## 虚構の翼
翌日、午前十時。戦術シミュレーター室。
油圧ポンプの唸りだけが、閉ざされた空間に響いていた。
「反応が遅い! レゾナンスがないと何もできないのか!」
訓練教官の罵声が飛ぶ。
ワタルは模擬コクピットの中で、脂汗を垂らしながら操縦桿と格闘していた。
実機とは違う、訓練専用の油圧式コクピットだ。
脊髄プラグはない。神経接続《レゾナンス》もしない。
あるのは、重たい物理レバーとフットペダルだけだ。
モニターの中の怪獣が、赤い警告色と共に迫ってきた。
「くそっ……動けよ!」
ワタルは強引にレバーを倒した。
ガコン! という無骨なスイッチ音が響き、油圧が唸る。
画面上の自機がワンテンポ遅れて反応し、無様に転がるように回避行動をとった。
重い。
自分の手足のように動く共鳴駆動《レゾナンス・ドライブ》とは違う。
鉄の塊を、ワイヤーと油圧を通じて無理やり動かしているような、泥臭い抵抗感。
筋肉が悲鳴を上げている。太ももが痙攣している。
思うように動かないもどかしさが、ナギへの感情とリンクした。
『忘れて』
『私に関わらないで』
昨夜の拒絶がフラッシュバックした。
心の中はナギの言葉でいっぱいだった。
泣いていた。助けたかった。
でも、拒絶された。
「私が選んだ」という彼女の嘘が、棘のように心臓に刺さったままだった。
何もできなかった。
ただナギの失われた右腕を見て、立ち尽くすしかなかった。
無力だった。
ただの子供だった。泣きわめくだけのガキだった。文句を言うだけの小僧だった。
あんな目にあっているナギを前にして、自分は五体満足で、こうして安全なシミュレーターの中でゲームをしている。
その事実が、たまらなく気持ち悪かった。
「脳波に頼るな! 機械式《マニュアル》の挙動を体に叩き込め!」
訓練教官の声が、ワタルの甘えを断ち切るように響いた。
「システムが死んだ時、お前を救うのはその腕力だけだぞ! 泣き言を言う前に腕を動かせ!」
ワタルは歯を食いしばった。
レバーを握る手に力が入りすぎる。
昨夜、ナギの手を掴んだ時の感触。
冷たい金属の感触が、まだ掌に残っている気がした。
あの冷たさを、どうすれば温めることができたのか。
どうすれば、引き留めることができたのか。
どうすれば。
「わかってるよ……! クソッ!」
彼は怒りをぶつけるようにフットペダルを踏み込んだ。
画面上の敵をロックオンするが、涙で滲んで照準が定まらない。
心の乱れが、そのまま操作の乱れになる。
それでも、ワタルはレバーを放さなかった。放せなかった。
この重たい鉄塊をねじ伏せなければ、何も掴めない気がしたからだ。
ナギの手を掴み返す資格さえない気がしたからだ。
## 選択の時
その時は、唐突に訪れた。
ギィィィィィィン………………!!!
耳をつんざくような高周波。
レーダーが真紅に染まり、警告音がコクピット内を暴れまわる。
『敵勢体確認! 距離3000! 相対速度マッハ2!』
『識別コード、Grade I Class A ... "Arachne"(アラクネ)!!』
訓練ではない。
本物の警報だ。
学園全体が「震えて」いる。
まるで巨大な万力で締め上げられたかのように、ステーションの外殻構造材《ハル》そのものが悲鳴を上げているのだ。
金属疲労の断末魔。
シミュレーターの照明が赤く明滅し、電源が落ちた。
『コード・レッド! 対虚空防衛障壁、消滅! 第2区画、外壁破損! 侵入者あり!』
非常放送が告げた、その場所――第2区画の外壁。
漆黒の宇宙空間《真空》には音がない。
その静寂を破って、白い外壁を食い破ってくる何か。
Grade I Class A『アラクネ』。
蜘蛛のような多層構造の肢体を持つ怪獣だった。
その体表を覆うのは、醜悪な粘液や皮膚ではない。
宇宙の極低温で結晶化した、高純度シリコンのとてつもなく美しい輝きだ。
星の光を反射してプリズムのように煌めくその脚が、学園の装甲壁を、まるで薄い紙のように無音で引き裂いていく。
残酷なほどに美しく、静かな浸食。
スローモーションのように、強化ガラスが粉々に砕け散り、圧縮空気が白い霧となって宇宙へ噴き出していく。
ドォォォォォン!!
遅れて、その衝撃は離れたシミュレーター室まで到達した。
空気が震えたのではない。床が跳ねたのだ。
真空からの破壊音は、靴底を通して全身の骨を揺らす「波」として伝わり、内臓を突き上げた。
「おいワタル! ボサッとするな、死ぬぞ!」
同級生のカイゼンスが、ヘルメットを被りながらワタルの腕を引いた。
逃げなければ!
本能がそう告げていた。
ナギのことは?
胸が締め付けられた。
ステーションの最深部に閉じ込められているナギのことは?
(俺は、無力だ)
言いたいこと言うだけで、ナギを苦しめただけだった。
彼女の涙すら止めることができなかった。
役立たずだから、拒絶されたのだ。
(ただのクソガキだ!)
今は命令に従えばいい。それが最善だ。昨日のことは忘れて、ただの生徒に戻って、安全なシェルターで震えていればいい。教官はそう言った。それが賢い大人の判断だ。
『プラント3の安全ロックを解除。総員避難せよ、ただちに総員避難せよ』
艦内放送が、無慈悲な決定を告げた。
ワタルの足が凍りついたように止まる。
第3プラント!
あの「赤い根」が、さらに激しく脈動し、ナギの神経を強引に焼き切る光景が脳裏に鮮明に浮かんだ。
(奴らはナギを怪獣にすると言った)
戦わされるのか? ナギが。
身も心も怪獣にされて。
怪獣の一部となって。
「…………っ!」
ナギが消耗品として使い潰される。
自分たちが逃げ延びる、その時間稼ぎのために、彼女の命が薪としてくべられる。
「何してんだ! 行くぞ! ここも区画閉鎖されるぞ!」
ワタルの足が一瞬, カイゼンスの方へ動きかけた。
生きたい。
大人の言う通りにしたい。
お前は無力だと言われたことが、赦しの言葉に変わる。
逃げればいい。
何もしなくていい。
だって、お前は無力だから。
無力だから、何もできなくても、仕方のないことなんだ。
その欲望が足を引っ張る。
けれど, その先の未来――生き延びた自分が、赤い点の消えた位置情報アプリを見つめている姿が見えた。
あの画面の向こうで、ナギはもう二度と動かない。
ただ、死んでいく。
それでいいのか!?
ワタルは思った。
行っても助けられないかもしれない。
かもしれないではなく、まず助けられない。
今の自分には、ナギを救えるだけの力がない。
それでもだ。
力がないことと、何もしないことは違う。
どうしたいかだ。
今の自分がどうしたいかだ。
(ナギを助けたい!!!!)
たとえ死ぬとしても、いや、死ぬからこそ、後悔のない道を歩みたい。
たとえ犬死にだろうと、たどり着いた果てにナギに拒絶されようとも、それどころかナギのもとへたどり着くことすら出来なかったとしても、それは何もしないことの理由にはならないのだ。
自分は、今、どうしようもなく、ナギを放って置けないのだから。
「俺は……、行く」
ワタルは、差し伸べられたカイゼンスの手を振り払った。
いや、カイゼンスを「見て」はいなかった。
ここではない場所、最深部にいるナギのことだけを考えていた。
「ナギは……泣いてたんだ」
「はあ? 何言ってんだお前! 今はそれどころじゃ……」
「理屈なんか知るかよ!!」
ワタルは逆方向へと走り出した。
避難経路ではない。
警告灯が赤く明滅し、隔壁が降り始めている死地へ。
「ワタルーッ!!」
カイゼンスの叫びが遠ざかっていく。
頭上で構造材が悲鳴を上げ、天井が歪んだ。
崩落の予兆がきしむ通路を、ワタルは獣のように駆けた。
(目指すのは格納庫《ハンガー》!)
この鉄の棺桶の中で、唯一、運命に抗うための「牙」が眠る場所へ。
そこには、量産型ドライバー『モリビト(守人)』があるはずだ。