Fire Ocean 大気圏焼却戦域   作:ウソカラマコト

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05 熱と腐臭 / 赤い根の温床

## 熱と腐臭

 

 ワタルはダクトの中を這っていた。

 迷いはなかった。

 アプリが指し示していた場所。ナギが隠していた場所。そして今、彼女が逃げ込んだ場所。

 第3プラント。

 

 換気ダクト内は灼熱だった。

 動力炉からの廃熱が循環機能の不全によって滞留し、狭い管内をオーブンのように加熱している。

 

 温度は50度を超えているだろう。

 吸い込む空気が熱湯のように重く、気管支を灼きながら肺へと落ちていく。

 作業服は既に汗で飽和し、皮膚に張り付いて動きを阻害する「拘束衣」と化していた。

 

 目に入る汗がしみる。喉が渇いて張り付く。

 狭い。暗い。熱い。

 自分が焼却炉に向かうゴミになったような、じわじわとタンパク質が変性していくような恐怖。

 

 だが、熱よりも耐え難いのは「臭い」だった。

 

 高電圧によるオゾンの鋭い刺激臭。焦げたゴムの臭い。

 そして、それらに混じって漂う、何かが腐ったような甘ったるい有機的な臭気。

 ワタルはまだリアルの怪獣を知らない。

 映像として知り、情報として知っているだけだ。

 

 だからこそ、その臭いは衝撃だった。

 熟しすぎた果実と鉄錆、そして古い血液が発酵したような、脳の嘔吐中枢を直接蹴り上げる冒涜的な悪臭。

 口の中まで、腐敗した花が混ざったような死の味が広がっている。

 脳が『これは毒だ』と悲鳴を上げ、胃の腑を裏返そうとする本能的な拒絶。

 吐き出そうとしても、その空気自体が味を持っているかのようで逃げ場がない。

 

 本能が警鐘を鳴らしている。

 ここに行ってはいけない。

 ここから先は、人間が踏み入れてはいけない領域だ。

 

 胃の腑から酸っぱいものが込み上げてくる。吐き気をこらえ、手足についた煤を拭うこともできず、匍匐前進を続ける。

 

 ガリ、ガリ、と膝が鉄板に擦れる音が、早鐘を打つ心音と重なる。

 

 ワタルは進んだ。

 恐怖よりも、怒りが勝っていた。

 

(誰が! ナギに! あんなことを!)

 

 さっき見た「ない腕」の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れない。

 

 あそこで何が行われているのか。

 誰が、ナギの腕を奪ったのか。

 

(確かめるんだ、絶対に!)

 

 たとえその先に、どんな地獄が待っていたとしても。

 

 ダクトの出口が見えた。

 通気口のルーバー越しに、赤い光が毒々しく漏れている。

 耳を澄ますと、地響きのような音が聞こえた。

 

 ドクン……ドクン……。

 

 ボイラーや発電機の音ではない。

 不規則で、粘着質で、巨大な質量を持った何かが蠢く音。

 巨大な生物の心臓が、鉄の壁の向こうで脈打っているような生々しい振動。

 その重低音《バイブレーション》は、ダクトの金属壁を伝って、ワタルの腹の底と共振し、内臓を不快に揺さぶり続けていた。

 

 

 

## 赤い根の温床

 

 

 ワタルは通気口のルーバーを蹴り開けた。

 だが、すぐに飛び降りることはしなかった。

 ダクトの出口は、フロアからはるか頭上、天井付近を走るメンテナンス用の足場《キャットウォーク》の影にあったからだ。

 

 ワタルは足場に身を乗り出し、金網越しに眼下を見下ろした。

 

 そこは、広大な調整室だった。

 天井までの高さは30メートル以上あるだろうか。壁一面に無数のモニターとパイプが埋め尽くされている。

 

 誰も、見上げてなどこない。

 部屋を埋め尽くす冷却ファンの轟音と、不気味な心音が、ワタルの立てた小さな物音を完全にかき消していた。

 それに何より、職員たちの視線は、部屋の中央で強烈なスポットライトを浴びて鎮座している「それ」に釘付けになっていた。

 

 頭上の暗がりになど、誰も興味はないのだ。

 だが、何よりも異様なのは、その部屋の中央にあるものだった。

 

 それは巨大な「ムカデ」の頭部だった。

 

 Class A 怪獣『スコポレンドラ』。

 かつて地上に降下し都市を蹂躙。軍によって鹵獲され、再びこの宇宙へ引き上げられた「生きた標本」。

 高さ十メートルはあるその頭部は、多節構造のシリコン装甲に覆われ、無数の鋭利な顎が虚空を噛むように固定されている。

 表面は焼け焦げ、無数の拘束具でがんじがらめにされ、生命維持装置に接続された異形の神。

 その眉間が割られ、桃色の脳髄が剥き出しになっていた。肉の花弁が開くように、ねっとりと湿った輝きを放っている。

 

 彼女はそこにいた。

 

「…………!」

 

 その剥き出しの脳髄の真ん中に、ナギが埋まっていた。

 

 白衣のような薄い医療ガウン一枚を身にまとい、磔にされていた。

 まるで宗教画に描かれる聖女のような、痛々しいほどに神聖な姿だった。

 その周囲を満たすのは冒涜的な機械と肉の融合だ。

 

 彼女には手足がなかった。

 右腕だけではない。

 左腕も、両の足も、存在しなかった。

 

 埋まっているだけだと思って、思いたくて、目を凝らし、彼女を注視したが、そんなものは存在しなかった。

 

 彼女の背骨や、そして切断された両手足に沿って、無数の「赤い根」が伸びていた。

 血管のようにも、植物の根のようにも見える太い生体ケーブルが、彼女にまとわりついいていた。

 

 ジュルリ、ジュルリ。

 

 それらは生き物のように脈打ち、粘ついた音を立てながら、何かの液体をナギの体内へと送り込んでいる。

 

 ナギが怪獣にされようとしているのだ。

 

(違うッ!)

 

 本能が、その異形を理解することを拒否した。

 しかし、圧倒的な事実が、視界を埋め尽くしていた。

 

『同調率、臨界突破。K・レセプタ個体、精神汚染深度3へ移行』

『排熱、追いつきません。冷却ゲル圧力を上げろ』

 

 スピーカーから流れる無機質な報告。

 ナギは人間であることをやめさせられ、怪獣を制御するための「生きた中枢ユニット」にされようとしていた。

 

 それとは対照的な、甘く、濡れた声が響いた。

 

「あ……、ああっ……くぅウ……」

 

 ナギの瞳は虚ろだった。

 口元から唾液が糸を引き、半開きの唇から恍惚とした吐息が漏れていた。

 苦痛ではない。

 あごが上がり、背中を反らせているその姿は、まるで快感に溺れているように見えた。

 

 だがそれは違う。

 強制的に異物と繋がることへの苦痛を和らげるための麻痺剤が、彼女に流し込まれていたのだ。

 

 個我を溶かされることで得られる、破滅的な陶酔感。

 脳髄を直接愛撫されるような、逃げ場のないエクスタシー。

 

「な……ナギ……?」

 

 ワタルが思わず声を漏らした。

 その声は小さかったはずだ。冷却ファンの轟音にかき消されるほどに。

 

 だが、ナギは反応した。

 虚ろだった焦点が、ゆっくりと結ばれてゆく。

 ワタルと目が合った瞬間。

 

「っ!?」

 

 彼女の目が大きく見開かれた。

 恍惚が一瞬で「羞恥」に変わる。

 裸を見られたのではない。

 もっと深い、魂の最も恥ずかしい部分、獣に堕ちている自分を見られたような絶望的な恥辱だった。

 

「見ないでぇぇぇ!!」

 

 彼女は自分を隠そうと身をよじった。

 だが、手足は怪獣の脳と融合し、磔にされているため、指一本すら動かすことができない。

 そもそも指がない。

 手もない。肘もない。

 恥部を隠す腕さえ、今の彼女にはなかった。

 ただ首を振って、涙を撒き散らしながら泣き叫ぶしかなかった。

 

「見ないで! お願いだから! ワタル!」

「ナギ! おい! 何されてんだよ、これ!」

 

 ワタルが手すりを乗り越え、フロアに飛び降りた。

 警備兵が駆け寄ってくるが、目に入らない。

 

「誰にやられた! 誰が!こんなことを!」

「違う! 違うの!」

 

 ナギは叫んだ。

 

「私が……好きでやったの! だから、帰って! 関わらないで! 忘れて! 私のことは!」

「そんなわけないだろう!」

「私が選んだの! 私が決めたことなの!」

 

 嘘である。

 自分の尊厳を守るための、やぶれかぶれの嘘だった。

 

「嘘だ!」

「嘘じゃないっ!!!!」

「お前の夢はピアノだっただろ! こんなの……こんなのがお前の夢なはずがない!」

「っ!」

 

 ワタルの叫びに、ナギの表情が崩れた。

 ピアノ。

 その単語が、弾丸のように彼女を貫いていった。

 

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