ワタルの目の前に晒されたのは、あの朝に触れた、あの柔らかくて温かい、産毛の光る白皙の肌ではなかった。

 

 剥き出しになった、スチールとカーボンファイバーの醜悪な骨組み。

 黒い革手袋に隠された先にあったのは、鉤爪状のマニピュレータ。

 ワタルの思考は停止した。

 

「……っ、あ…………!」

 

 ワタルは凍りついた。凍りついたように動けなくなった。

 

「…………だからぁ」

 

 ナギの表情は泣き顔になっていた。みるみるうちに悲しく小さく歪んでいく。

 

「弾けないのよ……こんな手じゃ! もう、二度と!」

 

 ナギは叫んだ。

 それは言葉という形を成さない、魂が圧壊していく絶鳴だった。

 

「ピアノなんて……音楽なんて、もう、出来ないの!」

「う……、嘘だろ……。これ、ナギ、お前の腕……なのか……?」

 

 変わり果てたその『物質』から、ワタルは目を逸らすことができなかった。

 今、自分が掴んでいる場所。

 カーディガンの袖越しに伝わってくるのは、脈動でも、筋肉の収縮でもなかった。

 超小型サーボモーターが放つ微細な振動。

 そして、心臓まで凍りつきそうな、絶対零度の鉄の冷たさだった。

 

「じょ、冗談だよな……。俺を驚かせようとして、どこかから持ってきた……」

「…………」

「ナギ! 冗談だって言えよ!」

 

 現実に耐えきれず、ワタルはさらに強く、その『腕』を自分のほうへ引き寄せようとした。

 無理やりにでも彼女の顔を覗き込み、その虚構を確認したかった。

 だが、その焦燥が、最後の一線を踏み越えた。

 

 カシュッ。

 

 その音は驚くほど小さく、あっけなかった。

 人生が変わる瞬間にしては、あまりにもチープな、ペットボトルのキャップを開けるような音。

 磁気ジョイントの結合が限界を超え、強制パージされたのだ。

 

 ワタルが掴んでいた右腕の抵抗が、音もなく霧のように消え失せ、彼の身体が後ろへと大きくよろめく。

 

「あ」

 

 ナギの右袖が、力なく虚空を舞った。

 抜けた。

 袖の中身が、喪失していた。

 カーディガンの右手は、ただの空っぽの布地となって、重力に従ってだらりと垂れ下がる。

 そして。

 ワタルの手の中に残された『それ』が、重力加速度に引かれ、床へと落下した。

 

 ゴンッ……!

 

 革手袋を嵌めたままの、切り離された「右腕」が、凄まじい質量感をもって床に激突した。

 小石が転がる音ではない。

 内部にサーボ、バッテリー、高圧シリンダーを凝縮させた鉛の塊。

 その腕は跳ねることも転がることもなく、あまりの重量に床のタイルを微かに凹ませるようにして、その場に「鎮座」した。

 まるで、主を失った無口な墓標のように。

 

 ワタルは、自分の右手の掌を空ろに見つめた。

 指先には、まだナギの体温――と彼が誤認していた、電気回路が発する残留熱の感触が残っている。

 それが急速に冷え、夜空の冷気に溶けていく。

 

「――――ッ!!! あ、あああああああ!!!!」

 

 ナギは絶叫した。

 彼女は床に這いつくばると、転がった自分の『一部』を、左手で乱暴に掻き抱いた。

 残ったほうの腕で、隠すようにして、彼女はそれを離さなかった。

 切り離された自分の尊厳を、隠し通せなかった罪を、必死に胸の奥へと押し込める。

 

「見ないで……見ないでっ!!! 嫌……、こんなの、私じゃない!!!」

 

 逃げるように、彼女はよろめきながら走り出した。

 右袖を虚空に踊らせ、バランスを失った無様な足取りで。

 

「ナギ……っ、待てよ、ナギ!!」

「来ないで!!!! もう、私に触らないで!!!!!」

 

 背中を丸め、泣き叫びながら、彼女はデッキの闇へと消えていった。

 

 追いかけなければならない。

 

 その手を――たとえそれが鉄の塊であっても――取り戻さなければならない。

 わかっているのに、ワタルの足は、磁石で床に縫い付けられたように動かなかった。

 

 指先に残る、あの絶対零度の感触。

 

 人間であることを放棄した場所からのみ立ち上る、あの冷たい鉄の死臭。

 それがワタルの心臓を、鋭利な刃物のように執拗にえぐりつけていた。

 

『なりたかったなあ、ピアニストに』

 

 耳の奥を、幻聴が叩いた。

 あの美しくて、柔らかくて、温かった手が。

 

 失われた。

 ただ失われただけではない。「人間の手ではないもの」にすり替えられていた。

 

(何があったんだ……、ナギに、一体、何があったんだ……!?)

 

 ワタルはただ一人、冷たい展望デッキに立ち尽くしていた。

 誰もいない空間に、ワタルの耳に、ナギの叫び声だけが残響となって木霊していた。

 

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