## 熱と腐臭
ワタルはダクトの中を這っていた。
迷いはなかった。
アプリが指し示していた場所。ナギが隠していた場所。そして今、彼女が逃げ込んだ場所。
第3プラント。
換気ダクト内は灼熱だった。
動力炉からの廃熱が循環機能の不全によって滞留し、狭い管内をオーブンのように加熱している。
温度は50度を超えているだろう。
吸い込む空気が熱湯のように重く、気管支を灼きながら肺へと落ちていく。
作業服は既に汗で飽和し、皮膚に張り付いて動きを阻害する「拘束衣」と化していた。
目に入る汗がしみる。喉が渇いて張り付く。
狭い。暗い。熱い。
自分が焼却炉に向かうゴミになったような、じわじわとタンパク質が変性していくような恐怖。
だが、熱よりも耐え難いのは「臭い」だった。
高電圧によるオゾンの鋭い刺激臭。焦げたゴムの臭い。
そして、それらに混じって漂う、何かが腐ったような甘ったるい有機的な臭気。
ワタルはまだリアルの怪獣を知らない。
映像として知り、情報として知っているだけだ。
だからこそ、その臭いは衝撃だった。
熟しすぎた果実と鉄錆、そして古い血液が発酵したような、脳の嘔吐中枢を直接蹴り上げる冒涜的な悪臭。
口の中まで、腐敗した花が混ざったような死の味が広がっている。
脳が『これは毒だ』と悲鳴を上げ、胃の腑を裏返そうとする本能的な拒絶。
吐き出そうとしても、その空気自体が味を持っているかのようで逃げ場がない。
本能が警鐘を鳴らしている。
ここに行ってはいけない。
ここから先は、人間が踏み入れてはいけない領域だ。
胃の腑から酸っぱいものが込み上げてくる。吐き気をこらえ、手足についた煤を拭うこともできず、匍匐前進を続ける。
ガリ、ガリ、と膝が鉄板に擦れる音が、早鐘を打つ心音と重なる。
ワタルは進んだ。
恐怖よりも、怒りが勝っていた。
(誰が! ナギに! あんなことを!)
さっき見た「ない腕」の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
あそこで何が行われているのか。
誰が、ナギの腕を奪ったのか。
(確かめるんだ、絶対に!)
たとえその先に、どんな地獄が待っていたとしても。
ダクトの出口が見えた。
通気口のルーバー越しに、赤い光が毒々しく漏れている。
耳を澄ますと、地響きのような音が聞こえた。
ドクン……ドクン……。
ボイラーや発電機の音ではない。
不規則で、粘着質で、巨大な質量を持った何かが蠢く音。
巨大な生物の心臓が、鉄の壁の向こうで脈打っているような生々しい振動。
その重低音《バイブレーション》は、ダクトの金属壁を伝って、ワタルの腹の底と共振し、内臓を不快に揺さぶり続けていた。
## 赤い根の温床
ワタルは通気口のルーバーを蹴り開けた。
だが、すぐに飛び降りることはしなかった。
ダクトの出口は、フロアからはるか頭上、天井付近を走るメンテナンス用の足場《キャットウォーク》の影にあったからだ。
ワタルは足場に身を乗り出し、金網越しに眼下を見下ろした。
そこは、広大な調整室だった。
天井までの高さは30メートル以上あるだろうか。壁一面に無数のモニターとパイプが埋め尽くされている。
誰も、見上げてなどこない。
部屋を埋め尽くす冷却ファンの轟音と、不気味な心音が、ワタルの立てた小さな物音を完全にかき消していた。
それに何より、職員たちの視線は、部屋の中央で強烈なスポットライトを浴びて鎮座している「それ」に釘付けになっていた。
頭上の暗がりになど、誰も興味はないのだ。
だが、何よりも異様なのは、その部屋の中央にあるものだった。
それは巨大な「ムカデ」の頭部だった。
Class A 怪獣『スコポレンドラ』。
かつて地上に降下し都市を蹂躙。軍によって鹵獲され、再びこの宇宙へ引き上げられた「生きた標本」。
高さ十メートルはあるその頭部は、多節構造のシリコン装甲に覆われ、無数の鋭利な顎が虚空を噛むように固定されている。
表面は焼け焦げ、無数の拘束具でがんじがらめにされ、生命維持装置に接続された異形の神。
その眉間が割られ、桃色の脳髄が剥き出しになっていた。肉の花弁が開くように、ねっとりと湿った輝きを放っている。
彼女はそこにいた。
「…………!」
その剥き出しの脳髄の真ん中に、ナギが埋まっていた。
白衣のような薄い医療ガウン一枚を身にまとい、磔にされていた。
まるで宗教画に描かれる聖女のような、痛々しいほどに神聖な姿だった。
その周囲を満たすのは冒涜的な機械と肉の融合だ。
彼女には手足がなかった。
右腕だけではない。
左腕も、両の足も、存在しなかった。
埋まっているだけだと思って、思いたくて、目を凝らし、彼女を注視したが、そんなものは存在しなかった。
彼女の背骨や、そして切断された両手足に沿って、無数の「赤い根」が伸びていた。
血管のようにも、植物の根のようにも見える太い生体ケーブルが、彼女にまとわりついいていた。
ジュルリ、ジュルリ。
それらは生き物のように脈打ち、粘ついた音を立てながら、何かの液体をナギの体内へと送り込んでいる。
ナギが怪獣にされようとしているのだ。
(違うッ!)
本能が、その異形を理解することを拒否した。
しかし、圧倒的な事実が、視界を埋め尽くしていた。
『同調率、臨界突破。K・レセプタ個体、精神汚染深度3へ移行』
『排熱、追いつきません。冷却ゲル圧力を上げろ』
スピーカーから流れる無機質な報告。
ナギは人間であることをやめさせられ、怪獣を制御するための「生きた中枢ユニット」にされようとしていた。
それとは対照的な、甘く、濡れた声が響いた。
「あ……、ああっ……くぅウ……」
ナギの瞳は虚ろだった。
口元から唾液が糸を引き、半開きの唇から恍惚とした吐息が漏れていた。
苦痛ではない。
あごが上がり、背中を反らせているその姿は、まるで快感に溺れているように見えた。
だがそれは違う。
強制的に異物と繋がることへの苦痛を和らげるための麻痺剤が、彼女に流し込まれていたのだ。
個我を溶かされることで得られる、破滅的な陶酔感。
脳髄を直接愛撫されるような、逃げ場のないエクスタシー。
「な……ナギ……?」
ワタルが思わず声を漏らした。
その声は小さかったはずだ。冷却ファンの轟音にかき消されるほどに。
だが、ナギは反応した。
虚ろだった焦点が、ゆっくりと結ばれてゆく。
ワタルと目が合った瞬間。
「っ!?」
彼女の目が大きく見開かれた。
恍惚が一瞬で「羞恥」に変わる。
裸を見られたのではない。
もっと深い、魂の最も恥ずかしい部分、獣に堕ちている自分を見られたような絶望的な恥辱だった。
「見ないでぇぇぇ!!」
彼女は自分を隠そうと身をよじった。
だが、手足は怪獣の脳と融合し、磔にされているため、指一本すら動かすことができない。
そもそも指がない。
手もない。肘もない。
恥部を隠す腕さえ、今の彼女にはなかった。
ただ首を振って、涙を撒き散らしながら泣き叫ぶしかなかった。
「見ないで! お願いだから! ワタル!」
「ナギ! おい! 何されてんだよ、これ!」
ワタルが手すりを乗り越え、フロアに飛び降りた。
警備兵が駆け寄ってくるが、目に入らない。
「誰にやられた! 誰が!こんなことを!」
「違う! 違うの!」
ナギは叫んだ。
「私が……好きでやったの! だから、帰って! 関わらないで! 忘れて! 私のことは!」
「そんなわけないだろう!」
「私が選んだの! 私が決めたことなの!」
嘘である。
自分の尊厳を守るための、やぶれかぶれの嘘だった。
「嘘だ!」
「嘘じゃないっ!!!!」
「お前の夢はピアノだっただろ! こんなの……こんなのがお前の夢なはずがない!」
「っ!」
ワタルの叫びに、ナギの表情が崩れた。
ピアノ。
その単語が、弾丸のように彼女を貫いていった。