## 回想
数週間前のことだ。
そこは、無影灯に照らされた閉鎖空間だった。
壁も床も、天井さえもが雪のような『白』で塗りつぶされている。
窓はない。
空気は完全循環システムによって濾過され、埃ひとつ、生活の匂いひとつもしない。
まるで世界の裏側に隔離されたような、行き場のない無機質な静寂だけがあった。
ナギの前に、一枚の手術同意書が置かれていた。
紙切れ一枚。
そこに書かれた文字が、彼女の人生の終わりを意味していた。
『四肢切断手術同意書』
目の前には白衣の医師と、軍服の男――教官が立っていた。
「……ケイレセプタ?」
「そうだ。君はK・レセプタ、怪獣因子受容体だ。人類でも数少ない、怪獣の細胞を受け入れられる体質の持ち主だ」
教官の言葉は淡々としていた。
感情の一切こもらない。今やロボットですらしないような、事実だけを並べる口調。
「プロジェクト・ゴーレム。人を怪獣の脳と接続し、新たな兵器として奴らを操る計画だ」
まるで明日の天気を告げるように、彼女に「人間をやめろ」と告げているのだ。
「い、嫌です……!」
「安心したまえ、手足を失うだけだ」
男はモニターを指差した。
そこに映し出されたのは完成予想図だった。
怪獣の頭部に、人間が埋め込まれ、四肢を切断されて中枢神経を直結されている設計図。
はりつけのようにも見える姿は、まさに人柱だった。
「失うと言ったが間違いだ。怪獣が、君の手足になる。それだけだ」
「…………!!!!!!」
ナギは震える手で書類を突き返した。
嫌だ!
絶対に嫌だ!
吐き気がする。そんな姿を想像するだけで気が狂いそうだ。
だが、教官は無言で壁のモニターを切り替えた。
ニュース映像だった。
オーストラリア大陸、メルボルンが炎に包まれていた。
逃げ惑う人々。瓦礫の下敷きになる子供。泣き叫ぶ母親。
テロップに『死者300万人』の文字が流れていた。
戦争でも災害でもない。
たった一匹の怪獣を、軌道上で撃ち漏らした。
それだけのことで、これだけの災厄を地上にもたらしたのだ。
「君も知っての通り、怪獣との戦いは過酷を極めている。現在の我々では、怪獣を衛星軌道上で倒しきることは叶わず、たった一回の迎撃に失敗しただけで、これほどの命が失われてしまう」
教官の声が低く響いた。
脅しではない。
事実としての重みだ。
「次は学園《ここ》かもしれない。君の大事な友人も死ぬだろう。ワタルくんだったかい? 君の大事な友達だって」
「!」
男は床に落ちた同意書を拾い上げると、再びナギの前に差し出した。
静かに、丁寧に、穏やかに。
それは選択肢ではなかった。
処刑宣告であり、同時に踏み絵だった。
「君の腕一本と、人類100億の命だ」
逃げ場のない正論だった。
数の暴力だった。
功利主義という名の悪魔の天秤だった。
「…………!」
ナギの瞳が小さくわなないた。
涙が溢れ出し、首がわずかに横に揺れた。
嫌だ、嫌だと言いたいのに、喉が張り付いて声が出なかった。
断れば、ワタルが死ぬかもしれない。仲間たちが死ぬかもしれない。
別の場所に落ちれば、何百万という命が失われてしまう。
その責任を、一生背負って生きていけるのか。
「わ、わたしは……!」
100億という圧倒的な数字の前では、塵芥に等しい「エゴ」だった。
## 尋問室
ドカッ!
腹を思い切り、蹴り上げられた。
ワタルの視界が火花を散らして極彩色に明滅し、次の瞬間には床の冷たいタイルの感触が頬に伝わった。
肺から空気が強制的に絞り出され、ヒューヒューという無様な音しか出ない。
口の中が切れ、生温い鉄錆の味が支配する。
ここは無機質な尋問室だ。
倒れた拘束椅子の脇で、ワタルは虫のように床を這っていた。
取り押さえる兵士たちの軍靴に、加減はない。
今のワタルは、ただの犯罪者だった。
「落ち着け、ワタル候補生。吠えたところで何も変わらん」
「落ち着けるわけないだろ! あんたら、おかしいのか!」
憲兵官の声は、冬の空のように冷え切っていた。
ワタルは胃液が逆流する不快感に耐えながら、血混じりの唾を吐き捨てた。痛みを怒りに変換しなければ、圧倒的暴力の恐怖で心を失いそうだった。
「あんたら……狂ってる! ナギを、あんな……人間をあんな風に扱うなんて、どうかしてる!」
「彼女は『自分で選んだ』んだ。法的な手続きには一切の瑕疵はない」
「ふざけるな! あんな同意書、脅して書かせたんだろう!」
勝手に断言した。
脳裏に焼き付いた、プラント3の深部。
手足を奪われ、怪獣の脳と融合させられ、羞恥の涙を流しながら「自分が選んだ」と言わされていたナギ。
あれが人間の、ましてや女の子の末路であっていいはずがない。
「ナギは……、ピアニストになりたかったんだ……、それを!」
「彼女はたった一人のK・レセプタだ」
「部品みたいに言うな! 人間だ!!」
「部品だよ。我々もな」
憲兵官は冷徹に言い放ち、ワタルの胸倉を掴み上げた。
その左手の感触に、ワタルは息を呑んだ。
硬い。
骨ばった感触ではない。
機械の感触だった。
手袋の中にあるのは、機械だった。
おそらくはむき出しのカーボンと強化プラスチック。
精巧な義手ではない。細くて、柔らかくて、人間のそれのように、ちょっとしたことで折れたり、曲がったりする指ではない。
激しい使用にも耐えられるよう、作業用アームのように無骨で、傷だらけで、人間らしい温かみの一切ない、ただの「機能部品」だった。
「100億。この数字が理解できるか?」
「……なんだよ、それが」
「地球圏に住む全人類の数だ。君が彼女を『人間』として扱いたいと願うたびに、この巨大な数字が天秤の反対側で消えていく。ピアニストになりたい。それもいいだろう。代わりに何百万人が怪獣の牙に掛かる。それがこの世界の方程式だ」
「ナギは女の子なんだぞ! それをよくも……! あんな……! 腕をッ!」
ワタルの声が涙で裏返る。
言葉にならない嗚咽が混じった。
「世界が滅んでもいいと?」
「そんなことは言ってない!」
「逃げるな、小僧!」
憲兵官はワタルの前髪を掴み、強引に顔を上げさせた。
至近距離で睨みつけられる、死人のような眼光。
そこにあるのは悪意ではなく、あまりにもまっすぐな絶望だった。
「彼女しかいない。彼女しか、あの怪獣と一体になれるK・レセプタはいないんだ。代わりがいない。それが事実だ! 世界の現実だ!」
「だ、だからって!」
「お前は何ができるんだ? 代わりに手足を切り落とすか? それで誰が救えるんだ? 100億の命が救えるのか!? ああん!!」
唾が顔にかかるのを拭うこともできず、ワタルは言葉に詰まった。
反論が出来なかった。
この男が突きつけてくる「100億」という質量が、口を塞いでいった。
「ち、違うっ、俺は、そんなことを言ってるんじゃ……」
「逃げるなと言ってるだろう!」
拳が飛んできた。
衝撃。頬骨がきしむ音。
ワタルは再び床に転がった。意識が飛びかける。
「文句なら聞いてやる! お前が怪獣どもを根絶やしにしたあとでならばな! できないなら黙っていろ! 部屋に戻って、枕に頭を突っ込んで、気の済むまで一人わんわん泣いていろ! 今の我々に子供の寝言を聞いてる暇はない!」
憲兵官たちは部屋を出て行った。
鉄の扉が閉まる音が、静かに響いた。
残されたワタルは、冷たい床の上で拳を握りしめた。
爪が皮膚に食い込み、血が滲んだ。
その痛みだけが、今の自分に許された唯一の抵抗だった。
だが、気づいた。
こんな痛み、ナギが感じている痛みの万分の一にも満たない。
満たないのだ。
「くっ……、ううっ、あああああああ!」
嗚咽が漏れた。
床に流れる自分の涙が、あまりにも無力で、無価値で、死ぬほど惨めだった。